プロ野球・元日本ハムファイターズ監督の大沢啓二親分が亡くなった。
大沢親分と私は同じ名字だが、もちろん親類ではない。ただ大沢親分の日ハム監督時代の背番号は「ハム」をもじった「86」で、私の「公」も分解すると「ハム」と読めるため、親近感は抱いていた。
全然知られていないと思うが、大沢親分は3兄弟で、いずれもプロ野球選手だった。大沢親分は次男である。ウチのオヤジが中学生のとき、長兄の清氏に年賀状を出したところ、なんと返事が来たという。私が見ず知らずの棋士に年賀状を出したら返事がもらえるだろうかと考えてみれば、差出人が中学生であり、同じ名字のよしみもあったとはいえ、ちゃんと返事をくれた清氏のサービス精神には感心する。
大沢親分のエピソードは事欠かない。高校時代の試合中に、明らかなボールをストライクと判定され、怒った大沢親分は、試合後その球審を殴ってしまったという。その後たいへんな事態になったであろうことは、想像に難くない。
将棋界で、あの棋士の言ってることは間違ってるからと、その棋士をブン殴る棋士がいるだろうか。それを考えると、大沢親分のハチャメチャぶりが分かる。
大学は立教大学に進学した。長嶋茂雄を「ナガシマ」と呼び捨てにできる数少ない野球関係者で、将棋界でいえば「升田、大山」と呼び捨てにできる大野源一九段のようなものだ。
大学時代の試合では、レフトを守っていた大沢親分が、「レフトゴロ」を記録したこともある。なんと打者走者を一塁でアウトにしたのだ。ファーストに近い「ライトゴロ」はプロ野球の試合でもあるが、レフトゴロは珍しい。打者の力量を考えて、浅く守っていた(であろう)大沢親分の頭脳プレーが光る。やはりバカではプロ野球選手は務まらないのだ。
プロ野球では南海ホークスに入団。コーチ経験などを経て、昭和51年から日本ハムファイターズの監督として指揮をとった。そして昭和56年には、見事リーグ優勝を遂げた。その日本シリーズは巨人との対戦。日ハム●○○●の2勝2敗で迎えた第5戦、私は弟を連れて、後楽園球場へ観戦に行っている。バックネット裏の2階席最前列という、高校生には過分なシートだった。1階席を見ると、ドリフターズの加藤茶(がいたと思う)と志村けんが観戦していて、私たちが「シムラだ!!」と叫ぶと、志村けんが「ああ?」という顔でこちらを見上げたことを憶えている。
試合は「駒大三羽烏」のひとり、平田薫(ほかのふたりは中畑清、二宮至)がホームランを打ち、投げては西本聖(たかし)が13安打を打たれながらも日ハム打線を完封し、巨人が日本一に王手をかけた。
野球評論家になってからの大沢親分は、TBS系「関口宏のサンデーモーニング」でのコメンテーターが有名である。歯に衣着せぬべらんめえ調で、「渇!」「あっぱれ!」を連発していた。私は日曜の朝は寝ているので、数えるくらいしか拝見しなかったが、「大沢親分、言いたいことを言えていいなあ」とゲラゲラ笑いながら見ていた。
享年78歳。早逝か天寿を全うしたかは分からないが、孫の大沢あかねの出産で、ひ孫の顔を見られたことは幸せだったと思う。
大沢親分、安らかにお眠りください。合掌。
大沢親分と私は同じ名字だが、もちろん親類ではない。ただ大沢親分の日ハム監督時代の背番号は「ハム」をもじった「86」で、私の「公」も分解すると「ハム」と読めるため、親近感は抱いていた。
全然知られていないと思うが、大沢親分は3兄弟で、いずれもプロ野球選手だった。大沢親分は次男である。ウチのオヤジが中学生のとき、長兄の清氏に年賀状を出したところ、なんと返事が来たという。私が見ず知らずの棋士に年賀状を出したら返事がもらえるだろうかと考えてみれば、差出人が中学生であり、同じ名字のよしみもあったとはいえ、ちゃんと返事をくれた清氏のサービス精神には感心する。
大沢親分のエピソードは事欠かない。高校時代の試合中に、明らかなボールをストライクと判定され、怒った大沢親分は、試合後その球審を殴ってしまったという。その後たいへんな事態になったであろうことは、想像に難くない。
将棋界で、あの棋士の言ってることは間違ってるからと、その棋士をブン殴る棋士がいるだろうか。それを考えると、大沢親分のハチャメチャぶりが分かる。
大学は立教大学に進学した。長嶋茂雄を「ナガシマ」と呼び捨てにできる数少ない野球関係者で、将棋界でいえば「升田、大山」と呼び捨てにできる大野源一九段のようなものだ。
大学時代の試合では、レフトを守っていた大沢親分が、「レフトゴロ」を記録したこともある。なんと打者走者を一塁でアウトにしたのだ。ファーストに近い「ライトゴロ」はプロ野球の試合でもあるが、レフトゴロは珍しい。打者の力量を考えて、浅く守っていた(であろう)大沢親分の頭脳プレーが光る。やはりバカではプロ野球選手は務まらないのだ。
プロ野球では南海ホークスに入団。コーチ経験などを経て、昭和51年から日本ハムファイターズの監督として指揮をとった。そして昭和56年には、見事リーグ優勝を遂げた。その日本シリーズは巨人との対戦。日ハム●○○●の2勝2敗で迎えた第5戦、私は弟を連れて、後楽園球場へ観戦に行っている。バックネット裏の2階席最前列という、高校生には過分なシートだった。1階席を見ると、ドリフターズの加藤茶(がいたと思う)と志村けんが観戦していて、私たちが「シムラだ!!」と叫ぶと、志村けんが「ああ?」という顔でこちらを見上げたことを憶えている。
試合は「駒大三羽烏」のひとり、平田薫(ほかのふたりは中畑清、二宮至)がホームランを打ち、投げては西本聖(たかし)が13安打を打たれながらも日ハム打線を完封し、巨人が日本一に王手をかけた。
野球評論家になってからの大沢親分は、TBS系「関口宏のサンデーモーニング」でのコメンテーターが有名である。歯に衣着せぬべらんめえ調で、「渇!」「あっぱれ!」を連発していた。私は日曜の朝は寝ているので、数えるくらいしか拝見しなかったが、「大沢親分、言いたいことを言えていいなあ」とゲラゲラ笑いながら見ていた。
享年78歳。早逝か天寿を全うしたかは分からないが、孫の大沢あかねの出産で、ひ孫の顔を見られたことは幸せだったと思う。
大沢親分、安らかにお眠りください。合掌。