5日の朝、いつもの様にパソコンをつけたらツイッターで中村勘三郎さんが亡くなったと言うツイートが目に飛び込んできました。
「嘘っ!?」
思わず私は夫にその事を告げました。
「嘘だ!」とやっぱり夫が言いました。
その時テレビに速報が流れました。
「あっ、じゃあ、これ?」と夫が言うと、やっぱりそれは中村勘三郎さん訃報の速報でした。
「ええ、なんで。早過ぎる・・・・。ええ、どうして。だって~。」と気持がざわざわしました。
午後、姉と電話。
姉の家でも同じ様な会話があったのだと聞きました。
きっと同じ様な会話が多くの家であったのではないかと思います。
※ ※ ※
勘九郎―
彼が子供だった時、もちろん私も子供。
その頃、私は彼を特別な所に生まれた生まれながらにして恵まれた子供だと思っていました。子供だったので梨園という言葉も知らない頃です。
生まれながらに恵まれた子供に特別に興味なども持っていませんでしたが、ずっと親しみを感じて「勘九郎」という名前を身近なものに感じていました。
歌舞伎の役者さんがその後継の子供を幼少から舞台に立たせるのは、すごく意味があるなと、今ちょっと思ってしまいました。稽古と修行を幼い頃からするという意味だけでなく、観る側からしても子供の時から知ってる役者として、親しみ度が深くなるような気がします。
同じ時代の船に乗る・・・・子供の時からずっと知っていた彼は、まさしく同じ時代の船に乗っていた人でした。
横浜の片隅でタミーちゃんやバンカスゲームに、私が明け暮れていた頃、早くも彼は芝居に対して確固たる夢を持っていたようです。
その後の人生で、彼は山のような仕事をしました。
彼自身の舞台の充実ということはもちろんですが、きっぷの良い親分肌のようなそんな雰囲気が、時々テレビから流れる様々な情報から感じることが出来ました。
時代を同じように通過していくうちに、私はこの人にどんどん心惹かれるようになっていったと思います。
彼はいろいろな垣根の高さを低くした人だと思います。
歌舞伎の世界でも名門の否かの門を広げ、なんだか勉強をしないと観に行けないように感じてしまう歌舞伎自体の垣根も低くしました。
浅草の歌舞伎は難しくないから面白いよと、私も何度か人から聞いて行きたいなと思っていたのです。もちろん歌舞伎座の歌舞伎にも一度は挑戦したいとは思っていますが(ほらっ、やっぱり挑戦になってしまうのですよね。〉
それにやっぱり子供は親の鏡というように、勘九郎、七之助が素敵な役者さんに育ったことにも、凄く心惹かれました。
特に六代目中村勘九郎は藤原竜也を贔屓にしている人には、同じ様に気になる存在の人も多いかと思います。
病気だということは知っていました。だけど元気になって新歌舞伎座で復活してくるものだと思い込んでいました。
あのパワーと生命力が、病気などで潰えるわけがないと思っていました。
57歳―
早すぎます。
翌日会った友人は、
「私はお芝居などに全く興味が無いから、良く分からない。」と言いました。
そうかもしれないと、また私は思いました。
だけど演劇を愛する者の端くれである私には、やはりものすごく大きな損失に感じてしまうのです。さながら日本の宝をひとつ失ってしまったような、そんな感じさえするのです。
勘三郎さん―
遣りたいことは、概ねはやり切れましたか。
「概ねは」と言うのは、「全て」なんてワケがないからです。
だけど今生に未練を残しても仕方がないこと。やり残したことは、きっとあなたが厳しく育てたお子様たちが引き継ぎますよ、きっと。
ご冥福を心よりお祈りいたします。
彼の舞台を生で観ることは叶わぬ夢になってしまいました。
唯一観たのは、シネマ歌舞伎の「法界坊」。その感想は→こちらです。