以下、同感の内容です。
「滋賀県、現在、立命館大学総合科学技術研究機構のチェアプロフェッサーです。専門は地球物理学。」
文章にもありますが、私も、「おもろいやんけ」という言葉がけをしながら、小保方氏のチームが、世紀の大発見の証明をされることを期待して待ちたいと思います。
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http://blog.goo.ne.jp/bitex1993/e/978fa73e5c3e841edf168828ec1d0004?fb_action_ids=452648211535960&fb_action_types=og.likes&fb_source=other_multiline&action_object_map=%5B637671092973346%5D&action_type_map=%5B%22og.likes%22%5D&action_ref_map=%5B%5D
まずいな、と思う。
あまりにも行き過ぎたバッシングだ。
確かに論理的な破たんはあるが、科学におけるもう一つ大切なことを私たちは忘れている気がする。
それはIntuition(直観)と呼ばれるものだ。
彼女は何かを見つけ、何かを伝えたいとしている。
このことは、すべての前提に対して優先するものだと私は思っている。
某学会までもが彼女のContributionを痛烈に批判することの危うさを私は感じている。
仮に彼女の発見と言われるものが間違っていたとしても、間違いだとわかることが科学の進歩につながる。
もし正しいとしたら、いったいどうやって謝罪するというのだろうか。
これは、社会やマスコミや学会の致命的な倫理的破たんだ。
正しい対応の仕方とは何だろうか。
私が理化学研究所の所長であったとするならば、外圧を凍結し、彼女に1年間の猶予を与えるだろう。
この一年間の間に、問われている批判にこたえるだけの成果を出しなさい、と励ますだろう。
おそらく、ハーバード大学の指導教官の思いもそこにある気がする。
研究者が正しいと思い、直観に従って記述した研究成果が、時として不適正な場合もあるかもしれない。
本来はそのようなことはあってはならないのだが、その不都合さゆえに、すべてを否定するような行為は科学に対して何の貢献ももたらさない。
以前、科学論文には、Originality、Repeatability、Consistencyの3つが必要だと述べた。
それにもまして大切なことは、事実に対するIntuitionである。
確かにリセット可能な細胞が常に存在する、という主張には首をかしげたくなる。
しかし、気まぐれな自然の中には、そのようなものが存在していてもよいのかもしれない。
そこに科学の妙味がある。
それらを完全否定するようなバッシングは、百害あって一利ない。
過去において、この種の発見は、多くの批判と虐待をもたらしてきた。
あえて私は、小保方晴子さんにエールを送りたい。
負けるな青年。
間違っていてもよいではないか。
まだあなたは若い。
自分のIntuitionに従って、正々堂々と主張してほしい。
あなたが見たかもしれない壁の向こうには、違う色の世界が広がっているのだろう。
私はそれが世の人々に新しい真実を突きつけることを期待している。
私たちが向き合っている現代社会の多くの矛盾が、一人あなたに襲い掛かっている現実を座視することに私は耐えきれない。
科学とは本来、すべてのドグマや圧力から、自由でかつ夢があるものだと思うからである。
かつて寺本英が私に言った、「おもろいやんけ」という言葉を伝えたい。
「滋賀県、現在、立命館大学総合科学技術研究機構のチェアプロフェッサーです。専門は地球物理学。」
文章にもありますが、私も、「おもろいやんけ」という言葉がけをしながら、小保方氏のチームが、世紀の大発見の証明をされることを期待して待ちたいと思います。
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http://blog.goo.ne.jp/bitex1993/e/978fa73e5c3e841edf168828ec1d0004?fb_action_ids=452648211535960&fb_action_types=og.likes&fb_source=other_multiline&action_object_map=%5B637671092973346%5D&action_type_map=%5B%22og.likes%22%5D&action_ref_map=%5B%5D
まずいな、と思う。
あまりにも行き過ぎたバッシングだ。
確かに論理的な破たんはあるが、科学におけるもう一つ大切なことを私たちは忘れている気がする。
それはIntuition(直観)と呼ばれるものだ。
彼女は何かを見つけ、何かを伝えたいとしている。
このことは、すべての前提に対して優先するものだと私は思っている。
某学会までもが彼女のContributionを痛烈に批判することの危うさを私は感じている。
仮に彼女の発見と言われるものが間違っていたとしても、間違いだとわかることが科学の進歩につながる。
もし正しいとしたら、いったいどうやって謝罪するというのだろうか。
これは、社会やマスコミや学会の致命的な倫理的破たんだ。
正しい対応の仕方とは何だろうか。
私が理化学研究所の所長であったとするならば、外圧を凍結し、彼女に1年間の猶予を与えるだろう。
この一年間の間に、問われている批判にこたえるだけの成果を出しなさい、と励ますだろう。
おそらく、ハーバード大学の指導教官の思いもそこにある気がする。
研究者が正しいと思い、直観に従って記述した研究成果が、時として不適正な場合もあるかもしれない。
本来はそのようなことはあってはならないのだが、その不都合さゆえに、すべてを否定するような行為は科学に対して何の貢献ももたらさない。
以前、科学論文には、Originality、Repeatability、Consistencyの3つが必要だと述べた。
それにもまして大切なことは、事実に対するIntuitionである。
確かにリセット可能な細胞が常に存在する、という主張には首をかしげたくなる。
しかし、気まぐれな自然の中には、そのようなものが存在していてもよいのかもしれない。
そこに科学の妙味がある。
それらを完全否定するようなバッシングは、百害あって一利ない。
過去において、この種の発見は、多くの批判と虐待をもたらしてきた。
あえて私は、小保方晴子さんにエールを送りたい。
負けるな青年。
間違っていてもよいではないか。
まだあなたは若い。
自分のIntuitionに従って、正々堂々と主張してほしい。
あなたが見たかもしれない壁の向こうには、違う色の世界が広がっているのだろう。
私はそれが世の人々に新しい真実を突きつけることを期待している。
私たちが向き合っている現代社会の多くの矛盾が、一人あなたに襲い掛かっている現実を座視することに私は耐えきれない。
科学とは本来、すべてのドグマや圧力から、自由でかつ夢があるものだと思うからである。
かつて寺本英が私に言った、「おもろいやんけ」という言葉を伝えたい。