森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

「東京大空襲」について

2008-04-11 01:37:26 | テレビ・ラジオ

 3月17日18日、二夜連続で「東京大空襲」のドラマをやっていました。それに先駆けて違う局でも「東京大空襲・語られなかった33枚の真実」と言う番組もタイムリーな3月10日に放送されていました。

 

なぜ、今「東京大空襲」なのかー?

 

 いやそれよりも、なぜ今頃3月に放映された番組の事を書いているのか、ですよね。それは単純に忙しかったからなんです。何しろ17日は夜映画に出かけ、19日は「身毒丸」で出かけていたものですから。その週は、その後の余韻のことを考えると「藤原竜也ウィーク」みたいなものでした。

 ドラマの後にタイムリーに記事をUPすれば、読んでくださる方も多かったかも知れませんが、
実は、途中までは書いていたのです。

 

 本当に書きたかったのは番組の感想ではなく「東京大空襲」の事、その事自体だった様に思うのです。ですが、番組直後に書き始めて感想をスルーするわけにもいかず、だけど書こうとすると、辛辣な感想ばかりが浮かんできます。
「東京大空襲・語られなかった33枚の真実」は、非常に良い番組でした。ドキュメントと体験者のインタビュー、そして実在の人物のドラマと力強い説得力がありました。

 一週遅れで放送されたドラマ「東京大空襲」は、日本テレビの開局55年記念番組と言う事で、二夜連続、堀北真希、藤原竜也のW主演、音楽も主題歌を秋川雅史が歌うなどかなり力が入っていた事がわかります。

 

 だけど・・・・、私には感動した、泣けた、心に残ったと言う番組にはなりませんでした。ふと、ブログ周りをしてみると、かなり号泣モードの人が、それも若い人たちを中心にいたので、これはこれで良いのかなと思いました。

そしてまた、間が開いてみるとさらにそれでよかったんだと思えてくる場所も出てきました。ドラマ記事などは急いで書かねばならないような気がしてしまいますが、時間と共に見方が変わる場合もあるものですね。

 

 今夜はタイムリーでないドラマの感想が中心です。ワタクシも二夜にわたって「東京大空襲」についてお話してみたいと思います。

 

 最初に感じた私の感想、

 ①大空襲の時の音楽の入れ方が、気に入らないと言うより、少しいらつきました。逃げ惑う人にかぶせて美しい歌声が・・・
音楽で涙を誘いたいと言うのでしょうか。
このことは、読まさせていただいた他のブログの記事の中でも取り上げている方がいましたね。

 ②せっかく助かった人が死んでいく。命を引き換えに生まれた子供が破傷風になってあっけなく死んでしまう。死んだとしか思えない看護婦の人や医者が生きていたのに、更なる空襲でまた死んでしまう。とにかく全員死んでしまう。徹底的に死んでしまう。登場人物の98パーセントが死んでしまう・・・・・

 ③それでも助かった男の人生の最後が、なぜ崩れかかったボロアパートでの孤独死なのか。

 ④ラストの刑事のセリフと行動が気に入らない。

 

 でも、人の感想なんかを読んでみたり、また知らなかった情報などを知ってみると少し見方が変わりました。この作品は、ほとんどが若い年代の人たちだけで作られたのだそうです。私も戦争を知りません。そして私の親達も、そのころは子供でした。だけど、子供であってもその時感じた事を私たちに伝えてくれました。私の中にある戦争の伝えられた記憶。

 

ただ、私はそれを次に伝えることが出来たのかと言う事を思うと、失敗したなと言う挫折感に襲われることが多いのです。

 

 このドラマを作ったのは、完全に戦争を知らない親達を持った人たちが作ったドラマだったのですね。

 それを見ていた若い人たちが号泣するのなら、それはそれでいいのかと思ったと書いたのはそういう意味なのです。

 

 ただ補足して思うことは、生き残った人たちが元気に力強く頑張ったからこそ、今の美しい東京はあるのだと思うのです。戦争が終わって63年、日本の繁栄の基礎は彼らが作ったのではないのですか。それなのに、そうやって生きてきたはずの人が、なぜ独居老人の孤独死なのでしょうか。

 それが今の日本の現実だからなのでしょうか。

 

 恐ろしすぎます。

 

 そしてラストの刑事の
「あのじいさんも幸せな気持ちで死んでいったというわけだ。」みたいなセリフがあったかと思うのですが、ちょっといやな気がしました。そしてガラスの飾りを鎮魂の意味だと思うのですが、河に投げ入れてしまうのも残念なような気がしました。

 

 粗野な刑事が「じいさん」と言うのは、極自然なセリフだと思うのですが、セリフと言うのはそのライターの方の世界の欠片だと思うのです。それまで散々、その男の生き様を見せておいて、最後は「じいさん」呼ばわり。
「大場さんも幸せな気持ちで・・・」と言っても不自然ではなかったのではと思います。

