日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

地方に必要な力とは?

2022-12-14 20:14:30 | ビジネス

最近、YouTubeを仕事の合間に見ていて気付くことがある。
それは、様々な地方自治体が積極的に、YouTubeに広告を出している、ということだ。
これらのYouTube広告の多くは、自治体の中でも「観光」を担当している部署が中心となって、製作されているようで観光PR色が強いものとなっている。
ただ、これまでと大きく違うのは、「素の自分たちの地域」を見てもらう、という意識が強く感じられることだ。
福島の場合、東日本大震災によって引き起こされた「東京電力福島第一原子力発電所事故」の影響がまだまだあるようで、「福島の海」をテーマにしているようだ。
一方、栃木の観光PR動画は、雄大な雪景色を背景にスノーシューで、雪山を歩いてみたり、凍結した滝を歩くツアーをドローンを使って撮影している。

このような自然の豊かさをPRする映像には、ドローンが多様されているのだが、いくつもの自治体の動画を見ていると「どこか似ているな~」という、印象を持ってしまう。
おそらく、このようなPRを広告代理店が行っている、ということやドローンで撮影された映像が多様されている、などの理由で「似たような映像」になってしまっているのかもしれない。
とはいえ、今まで知らない地方自治体の姿をYouTubeで見ることができる、というのは「旅心」を誘う気がしている。

問題なのは、上述したようにドローンを多用するコトで「似た印象」に陥ってしまう、という点なのかもしれない。
とすれば、地方行政の担当者であっても、それなりの「デザイン力・構成力・発信力」といった力が、必要な時代になっている、ということなのだと思う。
そんなことを考えていたら、今日のHuffpostに同様の記事があった。
Huffpost:「よその人が言うと文句になるが、地元の人が言うと愛着に」地元クリエーターの力を生かす地域デザインファクトリーとは? 

東日本大震災以降、日本で起きた様々な震災から復興を支援するFM番組を聞いていて感じる事なのだが、復興が軌道に乗っている地域と復興が進まない地域がある、と感じている。
もちろん、「東京電力福島第一原子力発電所事故」により、住民全員が避難を余儀なくされ、未だに住民の多くが戻っていない、という自治体があるのは知っている。
そのような事情がある自治体はともかく、災害復興から「自分たちの街をつくろう」という住民の気持ちが強い地域と、そうではない地域とでは復興状況に差が出ているような気がしている。

その差のようなモノには、地元出身の都市デザイナーや若い起業家たちの有無のような気がしている。
年齢ではなく、地元から一旦都市部に出て、Uターンしてきたシニアの方もいれば、「復興地だからこそ新しいチャレンジができる」と勢いこんできたIターンの若者など、経歴は様々だ。
ただ「愛着が持てる街づくり」という点では、同じ思いを持っているのでは?と、感じている。

これまでは、「工業団地をつくり、企業を誘致すれば人口が増え、活気ある街づくりができる」と思いこんでいた自治体が多かったはずだ。
しかし、YouTubeなどに動画広告を上げている自治体は、「自分たちの地域資産は何か?」ということを考え、旧来の街づくりではない賑わいを作ろうとしている。
そのためのデザイン力や構成力、何より発信力が、地方の行政に求められているように感じている。


「共感を得る」ことの難しさ

2022-12-12 13:44:14 | アラカルト

しばらく前、英国などの美術館で缶詰のスープなどを使い、名画を汚すという人達が話題になったことを、覚えていらっしゃる方も多いと思う。
その時、「名画にトマトスープをぶちまけても、抗議行動とは思われず、単なる暴力的行為としか思われないのでは?」という感想を持った。
美術愛好家でなくても、そのような感覚でこれら一連の事件を見ていた方も、少なくないと思う。
その「名画にトマトスープ投げつけ事件」について、Huffpostに検証的な記事があった。
Huffpost:”名画にトマトスープ”を「過激な行動」で終わらせていいのか。批判に潜む”特権”とは? 

