かねやんの亜細亜探訪

さすらうサラリーマンが、亜細亜のこと、ロックのこと、その他いろいろ書いてみたいと思ってますが、どうなることやら。

奈良伊勢その11 信貴山朝護孫寺(しぎさんちょうごそんじ)・その1

2010年07月19日 | Nara ( Japan )


今日は、昨日のやれやれドライブの疲れを癒すため、のんびりした。
絶好の海水浴日和。夏らしい天気は、気分を解放的にさせる。

奈良近辺は、かなり周ってきて、今回の最終日は、行き損ねていた大寺を中心に周ることにした。
まずは、朝護孫寺。
大阪府との境に近い生駒山の南の信貴山にある。ちょっと行きにくいところにあり、まだ行けてなかった。
生駒駅から、近鉄生駒線に乗り換え、信貴山下駅に行き、そこから、バスで上る。かつては、ケーブルカーがあったそうだが、今は、廃止されている。バスの本数は少ないので、要確認。行きのバスは、すぐあったが、帰りのバスの時間に合わすのに苦労した。バスは、信貴山駅で降りたが、信貴山大橋駅の方が、近い。信貴山駅でおりれば、参道の雰囲気が味わえる。
これは、参道で見た紫陽花。色合いがいい。



途中に千体地蔵があった。



仁王門。江戸時代の再建。



世界一の張り子の虎。福虎。張り子が、こんなに大きく作れるとは思えないのだが、触ってみたら、確かに弾力性もある。塗料によるものかもしれないが。
上に見えるのは、本堂。お経を唱える声が響き渡っている。密教らしく、勇ましい読経だ。
この虎に因んで、本寺のゆるキャラは、シギトラ君になっている。

元々このお寺は、聖徳太子が、582年に毘沙門天より、嚆矢を賜ったのが、起こりという。これにより、物部軍に勝利したと伝えられる。嚆矢を賜ったのが、虎年、虎日、虎刻だった。
物部軍に勝利したことを報恩し、信ずべき貴ぶべき山ということで、信貴山と名付けられたという。
平安時代に、醍醐天皇が重病となったが、当山毘沙門天の御加護で全快したことから、朝護孫寺の名も賜り、信貴山朝護孫寺となった。
醍醐天皇の話は、信貴山縁起に、描かれている。



巨大なお寺で、本堂に向かったつもりが、新しいぴかぴかのお堂に出た。御地蔵さんも巨大だ。



そこから、山に迷いこんだ。凄い坂で、途中でめげそうになったが、最後まで上った。



途中に信貴山城跡があった。奈良県では最大の城だったが、織田信長に攻められ落城し、その後廃城になったとある。かなり上がったところにあり、下から見上げたら、さぞ立派な山城だっただろう。



ほうほうの体で、やっと頂上に着いた。皆声をかけながら、上っていた。水を下から汲んで来るのが、本式のお参りの仕方だったようだ。
頂上にあるのが、空鉢護法当堂。毘沙門天が日本で、最初に舞い降りた場所にあるという。
空鉢護法は、毘沙門天の御分身。
当寺の中興の祖である命蓮上人(平安時代)が、空鉢を飛ばして蔵を飛びかえらせ、長者に慈悲の心を諭したという出来事に由来するという。この話も信貴山縁起に残されている。
お堂の前には、とぐろを巻いた蛇が三匹おわした。



ここからの眺めは、すばらしい。上ってきた甲斐があるというものだ。
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