 

ドラマの半ばに、ガラスの中に閉じ込められた空気の話が出てくるでしょう。あの二人の戦争中であってもつかの間の幸せな時。その一瞬があのガラスの中には閉じ込められていたのですよね。

 その映像と共に、誰か若い刑事でも通りすがりの少女にでも、ずっと戦争の記憶として持っていてもらいたかったと思います。

これは、ドラマとして放送された以上それに対して好き好きと言う感情が出ても仕方がないことだと思います。大好きな方もいれば、そうでない者もいる、ただそれだけの事ですね。

私が感じてしまったのは、全体的にこの時代を生き死んでいった人への「敬意」と言うものの不足でしょうか。

 

 ただ映像は凄かったですね。

言問橋の地獄絵のような様子、プールで人が折り重なっていく様、四方全てが火に囲まれてしまうシーン・・・・・
先に放送された番組のインタビューの完全再現になっていると思いました。

そしてまた、演じた役者の方々の熱演にも心打たれました。

尻切れトンボのようですが、タイムリーではないドラマ感想はこの程度で。

 

 

 

 

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都会のイケメン・森の中のイケメン

2008-04-10 09:12:35 | 家族スナップ

 一昨日の吹き荒れている風の音を聞いていたら、ふとうつらうつらと眠くなってしまいました。昼下がりソファで転寝して目が覚めたら、

「アッ、思い出した。加藤晴彦だわ。」

 この名前がずっと前から思い出せないでいました。大した必要性もないのでずっと放置。それなのにいきなり思い出しました。なぜこの名前を思い出したのかと言うと、以前「落武者ヘアー」だったルート君が髪を切った話は書きましたが、その髪型が加藤晴彦ヘアーだったのですよ。→髪を切った話「ルート君の無謀な野望

 なんか可愛いなと(何時だって親ばか)思っていましたが、近頃そのままの髪で伸びてきました。出かけるときに前髪がうっとおしいので、再びカチューシャが登場です。

 

 先日、そんな彼の誕生日に出かけた時、足の長さが違うのでかなりバラバラ家族は離れて歩いていました。ところが私の横でラッタ兄ちゃんが言いました。

 

「ああ、彼の傍には近づきたくはナイな。他人の振りをしていよう。」

「何でよ。」

「だって、あの髪どう考えても変だろう。」

「そうかしら、普通じゃない?  今時はみんなあんな髪してたりしない?」

「あのさ、みんなってどいつだよ。例えばさ、ここをざっと見渡してあんな髪型しているやつっている?」

 

 その時私たちは地元の大型ショッピングモール内を歩いていました。

― 本当だわ、誰もカチューシャ少年はいない・・・(少年ではないけれど)

「でもさ、この前見たよ(嘘)。ええと、渋谷ですれ違ったイケメンがそうだったわ。」

「渋谷~ あなたが渋谷に行ったなんて話はこの数ヶ月聞いたことがないよ。」

― なぜに、私の動向を知っている!?

「じゃあさー、学芸大で通りがかったお店の奥にいたイケメン店員がそうだった。」

「・・・・・、というよりね、じゃあ、やつがイケメンなのかと言う事の方が問題になってきたな。」

― なるほど、場所ではなくイケメンなら許される髪型かもしれないということね。ならば、即答。

「ええ、ルート君イケメンじゃないの~。ハンサムだと思うよ。それで、君もイケメン。」

「ああ~・・・・」

― ピュ―と、彼は足早に去っていき・・・・

 

  ハイハイ、母だって知っていますよ。人は成長と共に良い顔の時もあり、その途中では変な顔に見えたりするときもありますよね。これは子供に限らず大人になっても続くことだと思っています。(ちなみに今の私は・・・・・・ああ~

で、ルート君だってラッタ君だって、時々変な顔と母は密かに思っているんです。密かにと書きましたが、時々それも出会いがしらに、口に出して言ってしまう時もありますね。こんな感じです。

「変な顔してるよ~。目をパッと開けて口をキュッと結んで~。」

 

でも、だいたいは親ばかムード全開です。
だけどラッタ君は知らない・・・・
母は親ばかと言うより、家族バカの年季が半端じゃなく入っている事を。

若い時から、私の父はハンサム、私の姉妹は美人なのと思って暮らしていた私。(母よゴメン、私は正直な人なのだ。)自分の子供がイケメンに見えないわけがないじゃないですか。

 子供の時に叔父が言いました。
「時代と場所を選ぶ事が出来るなら、人はみーんな美人だよ。色白でぽっちゃりしていて、本を読むことが大好きなお前は平安時代に行ったらもの凄い美人だね。」 

 