この抗議行動の真意は「地球も名画も唯一無二の物」という視点での抗議であって、どちらも失ってはいけないモノ、ということだったのでは?と、Huffpostの記事にはある。
確かに「名画も地球も唯一無二」ではあるが、果たして「抗議活動」として効果的であったのか?という点だ。
このニュースが報じられた時、美術が好きな方は怒り心頭だったのでは?
美術に興味が無くても、名画として知られた作品ばかりだったので「美術品にスープ缶を投げつるなんて、意味が分からない」という方も、いらっしゃったと思う。
あるいは、記事中にあるように「単なる目立ちたがり屋」と、感じられた方もいらっしゃったのではないだろうか?
感じ方は人それぞれなので、一つの感想にまとめることは難しいと思うのだが、共通する感想の一つは「共感できない」ということだったのでは、無いだろうか?
もちろん、複数の美術館でこのような事件が起きたことを考えれば、ある一定数の共感者はいると思う。
問題は、その共感者が限定的である、ということだろう。

このような活動に限らず、社会を大きく動かしてく為には「共感者」となる人たちを増やし、その共感者と一緒になって活動を展開することで、新たな共感者を増やしていく、ということだと思う。
そしてその方法は、一つではない。
例えば、投資に興味がある人であれば「脱炭素を実践している企業」に投資をする、という方法がある。
商品を購入するときでも、製品表示を確認するようにその製品を作っている企業や輸出国がどのような「脱酸素政策」をとっているのか?ということを考え、商品を選ぶことで「脱炭素企業を支援する」ということもできる。
「もっと積極的にかかわりたい」というのであれば、大学などで開催される市民公開講座などに参加し、より実践的な「脱炭素」についての理解を深める、ということも一案だろう。
あるいは、「脱炭素社会」が難しい途上国に対して、どのようなサポートができるのか?と考え、共感できるNPOをサポートする、ということも良いかもしれない。

一時の注目を浴びる事で、社会を動かすほどの共感を得られるのは難しい。
だからこそ「継続的に注目される共感性」とは?ということを、考えつくしていくことが大切なのではないだろうか?








防衛費の増額に思う

2022-12-11 21:38:25 | 徒然

先週、にわかに話題となっている「防衛費の増額」。
現在話題となっているのは、その原資だ。
増税なのか?国債の発行なのか?という点で、岸田首相の「段階的増税」という発言によって、「様々な物価が上昇し、実質賃金が上がっていないような状況での増税は、国民から反発を受ける」という内容の発言が、与党内から出ているようだ。
産経新聞:首相、防衛費増額で国債否定 増税「複数年かけ段階的に」 

今のような円安の状況で、増税をするとなれば国民からの反発は必至だろう。
増税の矛先(?)は、企業にも向いていることから、財界からの反発も予想される。
「憲法九条を守る」という趣旨で活動をされている団体とは別に、今の状況での「防衛費増額」は、防衛という視点ではなく、経済という視点で反対が出る、というのが今の日本の経済状況なのではないだろうか?

ただ、防衛費増額の前に一つ考えたいことがある。
それは、過去の領空・領海侵犯に対しての日本政府の態度だ。
覚えていらっしゃる方も多いと思うのだが、「尖閣諸島の度重なる領海侵犯」ということがあった。
この時、海上保安や海上自衛隊は、領海侵犯をした潜水艦の国籍を把握していた、と言われている。
しかし、日本政府は領海侵犯を犯した国に対して、積極的な抗議を行うことは無かった。
一節には、「経済関係を重視して」ということも言われていたと思うのだが、「領海侵犯」と「経済関係」は、同一の問題ではないはずなのだ。
例え相手国が、国連の常任理事国の一つであったとしても、日本の領海に堂々と侵入をし、それなりの調査活動を行っていたのだ。
独立国として、日本は正式なルートを通して、「遺憾」ではなく「抗議」をすべきではなかったのか?という、気が今でもしている。

