一公の将棋雑記

将棋に関する雑記です。

湯川邸落語ネタおろし・2

2019-02-27 00:23:44 | 落語
髪結いのお崎は働き者だが、亭主は働きもせず昼間から酒ばかり飲んでいる。お崎はたまらず、仲人に相談を持ち掛けた。
仲人はお崎の迫力に押され、なら別れちまえ、と吐き捨てるのだが、そう言われたら却って離縁もしにくくなるというもの。
すると仲人は、唐土の孔子の故事を話しだした。ある時、孔子の弟子の不手際で厩が火事になり、愛馬が焼け死んだ。
ところが孔子は弟子を責めるどころか、弟子の体を心配した。弟子は感激し、今以上に孔子への信奉を高めたのだった。
また別の話もする。ある武士の家では、亭主が妻より瀬戸物を大事にした。このため妻がへそを曲げ、家庭が崩壊してしまった。
この二題で言わんとしていることは何か。世の中で本当に大切なものは何かということだ。
仲人はお崎に、瀬戸物の件は実行可能だから、実際にやってみて、亭主の反応で対処の方針を決めたらどうか、とアドバイスした。
帰宅したお崎は、早速瀬戸物を割るのだが……。

参遊亭遊鈴演じるお崎は弁舌滑らかで、まるでお崎が乗り移ったかのよう。仲人が逆ギレして、「別れちめえ、別れろ、別れろ、別れるんだ、別れた方がいい、別れろ!……」と畳みかけるさまも威勢よく演じて、可笑しい。
白眉は厩が火事になった時の白馬のいななきで、「ブヒヒーン!」と叫ぶ遊鈴のソプラノが美しい。果たして、我に返った遊鈴が「馬のいななき、ウマいでしょう!?」と自画自賛した。これには私たちもゲラゲラ笑うばかり。いやはやこれも、フランクな場での愛嬌ある脱線というべきか。
下げも見事に決まって、綺麗な幕となった。さすがセミプロの至芸だった。

トリは仏家シャベルである。遊鈴と入れ替わり、高座に上がる。
「厩火事、良かったですナ。ワタシもサラリーマン生活を辞めて、無職になったことがあります」
ホウ、と私たち。「その時は恵子がいて、子供も2人、それに母もいました。ワタシは母のところに相談に行ったんですが、髪結いの亭主になるからやめておくれ、と言われました。
つらかったのはですねえ……」
そこでシャベルが沈黙する。私たちは「……」にシャベルの苦衷を察し、また苦笑するのである。しかしその後のシャベルの活躍は関係者が知っての通り。まさに掛軸の「轉褐為福」だ。
「今回は新たに落語を憶えたんですが、15年くらい前は、2ヶ月に一度、新ネタを憶えられたものです。でも今はダメですね。年に一つがやっと。
ワタシは糖尿をやった関係で、左目はほとんど見えない。まあ片目だけ見えてりゃいいやって放っといたんですがね。
食後に散歩をしてるんですが、今日はずいぶん霧が濃いねえ、と言ったら、恵子は全然霧なんか出てないって言う」
シャベルは重度の白内障を患っていたのだ。「だけど医者に診てもらったら、血糖値が高くて手術ができないっていうんですね。437もある。それで、1ヶ月で99に減らした。この間、薬なんか飲んでませんよ。そしたら医者が驚いてねえ……」
ウソかホントか分からぬが、ともあれシャベルの驚異的節制で、無事手術に臨めることになった。
手術は両国の名医によって行われ、その時の模様、医師の会話がまた生々しいのだが、シャベルはユーモアを交え、軽快に語る。先崎学九段もそうだが、物書きはおのが危機を冷徹に視る観察眼があるのだ。
幸い目の手術は成功し、シャベルの両目とも快復、裸眼でも無理なく生活できるようになった。
「これから演ります『心眼』は、三遊亭圓朝が創った噺。それを(八代目)桂文楽が16年かかって拵えたものです」
心眼……。およそ落語らしからぬ題だが、有名なのだろうか。
「ワタシが今の仕事をするようになって、岡山に行ったことがあった。その三次会で、そこの支部長と同席する機会がありました。支部長、当時50代だったが、目が不自由だった。で奥さんが20代でね、これが物凄い美人だった。
その頃、別の目の不自由な方々とも会ったんですが、皆さん、奥さんが美人でした」
この壮大なマクラは、いかにも心眼にふさわしそうではないか。
シャベルはそれなりに多忙なので、心眼の練習はほとんどできなかったらしい。先日の散歩の際、ようやく通しでしゃべったのだが、それが最初で最後だったという。だが私は、シャベル一世一代の噺を聞けそうな気がした。

時は明治時代。目の不自由な梅喜(ばいき)は、按摩をしていた。自宅のある浅草・馬道から横浜まで営業に行ったが不首尾に終わり、おカネもないので歩いて帰ってきた。
女房のお竹に心配されると、梅喜は泣き崩れた。実は弟の金さんに無心に行ったところ、すげなく追い返されたのだった。
そこで梅喜は茅場町の薬師様に願掛けに行くことにした。茶断ち塩断ちし、3×7=21日目の満願の日、梅喜は薬師様で会った上総屋の旦那に言われ、おのが目が開いたことに気付いた。
梅喜が初めて見る明治の光景はどれもこれも素晴らしかった。しかし上総屋は、「女房のお竹は『人三化け七』、いや『人無し化け十』の醜女だ」とイヤなことを言う。対して梅喜のマスクは、歌舞伎役者ばりのいい男だった。
こうなると周りもほおっておかず、梅喜は東京一の人気美人芸者・小春に見初められる。
二人は待合(ラブホテル)にしけこみ、梅喜は小春を女房にすると誓ってしまう。
ところがそこに、お竹が現れる。逆上したお竹は梅喜の首を絞め……。

冒頭、シャベルが軽く目を閉じ、梅喜の嘆き節を語る。その様は異様な迫力があり、私は聞き入ってしまった。自身が白内障を患い、私もかなりの近眼なので、目のことはほかの誰より、心に響くのだ。いや周りの客だって、私と大同小異ではなかったか。
シャベルが扇子をトントンとやる。これが杖を表している。
そうか……と思った。古典落語とは、江戸時代や近代の生活に根付いた風習、言い伝えを面白おかしく演じるものである。だから小道具の扇子も煙管や箸など無難なものが多いのだが、これが盲人用杖を表すと、ちょっと生々しくなってしまうのだ。
むろん身体障がい者が登場しても自然なことではあるが、21世紀の現代は、それを拒絶する。「心眼」がマイナーな位置づけなのも、納得できる気がした。
(つづく)
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