 そう。様々な時代、場所のイケメン&美少女が今ここに集ってきていて、この時代を構成しているというわけです。

ルート君は、ラッタ君もですが、渋谷のイケメンかはわかりませんが、少なくても私の中では、かなりのイケメンです。・・・と〆ておこう。

 


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ルート君の誕生日♪

2008-04-06 19:39:05 | 家族スナップ

 いつもなら、紅白かまぼこでいいかしらとすっとぼける所ですが、彼も節目の歳を迎えました。だからと言って我が家では、特別に何かをプレゼントするわけではなく、みんなでお食事をして終わりです。

 そういえば、しばらく家族ネタを書いていないので人物紹介をすると、

ある時はパパさん、あるときはだんな、ごく稀に夫と呼ばれるこの人→
すっかり居直って「ダイエットは明日から」のメタボなワタクシ→
恐怖のレベルE的性格、世界は俺様を中心に回っているラッタ兄ちゃん→
超マイペース、言葉知らずの寡黙なお出掛け好きなオタク(?)ルート君→
近所で暮らすパワフル独居老人の姑→

 

 そんな五人で出かけてまいりました。

 

 当初、私が企画したお店は。豆腐料理中心の懐石料理。
そんな所はどうだろう、と言うパパさんと姑の言葉に不安になりましたが、子供には出来るだけいろいろな味の経験が必要なんじゃないかなと思って、懐石料理なんかを考えてみたのでした。

 

 先日、その店のパンフレットを取ってきてルート君に見せたところ
「いやあ~、僕はまだ健康ですよ。」と、やんわりお断りされてしまいました。

なるほど、豆腐料理は健康料理に見えるのですね。健康な者は食べる必要がないと言いたい訳です。そう、若い人にはやはりお肉や魚でしょうね。

 

 そういうわけで、出かけたお店は洋食コースのお店です。お酒もO.Kな訳ですから、ワインをデキャンタで取りました。

 

 前菜、ピザorパスタ、メインはスズキのお料理orチキンのカツレツ、デザートのケーキに珈琲。美味しかったですよ。

ところが、ふと見ればルート君、ガチガチにあがっています。
「学校でマナー教室やったことなかったっけ?」
「ああ~、俺はある。」
「ああ、確か・・・。」

 

 そう、やったことあるけれどこの子達は経験不足。贈りたかったのは、美味しいお食事もそうだけれど、「経験」なんです。女の子だと自分から求めて、いろいろな場所に出かけて行く事もあるでしょう。でも、うちの子供たちは、そういう子供達ではないんですよね。おばあちゃんの所で、美味しいお魚とお肉を食べさせていただいているので、「味」はけっこう知っていると思うのです。

 

 もちろん、そんなに気取る必要なんかはないお店ですよ。ただ、普段はナイフとフォークがたくさん並んでいるお店には、男の子なんかはあまり連れて行きません。あまりと言うかぜんぜんかな。だって高校や大学生なんかはそういうお店より、焼肉店とかファミレスのようなお気楽でパクパク食べる事が出来るお店の方が、喜びますものね。

 

 「美味しく食べるのがマナーだよ。」

 「楽しく食べることが一番よ。」

 「だけど、お前、ナイフとフォーク、内側から取っているぞ。期待通りだ。」   

「アッ、」

「私の友達だって、ちゃんとフォーク使えない人が多くて、お箸もらってあげることが多いのよ。御箸あるか聞いてあげようか。」

「それは、ダメー。」(甘い!練習にならない、かっこ悪い・・心で思ったことは別)

 

 

 けっこうお腹がいっぱいになりました。そういう時は、夜ご飯なんか食べる事が出来ないような気がします。

「夜は納豆ご飯or玉子賭けご飯よ。」

「ぅワーイ

リッチなお食事も納豆や玉子も、美味しければ皆ご馳走ということですね。

 

コメント (6)
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ついでに行ったお花見だけど

2008-04-06 02:49:14 | お出掛け日記

 

 チューリップの季節には必ずと言っていいくらい、「思い切りテレビ」などの画面に映し出される、あけぼの山というところに行きました。

 

 朝、ふと「天璋院 篤姫展」は明日4/6までだから、行こうかなと思いました。でも、ラスト土曜日でもあるわけだから、その混雑振りを想像して気持ちが萎えてしまいました。

 そんなわけで11時頃テレビを見ていましたら、今日から公開の「クローバーフィールド・HAKAISYA」の紹介をしていました。急に観たくなり彼を誘ってみましたが(彼って、夫です   ←なぜ、涙?  )反応悪し。気持ちが悪くなってしまう事を心配しているみたいでした。そう言われると、私もダメかも知れません。焦って行く事ないかと、これまた気持ちが萎えた頃、ふと鏡に映った私の髪の長さに気がつきました。

「髪を切ってこようかな。」と言ったら、

「どうしても、どっかに行きたいんだな。いって来れば~。」

別に、どこかに行きたいわけではなく、髪を切りたいだけですよ。本当です。

 