このような「領空・領海侵犯」を繰り返すことで、相手の国々は日本の「弱腰外交」と呼ばれる外交政策を、見てきたのでは?ということなのだ。
「経済問題」としてすり替えたのは、第二次世界大戦後の「敗戦国・日本」という立場があったからなのでは?という気がしているが、それとは別に独立国・日本という立場もあるはずなのだ。
確かに、米国の「核の傘の下」で日本は、飛躍的な経済成長を遂げる事ができた。
それは紛れもない事実だ。
「米国の核の傘の下」にいるから、米国の顔色を窺い、「経済発展が目覚ましく、経済互恵関係重視」という理由で、「領空・領海侵犯を繰り返す国」に、「抗議をしない」ということは、果たして日本という国の利益になっているのだろうか?という、ことなのだ。

最初の弱腰な対応が、今「防衛費増額」ということに繋がっているのでは?という検証を、何故誰もしないのだろう?
その部分を政府がきちんと明言をせずに、「防衛費増額」という点だけをクローズアップされるようであれば、過去「防衛費増額は、日本が武力強化に乗り出し、危険なことだ」という近隣国の喧伝に使われるだけのような気がするのだ。




「人が出会う場所」が必要だ

2022-12-08 20:12:21 | アラカルト

ファッション専門誌のWWDのサイトを見ていたら、「コロナ禍後」に必要なモノとは何か?と、考える記事があった。
WWD Japan:渋谷・神南の公演のファッションイベント盛況 仕掛け人は設計事務所 

「コロナ禍」になる前から、東京に行く機会がほとんどなく、まして渋谷などは30年以上前に行ったっきりで、今の渋谷を知らない。
ハロウィンなどで、大騒ぎをする渋谷の交差点位しか、思い浮かばない。
その程度の情報しかないので、渋谷から神宮南あたりで、空き店舗が増えているというイメージを持っていなかった。
やはりここ3年ほどの流行り病で、人出が減ったことで撤退をする店舗が増えている、ということなのだろう。

そのテコ入れ策を打ち出したのが、大手設計事務所の日建ということのようだ。
日建側としては、街の活気を取り戻すことで新たな店舗設計の依頼があるのでは?という、期待があるのだと思う。
もう一つあるとすれば、「街のリノベーション」だろう。
「街の活性化」というよりも、「街をつくり変える」というニュアンスで「リノベーション」の方が、イメージしやすいと思う。

その中心となるのが、「公園」ということのようだ。
確かに「公園」という場所は、様々な人が集まりやすい場所でもある。
都会の公園では、ボール遊び禁止とか、大きな声を出さない、砂場は撤収という状況になっているとは聞くが、緑あふれる公園であればそのような規制はあまり関係がないのかもしれない。
そのような場所で、ゆったり・のんびり時間を過ごす、というのは「コロナ禍」の中では、贅沢な時間となっているような気がしている。
何より、「コロナ禍」で「人と出会う」ということが制限されてきた為に、社会全体が「対人」という感覚を失いつつあるのでは?と、感じることがある。
何より、室内に籠る生活が長くなることで、どことなくイライラしている人が増えているのでは?と、感じる場面が増えている気がしている。

以前から、日本の社会は「自己責任の社会」と言われ、個人に対して厳しいことが多い。
それが「コロナ禍」によって、よりいっそう強くなってしまったのでは?ということなのだ。
とすれば、緑豊かな公園で様々なイベントやマーケットを見てまわるだけでも、気分は随分リセットされるのでは?
その「気分のリセット」がされることによって、また新たな活気が街に蘇ってくるということへの期待が、あるのではないだろうか?

