12月2日に楽を迎えてしまった『日の浦姫物語』ですが、感想がなかなか書ききれず、すっかり遅くなってしまいました。もう終ってしまったので、詳しいあらすじは書いていませんがネタバレしています。
一言で言うと、「素晴らしいお芝居でずっと心に余韻が残りました。」。
もう少し詳しく書くと
「大竹しのぶさんはすごく綺麗。藤原竜也くんはそれに負けないくらい素敵。いつもながら蜷川さんの舞台に美術は素晴らしく、音楽も賛美歌からフォーク調から見事。物語は壮大でありながら軽妙。」となるのですが、それを長々と心の赴くままに書かせていただきました。
☆ ☆ ☆
冒頭、説教聖の呼びかける声が館内に響き渡ります。
何たる美声。
そして物悲しいのです。
いつも舞台を観る時、「身毒丸」で学んだ「舞台は幕が開いて3分が勝負」ということを意識してしまうのですが、3分かかりませんでした。その「ホォー、ホォー」みたいな声にググッと引きこまれ、私は物語の中にあっという間に入っていってしまいました。
先日姉妹で集まった時に、21日は藤原竜也の芝居を見に行くんだと言いましたら、どんなお話かと問われました。もちろん観ていませんので、チラシに書いてあった程度のあらすじを言いました。
「うーん、多分・・・。兄妹で愛しあって子供が生まれちゃうのね。その兄の役が藤原君なんだけれど、その生まれた子供の成長した時も藤原君で二役。それで母と別れて成長した青年が生みの母と知らずに、またその母と愛し合っちゃって、その真実を知った時、母は自分の目を潰しちゃう・・・」
「なあに、その究極のドロドロ」
そう。どう考えても究極のひゅ~どろどろ。
あっ、「ひゅ~」は付かないか。
だけどこの舞台、まったくもってどろどろ感がないのです。
本当にあっという間に終ってしまいました。
さすがさすがの井上ひさし先生の作品ですね。笑い80%でこの悲劇を描いてしまうわけですから。
さすれば悲劇と喜劇は相合わせながら同じ場所に存在しているものなのかも知れません。
お芝居が明るいので、その悲劇性は逆に少し想像力を要してしまったほどでした。
人間がその本能から導き出した禁忌、近親婚。それを罪と言うのならば、その本当の罰は、このお芝居の中では敢えて省略されているように感じました。
なぜなら罪の子どもたちは、皆美しく力強く聡明です。
だから私は思ってしまったのです。
生まれてきた子どもたちが美しく力強く聡明であるならば、その罪は既にその時、許されているのではないかと。
だからあの時・・・
あの時というのは、日の浦が魚名の手紙の存在を知ってしまった時、本当に秘密は永遠に封印されたままであって欲しいと思ってしまったのでした。もちろんお芝居なので、それで終ってしまったら物語は続かないわけでありえない戯言ですが、それほど二人は美しい夫婦だったのです。
少々、お芝居の感想というよりこの物語の感想です。この部分は、私には今回必須です。面白いなと思ってるうちに終ってしまったので、「うむ」と思った部分の脳内補完です。
日の浦姫の本当の罪は、我が子を、生か死か定かではないという、あまりな賭けなのに、泣きながらもその子を手放してしまったことなのではないかと思うのです。その後どんなに悔いの涙の海に溺れ神仏に祈り、操の誓を立てていたとしても、子供を捨ててしまった罪は新たな罪。
だって仕方がないじゃないかとも思います。庇護者の叔父の命令でもあり、日の浦はあまりにも幼くて力もなかったのですから。だからそんな存在であったのに子を宿したことが、根源の罪。とやっぱりそこに帰着してしまうのですね。
だけどその新たな罪の罰は、18年後わが子を夫にしてしまうという形でくだされたのだと思いました。それはそれまでずっと愛していた兄に操を立て一生独身でいようという誓を捨ててしまったことも、何となく頷けるのです。
それは魚名が素敵で魅力的だったからというミーハー的なものだけではなかったと思います。しかもセリフの中には一言も「兄の面影」とか「似てる」とか「同じ雰囲気」とか「・・・」〈ちょっとしつこい・・・〉とないんです。
ずっと子供の無事を祈っていた。彼女がもろもろの誓願を立てていたのは、罪をあがらう為と言うよりは祈願のためであったのじゃないかと思うのです。だけど魚名と会った時に、つまり知らずとも無事に成長した我が子と巡り会えた時に、それは大願成就を果たしてしまい、誓の封印は破れてしまったのです。