 ところが友人のやっている美容院に行くと、あけぼの山のチューリップの話が出ました。

「まだ、早いよね。」と言うと、友人は
「今日からチューリップ祭りらしいよ。行ってみようか。」と言うことになり私がラストのお客でしたので、一緒に行くことにしたのです。

但し注意。チューリップ祭りは、そのことを彼女に伝えた人の勘違いで、来週からですよ。そりゃあそうですよね。今は桜の真っ最中です。

 

 あけぼの山は桜でも有名な所なんです。

 

 気楽に出かけたあけぼの山でしたが、反対車線が帰りの車で大渋滞・・・。この季節、ここはお気楽な場所ではなかったかも知れません。でも、其処に出かけたのが3時過ぎだったからか、行きも帰りもスムーズでした。お弁当を食べたりと言う楽しみ方をしなければ、時間を選んでいくと言うのもいいのかもしれませんね。

 

 考えてみれば、私はあけぼの山の桜は初めてでした。

  

       出店もたくさん出ていて、楽しそうでした。

 

         

 

 菜の花も綺麗です。今年はチューリップの間にパンジーが植え込まれていて、チューリップがまだでも、楽しめます。でもやっぱり咲きそろった時に、また見たいような気もしますが。

    

    

 

 お買い物して、6時半頃帰りました。

 

「ながっい美容院だなぁ~。」

「あけぼの山に行って来た。」

「そんなことだと最初から思っていたよ。」

 

そうなの~?  お花見はあくまで美容院のついでだったのに。

    

    


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私が一番きれいだったとき<茨木のり子さんの詩>

2008-04-04 00:50:29 | ’08/12/7までの未整理日記

 

 「花を観る」と言う記事の中で、茨木のり子さんの詩の一節をふと思い出しましたと書きました。

間違って覚えていなかっただろうかと確認をするために、検索していましたら、上にあるものを見つけました。 

 

 だからなんだと言うわけではないのです。ただ、今私の心の中にあるものの欠片と言うか、そんなところです。 


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花を観る

2008-04-03 09:14:31 | お出掛け日記

 

 月曜日の雨にも火曜日の風にも負けなかった桜は、昨日(4/2水曜日)が花見日和というので出かけてまいりました。もちろん、近所の公園にです。なんて言ったって四月の目標は、「家で静かにしている」なんてものですから、活動範囲は狭いのです。

 

    

 

 

      

 

 

 この公園を歩きながら、ふと、茨木のり子さんの詩の一節が思い浮かんできました。

 

―自分の感受性くらい 
  自分で守れ
  ばかものよ  ―

 

「今年の桜はやけに白い。」と先日会った姉が言っていました。

だからなのか、毎年この公園に桜を見に来ているというのに、足を踏み入れたときには

―まぁ、綺麗。
―ああ、凄い~。  みたいな感動が皆無。

私は、自分の動かぬ心に驚きました。

 

「ねぇ、今年の桜は綺麗じゃないね。」と私が言うと、一緒にいた友人も
「そうね。」なんて、相槌をうってくれるからヤバイと言うものです。

 

 感受性ー外界からの刺激を深く感じ取り、心に受けとめる能力。

 

多少の色の濃さ薄さはあっても桜はさくら、本当はそうじゃないんですよね。私自身の感受性の問題なんだと思うのです。

「今年の桜は・・・」なんて言った私の声を聞いた桜の木々たちは
「今年のお前は、咲いていないね。」なんて、言ったかも知れません。

 

 素晴らしい絵画の前に立っても、心の目が開かれていなければ壁紙の模様と同じですよね。花見如きでも「見る」ではなく「観る」と言う意識でしっかり観ることにしました。

そんなことを思いつつ撮った数枚の写真です。

 

    

 

 

    

 

 

    

 

 それで最後は花より団子ですか~?
団子ではありませんが、やはり和菓子は季節感が大事ですよね。(同じことを秋にも言っていますが・・・)可愛いですよね。↓

 

    

 

 

 

 ところで、「咲いていないね。」=「さいていないね。」のお話を少しだけさせてくださいね。

話し言葉なら「咲いていないね、」=「冴えていないね。」と無理やり持っていってしまって、話を膨らませたい所ですが、書き言葉では強引ですよね。「最低ナイネ。」では意味ないし、そんな事を思いつつ「さいていないね」を変換すると「最低な稲」と出てきました。

考えてみれば当たり前なこと。でも、私はしみじみとしてしまいました。
パスカルが人を葦に例えたように、「稲」に例える事も可な訳ですから、掛詞的な言葉遊びが好きな私には、面白く感じました。

 

「咲いていないね。」=「最低な稲」

 

そうはならないように自分の感受性を守るべし。
どうやってかは、エンドレスで思案中。


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