「街に活気を取り戻す」為に一番必要なことは、「人が集まる場所がある」ということだ。
人が集まることで、情報が交換され広がっていく。
これが「楽市楽座」の考えのもとだったはずだ。
街に賑わいを取り戻すことで、また新たな人を呼びより一層の賑わいとなる。

そしてこの仕掛けをしているのが、日建という設計事務所である、ということもまた、重要なポイントだろう。
ファッション関係、物販、飲食と様々な業種が集まるとなると、全体のバランスを考えなくてはならない。
どの業種にも属さないことで、ある種の公平性を保つことができるはずだ。

一見何の関係もない業種が、中心となって「人が集まる場づくり」を仕掛けるのは、違和感を感じるはずだが、むしろ関係がないからこそ、自由に人が集まれる場を仕掛ける事ができるのでは?と、考えている。







「新型コロナ」の陽性者数に疑問

2022-12-06 20:53:28 | 徒然

日本ではいまだに「新型コロナ」の陽性者数を各都道府県が、毎日発表をしている。
そして、この毎日発表される「新型コロナ陽性者数」だが、その日の陽性者数だけを見て、一喜一憂しているような気がしていた。
陽性者数が、日々増えているのであれば「感染拡大中」ということになると思うのだが。「第8波」と言われるようになってから、毎日発表される「陽性者数」に、違和感を感じているのだ。
Impress Watch:愛知県 新型コロナウイルス状況 

私が違和感を感じている理由は、1週間の間で「陽性者数」の最大数と最小数の差が大きすぎる、という点だ。
もう一つは、ある程度の期間で「陽性者数」が増減すれば、それは「流行の状況」として大雑把ではあるが状況分析のデータとして見る事ができる。
ところが、上述した通り1週間という単位で見ても、数週間という単位で見ても「流行しているのか?」という傾向を見る事がなかなかできない。

このような状況を見ると、「検査数」そのものが違うのでは?という気がしてくるのだ。
「検査数」が増えれば、当然「陽性者数」も増えてくる。
もちろん一番良いのは「検査数」が多くても「陽性者数」が少ない、という状況になれば「収束」の一つの目安となる。
しかし、「検査数」の増減によって、「陽性者数」も増減してしまう、という状況であれば、具体的な「感染者数の推移」として、とらえる事ができない。
その状況にあるのが、現在の「オミクロン株+複数の変異株」ということになるのでは?
そもそも「変異株」が登場する度に、大騒ぎをしているような気がしているのだが、ウイルスそのものは変異を続けることで、生き残ることができる。
「ウイルスは、常に変化し続けるものである」という、基本的な考えに立ち返れば「変異株の出現」に、いちいち騒がなくても良いはずだ、
そのうえで、もし病状として以前の変異株との違いが分かれば、それに対処する為の策を考える、ということになるはずだ。
その対処策が、現在のような「ワクチン接種」のみという対策方法についても、疑問を感じている。
それは「変異株が登場したのでワクチンを接種しましょう」という、呼びかけだ。
数か月後、あるいは数週間後に「変異株」が発生する、というのであれば「モグラたたき」のように、ワクチンを打ち続けなくてはならない。
これは果たして、日本経済にとってプラスなことなのだろうか?
おそらく、今のような状況であれば政府は「2類相当」という政策を続けるのでは?

もう一つ懸念していることは、「陽性者数」を発表し続ける事で必要以上に不安感を与えているような気がするのだ。
この必要以上の不安感が、未だに通勤・通学途中でマスクを着用し続ける、ということにも繋がっていると感じている。
いくら、「通勤や通学などの屋外での活動には、マスクが必要ない」と広報をしたところで、「現実の陽性者数」は単純に増えているという報道しかないので、マスクを外すことに躊躇する人達は、とても多い。
そのような生活者の行動を見越して、「陽性者数」と「死亡者数」だけを発表し続けているのだとしたら、それは生活者の不安を煽るだけのような気がする。




インフルエンサーもラクじゃない

2022-12-05 19:47:09 | マーケティング

Huffpostに「インフルエンサー」についての、記事があった。
Huffpost:インフルエンサーたちの苦悩。華麗な世界の裏で何が起こっているのか? 