ああ、なぜ指を折って数えなかったんだろう、我が子の歳を・・・
ああ、なぜその面差しをしげしげと見なかったのだろう・・・
ああ、なぜ愛する人に自分の罪を告白できなかったのか‥・・って、これはムリですよね。
魚名が時々仏壇の中から手紙と鏡をだしさめざめと泣き、とても自分は「罪の子供だ」とは告白出来なかったことを苦しんでいたのですよね。
ましてや日の浦が自分の過去を打ち明けるなどと、出来るものではないと思います。
「兄の子を産んで、そしてその子を海に流した」などと・・・・。
だけどもしもこの時、その一番出来なかったその告白をお互いにすることが出来たならば、本当に日の浦の罪は許されて、素晴らしく成長した我が子が、この先ずっと傍らで彼女を支えていくという違った人生が待っていたかも知れません。
この物語は作者が「グレゴリウス1世」の物語をヒントに生まれたものなのだとパンフレットから知りました。それ故か全体的に宗教色で染められているような感じがします。
―『罪と罰』
だけど、大竹しのぶさんのパンフレットの言葉を借りるならば
「人は罪を犯しながら生きていくものなのだから」で終わってしまうのですが・・・・^^。
彼女が日の浦に感じたものは『女』。
でもそれは私も同じように感じました。
印象深かったのは、魚名の手紙と手鏡を見つけてしまった時の葛藤の場面です。きっと心の底では我が子の無事を祈り続けてきたのに違いないはずなのに、その我が子を、一瞬と言えども言葉の中で殺してしまったのです。
「あの子はきっと死んでしまったのだわ。そしてその形見を友人である魚名が何らかの理由で受け取って・・・」
このシーンは、大竹さんがあまりに可愛らしくキュートでコミカルに演じるので葛藤の一部のようにサラリといってしまう方も多いかも知れませんが、例えば私などのような男子の母だとそうは行きません。
「えええええええ」と、その言葉が頭の中で居座ってしまうのです。
なんという恐ろしいことを―。
もちろん、彼女も即否定します。だけどその言葉は一瞬であっても一瞬だからでは済まない重さがあったと思うのです。ゆえに次に来る悲劇に繋がっていったのだと。
だけどこの物語が、ほんとうに素敵だなと思ったのはギリシャ悲劇のようでありながら悲劇のままで終わらなかったことだと思います。
岩の上の聖人のシーン。
魚の名前だけで語るという面白さ。このシーンだけでももう一回見たいくらいです。
「宗教色が」と先に書きましたが、この魚達が「魚名」という名前に惹かれるのか、その聖人に食べ物を運ぶというお話は、私にはどちらかと言うと仏法説話のように感じました。
そして「奇跡」のシーンです。
このシーン、本当に奥が深いなと思っています。
なぜなら僧正に罪を懺悔するならば罪は許され病が治るという奇跡が起きるというのです。
確率何%かで「治るかもしれない」じゃないんですよ。「治る」なんです。
だけどそれは望まないとダメなんですよね。
日の浦は自分の目のことを祈らなかった。魚名も自分の目を治せとは思わなかった。再び二人が出会うまでは。
私はこのシーン、ちょっと泣きました。
もう一度この目で見たい・・・・わが子を。
もう一度この目で見たい・・・我が母を。
魚名の岩の上での18年の懺悔の日々は、すなわち日の浦の盲目ありながら人々に尽くした贖罪の日々であったわけです。
―罪と罰と、そして許し
ただ許しを請うて惨めに生きていたのではなく、一人は奇跡を起こす聖人になりひとりは人々に尽くしまくった。
人は罪を犯しながら生きていく者。でもだからこそ生み出していくエネルギーと力は何だとか思ってしまったり・・・・
そしてこの時、日の浦はまだ50代、魚名は30代ですよね(たぶん)。
人生はまだまだ続くのです。ならばこの先、母と子の穏やかな幸せな日々が・・・・と幸せな気持ちになって二人の物語は終わったのでした。
どろどろかと思ったら、全くそうじゃなかった「日の浦姫物語」。だけどドロドロ部分は説教聖の担当でした。
なぜこの物語を人々に語っていくのか・・・・。
許してくださいという彼に人々は石を投げます。
「責める者は強気」
心に残りました。
説教聖の呼声がシアターコクーンに響き渡ります。
物悲しく、静かな余韻を残しながら―