新年明けましておめでとうございます。
昨年は世間が大不況で、私もその波をモロにかぶりました。しかしそのおかげでLPSA金曜サロンにお邪魔でき、旅行の日程が長くなるという皮肉な現象が起きました。物事はなんでもいいほうに考えるべきです。将棋界も厳しい状況と察しますが、将棋への愛がある限り、大丈夫でしょう。
◇
私が小学3年生で将棋を覚え、中学生になる前後に熱中してから、おもな対戦相手は、父だった。使う盤駒は、父お手製のべニア板に、500円で勝った番太駒である。しかし指すのは原則的に、夕食後の1局だけだった。ほうっておくと私がいつまでも指し、父の自分の時間がなくなるからである。
最初は駒落ちで、父の角落ちだったと思う。もちろん、負けてばかりだった。負けると翌日までの1日が長く、私は不貞腐れた。だが駒落ちでもぼちぼち勝てるようになり、やがて平手の手合いに昇格した。
初めて平手で勝ったのは何年生のときだったか。相矢倉から棒銀に出て攻め倒した。このときの喜びはいまでも忘れられない。私の生涯の勝利の中で、5指に入る嬉しさだった。
平手での勝ちもちらほら増え、緩やかだが、棋力は父に追いついていた。あるとき私がひねり飛車から☗9七角と上がると、父は
「なめてきたな」
と言った。父はこのとき、すでに棋力を逆転されていることを悟っていたものか、私のわざと飛車を成らせる手?に、「同情したな」と、反発したのである。
しかし丸田流☗9七角は立派な手。それを否定されて、私は悲しかった。局後その手順の狙いを言うと、後日、父が同じ手を指してきた。しかしそれは似て非なるもので、重大な欠陥があった。☗9七角と上がる前に、☗7七桂と跳ねることを忘れていたのだ。私はとまどいつつ☖8九飛成と桂を取る。父は☗8八角と引くが、☖8六桂と打ち、私が優勢となった。棋力は完全に逆転していた。
それからも棋力の差は開き、負ける気はしなかった。だから私がたまに負けると、私は悔しさを露骨に出すので、父は悲しい顔をした。やがてふたりは将棋を指さなくなった。
ところがその後も年に1回、将棋を指す日があった。
お正月である。「指し初め式」として、元日に3番勝負を行うのだ。使う盤駒も、このときは5寸盤に彫り駒である。お互い正座をして、厳粛な面持ちで指す。最初は私も棋力が追いついていなかったから、毎年負け越していた。ところが前述のように私の棋力が上がっても、指し初め式のときは、不可解なことにいつも私の負け越しだった。
もちろん私も全力で戦っている。しかし心のどこかで、正月ぐらい父に花を持たせよう、という気持ちが無意識に働いていたように思う。父にもそれは伝わっていた気もするが、そこは素直に勝ち越しを喜んでいた。
しかし私も成人すると、指し初め式も、自然と指さなくなった。
おかげさまで、父はいまも元気である。自営業なので、私も一緒に仕事をしている。ただ私自身、いまの仕事が性に合っているとは思えないので仕事を覚えず、いつまでも父の足手まといなのが情けないが、それはとにかく、この歳まで親子元気でいられるのは、幸せなことなのだろう。平凡な生活が一番なのだと、心から思う。
◇
今年は景気も良くなるでしょう。私も仕事に将棋に、精進いたします。
本年もよろしくお願い申し上げます。
平成22年 元旦
昨年は世間が大不況で、私もその波をモロにかぶりました。しかしそのおかげでLPSA金曜サロンにお邪魔でき、旅行の日程が長くなるという皮肉な現象が起きました。物事はなんでもいいほうに考えるべきです。将棋界も厳しい状況と察しますが、将棋への愛がある限り、大丈夫でしょう。
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私が小学3年生で将棋を覚え、中学生になる前後に熱中してから、おもな対戦相手は、父だった。使う盤駒は、父お手製のべニア板に、500円で勝った番太駒である。しかし指すのは原則的に、夕食後の1局だけだった。ほうっておくと私がいつまでも指し、父の自分の時間がなくなるからである。
最初は駒落ちで、父の角落ちだったと思う。もちろん、負けてばかりだった。負けると翌日までの1日が長く、私は不貞腐れた。だが駒落ちでもぼちぼち勝てるようになり、やがて平手の手合いに昇格した。
初めて平手で勝ったのは何年生のときだったか。相矢倉から棒銀に出て攻め倒した。このときの喜びはいまでも忘れられない。私の生涯の勝利の中で、5指に入る嬉しさだった。
平手での勝ちもちらほら増え、緩やかだが、棋力は父に追いついていた。あるとき私がひねり飛車から☗9七角と上がると、父は
「なめてきたな」
と言った。父はこのとき、すでに棋力を逆転されていることを悟っていたものか、私のわざと飛車を成らせる手?に、「同情したな」と、反発したのである。
しかし丸田流☗9七角は立派な手。それを否定されて、私は悲しかった。局後その手順の狙いを言うと、後日、父が同じ手を指してきた。しかしそれは似て非なるもので、重大な欠陥があった。☗9七角と上がる前に、☗7七桂と跳ねることを忘れていたのだ。私はとまどいつつ☖8九飛成と桂を取る。父は☗8八角と引くが、☖8六桂と打ち、私が優勢となった。棋力は完全に逆転していた。
それからも棋力の差は開き、負ける気はしなかった。だから私がたまに負けると、私は悔しさを露骨に出すので、父は悲しい顔をした。やがてふたりは将棋を指さなくなった。
ところがその後も年に1回、将棋を指す日があった。
お正月である。「指し初め式」として、元日に3番勝負を行うのだ。使う盤駒も、このときは5寸盤に彫り駒である。お互い正座をして、厳粛な面持ちで指す。最初は私も棋力が追いついていなかったから、毎年負け越していた。ところが前述のように私の棋力が上がっても、指し初め式のときは、不可解なことにいつも私の負け越しだった。
もちろん私も全力で戦っている。しかし心のどこかで、正月ぐらい父に花を持たせよう、という気持ちが無意識に働いていたように思う。父にもそれは伝わっていた気もするが、そこは素直に勝ち越しを喜んでいた。
しかし私も成人すると、指し初め式も、自然と指さなくなった。
おかげさまで、父はいまも元気である。自営業なので、私も一緒に仕事をしている。ただ私自身、いまの仕事が性に合っているとは思えないので仕事を覚えず、いつまでも父の足手まといなのが情けないが、それはとにかく、この歳まで親子元気でいられるのは、幸せなことなのだろう。平凡な生活が一番なのだと、心から思う。
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今年は景気も良くなるでしょう。私も仕事に将棋に、精進いたします。
本年もよろしくお願い申し上げます。
平成22年 元旦