「インフルエンサー」という言葉そのものは、SNSの普及と共に一般的になってきた言葉だと思う。
日本では、何故か?俳優さんやタレントさんを「インフルエンサーとして起用しました」という、リリース発表があったりするのだが、基本「インフルエンサー」というのは、InstagramやTikTokなどのSNSのフォロワー数の多い人が、企業が契約をし商品やサービスを拡散できる人を指していることが多い。
俳優さんやタレントさんのように、インフルエンサーとして起用される前から著名な人物、という訳ではない。

そのため「インフルエンサー」になるきっかけというのは、フォロワー数の多さだけではなく起用する企業側が求めている、市場と合致している人、ということになる。
企業のインフルエンサーとなり、その企業の商品をPRしていくということになると、そこに求められるものは何か?と言えば「自分のフォロワーの分析とその思考であり、ライフスタイル」ということになるだろう。
まさに、自分自身で自分のフォロワーという市場を客観的に分析をし、時には起用している企業にプレゼンテーションをする、ということでもある。
表舞台で見るような、華やかさとは別に常に「自分自身」を分析しなくてはならない、というある意味過酷なことを自分に負わせる、ということでもある。
精神的にも、それなりの「強さ」が無くては「企業が満足するインフルエンサー」にはなれない、ということでもあるのだ。

覚えていらっしゃる方も多いと思うのだが、世界的な「コロナ禍」になる前、時折「自分はSNSでフォロワーが沢山いるインフルエンサーだから」と言って、無料宿泊や無料の食事の提供を家族経営のようなホテルやレストランにメールで要求する「自称インフルエンサー」が、話題になることがあった。
「自称インフルエンサー」なので、相手にするようなホテルやレストランは無かったように思う。
おそらく「自称インフルエンサー」の人たちは、企業公認のインフルエンサーの過酷さを知らないのだろう。
「無料でホテルやレストランが使えて、うらやましい~」という程度の羨望と「公認インフルエンサー」に対する妬みのようなものがあったのでは?と、想像することができる。

ただ「人の興味や気は移ろいやすい」。
今現在「企業公認インフルエンサー」であっても、自分のフォロワーが起用している企業の市場と合わなくなれば、契約そのものは終わってしまうだろうし、その前にフォロワーそのものが減っていく可能性もある。
言い換えれば「市場に対する影響力を失う」ということも考えなくてはならない、ということだ。

同じようなことは、「インフルエンサー」と呼ばれる人たちが登場する前からあった。
それは「読者モデル」と呼ばれた人たちだ。
多くの「読者モデル」は、自分のライフステージが変わることで、その世界から引退をしていったはずだ。
ただ「インフルエンサー」の多くは、自分のライフステージとは関係なく、企業やSNSの社会の中から切り捨てられる、という場合があるという気がしている。




グローバルな時代だからこそ、大切なモノ

2022-12-04 20:40:00 | アラカルト

FMを聞いていたら、「なるほどな~」と感じる話があった。
TFM 復興支援PROGRAM Hand in Hand:デザインの力で気仙沼を発信! 『BLACK TRADE BREWING』 

番組タイトルを見ていただければ分かるように、東日本大震災の被災地を応援する番組としてスタートをし、その後新たな震災地となった地域の復興支援をレポートし、「復興中の現在」を伝える番組だ。
番組そのものは、おそらく10年位継続的に放送されていると思う。

その中でも特に、番組制作のきっかけとなった「東日本大震災」の被災地における復興状況のレポートは、継続的に放送されその度に、「地域活性化」について様々な視点やアイディアを感じる事がある。
例えば、東日本大震災の復興のシンボルとも言われている「JR女川駅」周辺。
この復興の為の街づくりの拠点となっている「JR女川駅」を、どのような位置づけとして考えるのか?ということに、当時の小学生(だったと記憶している)が、被災した女川駅を背にしたとき「新しい街の始発点」という風景を想像したという。
その言葉に、復興計画の担当者を含め関係者が「ハッとした」という話がある。
この「街の始発点」という発想から、今現在の「JR女川駅」の再建が始まり、周囲の街づくりが始まった、ということになる。

