父は本当は11月13日の自分の誕生日に死にたかった。世の中ままならぬことは多いが、病気などの自然死においては死ぬ日の予定日ほどままならぬものはないと思う。
私や姉が、4月の終わりには後1ヶ月その命は持つのかと重い気分でいた時、父は朝が来ると普通に食事をして自分の部屋に行って諸々の雑務をこなしていた。そんな父には、自分の死期がそんなに早く迫っているとは思えなかったに違いない。
そんな父を見ていて母は言った。
「そんなには持たないとお母さんは思うの。私の予想では10月かなあ。」
そう言った母を、私は半ば呆れたような気持ちで見返した。
でも私は気を取り直して、そして言った。
「生きてて欲しいよ、誕生日まで。だけどその願いが叶わなかったら、その日はみんなで集まって誕生日を祝い合おうね。」って。
※ ※ ※
11月13日、父の誕生日。
私達四人姉妹と母とで墓参りに出かけてきました。
真っ青な空が煌めいて、昨日までの冷え込みがちょっと緩むという小春日和でした。
母がお赤飯のおにぎりを5つ握ってきました。
それを供えて、私達は一緒にちょっと祈り、そして言いました。
「おとうさーん、84歳の誕生日おめでとう~。」
でももう父には何も贈ることが出来ないので、今年は代わりに母に何か受け取ってもらいたいなと思って姉妹で用意したのはアメジストのネックレスでした。
冬になると黒のネックの服が多くなる母なので、この紫は素敵だなと思って選んだのです。重いと肩も凝ると思って小さめなものを選びました。
予想通りですが、喜んで貰えました。
と、なんとなくこのように書くと、楚々とした誕生日風景のような・・・・
だけれど女三人集まればかしましいと申しますが、なんたって5人もいるわけですから、墓参りと言っても誕生日祝であって賑やかでないわけがありません。父のお墓の横にあるベンチとテーブルを囲んで供えたお赤飯のおにぎりを皆で頂きながら笑い声が絶えませんでした。それはまるでプチピクニックのようです。父がお墓の区画で端を選んだその決め手は、その横の綺麗な芝生と置いてあるベンチでした。
私達の誰もが知っていました。
父が望んでいたもの―それはそんな女達の賑やかな風景だったのです。
今回初めて通ったのですが、駅からバス停に行くまでの商店街は何やら面白そうな雰囲気でしたし、少し足を伸ばせば動物園などもあるのです。父は前から言っていました。
―墓参りにだけ来てもつまらないでしょ。いろいろ遊んで帰るんだよ。
と。
それで昨日13日の日は、その後皆で健康センターと言うか、街中温泉に行ってきました。
マッサージチェアや薬湯などを堪能し、贅沢な一日になりました。
※ ※ ※
いつもはもう正月にしか顔を出さなくなってしまった夫が、今年は5月の連休に実家を訪問しました。
その時、庭の柿の木の緑がとっても美しかったのです。
「最近はずっと冬ばかり来ていたから、この木がこんなに存在感を感じさせたことはなかったなあ。」と夫が言うと、父が
「うん。この柿は一年おきにたくさん実るんだ。今年は実るぞ~。」と言ったのでした。
その言葉通り、今年はその柿がたくさん実ったのでした。
と言っても、その柿の収穫日に行ったわけではないので、実っている柿の画像はないのですが、姉がふうふう言いながら電話を掛けてきました。
「今までで一番なの。収穫したらお母さんがどんどん近所に配って歩いてる。多分300は超えたな。」
「お姉ちゃん、それってお父さんからの贈り物なんじゃ・・・」と私がそう言いかけたら、姉も言いました。
「うん、私もそう思ったよ。」
送ってもらったその柿は、まだちょっと硬くて、その柿をカリリと噛ったら、ちょっぴり涙がこぼれました。
あまりにも早い死でした。
それでも、いつまでも、いつまでも彼は俺の心の中にいます。痩せこけた彼の死に顔を見て泣きましたが、彼はこれからも家族はもちろん、私の中でニコニコといつもの調子でおどけています。
遠い過去のお話ではなく「昨日」という言葉が胸に痛いです。
直接会えて言葉を伝えられたから、(決まりきった言葉で、私だけの言葉とはいえなかったかもしれませんが。)少し時間を開けてからお返事を書こうと思っていました。
なんて・・・
時間空けたら、お返事を読みに来ないかもね。まあ、それでもいいや(笑)
>彼はこれからも家族はもちろん、私の中でニコニコといつもの調子でおどけています。
「人は二度死ぬ。人から忘れ去られた時に二番目の死が訪れる。」っていうじゃないですか。そうそう、2番目の死は訪れるものではありませんよね。
でも私、てけさんが直接言った
「なんとなくそういう感じのする人だった。」という言葉が実はいつまでも心に残っているんですよ。
いろいろ考えさせられました。