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全体像を推し量ることが出来ないくらいに住居跡が検出されているのがよく判る。犇きあっていると言っても過言ではない。何度となく建て替えられているのではあろうが同一の場所のように見える。
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高さが異なる住居が在った様だが、複合遺跡であろうか。まだまだ手前にも向うにも拡がりを見せつける遺跡である。ますます墓地を見つけてもらいたいという気持ちがつのるのだが無理かもしれん。あの名も無い古墳とどのように結びつくのかつかないのか判明すれば面白いであろう。
6世紀といえば継体天皇から始まり推古天皇で終る。日本の基礎が築かれた世紀でもある。また、継体天皇の世は筑紫君磐井の反乱があり、鎮圧され磐井はこの地方に落ち延びてきたという説もある。まあそれだけ天皇の力がこの九州にも及んでいたということである。
そのような時代に突然ここに住居が出来たわけではなかろうが、それ以前から土着の人々がいた可能性もあろう。私はそれにロマンを見出すのである。