そして今回の放送で、考えたことは「グローバルな時代だからこそ、地域文化を知ることの大切さ」という点だ。
よく言われることだが、「海外に行くと、日本人としてのアイデンティティとは何か?」お言うことを考えさせられる。
海外の中でも欧米では、自分のルーツとなる文化を知っていることを聞かれることが、少なくないからだ。
「英語や他言語が話せる」ことが、グローバルな人間ではなく、自分のルーツとなる文化を理解し、話せることがグローバルな人間と認められる、ということでもある。

ただ残念なことに、このような視点で地域文化に対しての教育が、しっかりとされているのだろうか?と、疑問に感じる事が最近多くなってきている。
「英語を含む外国語教育」に対しては、熱心な親御さんは多いようだが、自分たちのルーツとなる文化に対して積極的にかかわらせる親御さんは、少ないように感じている。
様々な日本的な年中行事なども、商業主義的なイベントと化しているような気がすることがある。
一般的な年中行事ですら、そのような傾向がみられるのだ。
地域のお祭りやその土地のいわれなどは、知る由もないだろう。
そもそも、学校でもそのような授業はほとんどなくなってきているのでは?という、気がしている。
もちろん、学校の授業で教える・教えないというのは、地域差があるだろうし、指導要綱などでも特に記述がされていないのかもしれない。

そのような状況で、この番組の「自分は、自分たちの地域のことを知らなかった」という言葉は、とても重要だと感じたのだ。
グローバル化の時代だからこそ、世界で活躍するためには、「自分のアイデンティティ」となる生まれ育った地域の文化やその土地のいわれなどを知る必要があり、それが「グローバルな教養」と認められるのではないだろうか?という気がしている。


「ビジネス」の考え方が変わりつつある?

2022-12-03 10:13:44 | マーケティング

Huffpostをチェックしていたら、「ソーシャルビジネス」についての記事があった。
Huffpost:ビジネスの土俵が、私たちを”悪人”のようにする。では、どうすれば?ソーシャルビジネスの先駆者が語る「構造の変え方」 

まず、多くのビジネスパーソンにとって「ソーシャルビジネスと利益を生み出すビジネス」は、基本的な考え方が違うのでは?という、思い込みを持っていると思う。
「思い込み」という表現をしたのは、マネージメントの父と言われている、PFドラッカーが残した数多くの著書の中で「非営利団体」の在り方について「非営利団体だからこそ、利益を追求すべきである」という趣旨のことを書いている。

そもそも「ソーシャルビジネス」と「一般的なビジネス」との違いは、組織や運営方法などが主な違いなど無いのでは?
ドラッカーの言う「非営利団体だからこそ、利益を追求すべき」という意味は、「継続して団体の事業を行う為には、自立した収益を上げる事で自由な活動を社会に対して行うことができる」という、考えがあるからだ。
非営利団体であっても一般的な企業であっても、「事業を継続させる」という点では変わらない、という指摘をされているのだ。
ネーミングを「ソーシャルビジネス」という企業化をすることで、より事業を継続させやすい環境だけではなく、社会の弱者に対する「何等かの経済還元」をしやすくなる、ということがあるからだと考えている。

では、「一般的な企業」と「ソーシャルビジネス」の違いとなるモノは何か?と、考えればそれは事業の目的の中に「社会的ハンディのある人」に対してどのように考えているのか?という点を企業理念の中にどのように取り入れているのか?という点なのでは?と、考えている。
「一般的な企業」の企業理念の中にも「社会に貢献する」という趣旨の内容が、書かれていることが多い。
当たり前すぎて、見落としがちな「社会に貢献する」ということだが、その貢献するという目的には「自社の商品やサービスを社会に提供するコトで、豊かな社会づくりに貢献する」という意味だろう。

今でも、「社会的弱者が、自由に生きやすい社会なのか?」と問われると、自信のある答えができる人は少ないのではないだろうか?
「ソーシャルビジネス」が今注目されているのは、そのような「社会的弱者」と呼ばれる人たちにも事業に参加してもらったりしながら、企業活動をしていく、というビジョンがあるということだろう。
もう一つ注目したい点は、このような「ソーシャルビジネス」に積極的なのは、30代を中心をした若い世代である、という点だ。
彼らは、バブル経済が崩壊した後に生まれたため、日本が高度成長していた時代を知らない世代だ。
逆に言えば、日本が経済低迷している経済状態しか知らない世代、ということになる。
以前であれば、「経済が豊になる飢え」のようなものがある、と考えがちだが、社会が成熟しネットなどで世界と繋がる情報化社会によって「経済が豊かになる飢え」ではなく、「利他的な社会的豊かさ」を求めるようなことを「起業したい」という認識が広がりつつあるのでは?という、ことなのだ。

そのことに気づいた若い世代を、親世代となる「現役シニア」たちが支えるような社会的関係や組織作りが、必要な気がしている。





数年後、車のハンドルはゲーム機のコントローラーになる?

2022-12-01 20:12:26 | アラカルト

雑誌「和楽」のWeb版を見ていたら、「和楽」らしからぬ記事があった。
その記事とは、おなじみの形をした自動車のハンドルではない、まるで家庭用ゲーム機のコントローラーをイメージするような写真が掲載されていたからだ。
和楽Web:「自動置き去り検知システム」の開発も。刻一刻と近づく、クルマが電化製品になる日 

この見出しにある「クルマが電化製品になる」ということは、しばらく前から言われ始めていることだ。
その理由は、ガソリン車からEV車への移行だ。
ガソリン車ではなく、EV車となれば当然、クルマの構造も変わってくるだろう。
構造が変われば、運転席にある様々な操作をするパネル(というのだろうか?正しい名称があれば、教えて欲しい)そのものが変わるはずだ。
まして、数年前から言われ始めた「MasS」というシステムによって、クルマを含む様々な交通網の移動情報がネットワークでつながるとなれば、イメージできるのはスマホの画面のような感じだろうか?

スマホの画面のようなものから、様々な交通情報を得るようになると、おそらく従来のハンドルでは対応できないのでは?という、気がするのだ。
どちらかと言えば、ゲーム機のコントローラーのような形状にする必要があるのでは?ということなのだ。
ゲーム機のコントローラーと言っても、そのデザインはいろいろだと思う。
同様に、EV車が中心になっていけば、運転席のデザインもそのクルマにあったものになっていくだろうし、試乗会などを開催したとき、ユーザーとなる人たちの中には、クルマのデザインだけではなく運転席のデザインにも興味を引くようになるかもしれない。
これまでとは違う「運転席のカスタマイズ」が必要になるような気もしている。

見出しにある「自動置き去り検知システム」というのは、今年の夏保育園の送迎バスで起きた「置き去り」によって亡くなってしまったお子さんがいたことから、クローズアップされた問題だ。
この事件が起きた時、ローテックではあるが、バスの後部座席にスイッチのようなものを設置し、そのスイッチを押すことで置き去りを確認する、という方法だったように記憶している。

そればEV車の普及が、自動運転の技術的な進歩へと繋がり、結果として「人の見落とし」をITの技術でカバーをするようになる、ということなのだと、考えている。
とはいえ、そこに必要な考え方は「人」ということだと思う。
いくらゲーム機のコントローラーのような形状になったハンドルであっても、そのスイッチを入れ行きたい場所を指定し、コントローラーを動かすのは「人」だからだ。

「AIに奪われる職業」が以前話題になったが、「AIが奪えないモノ・コト」は、人がやるしかない。
そのための技術開発は「人」なのだと思う。