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法曹倫理 Spaulding caseを考える。

2014-05-16 23:00:00 | 社会問題
法曹倫理 Spaulding caseを考える。

第1 被告弁護士の倫理的義務違反について

1、被告弁護士は、倫理的義務に違反するか

 ミネソタ州最高裁判所は、原告スポールディング側提起した損害賠償請求訴訟に対して、被告側の代理人となった弁護士(以下、「被告弁護士」という。)の倫理的義務に関して、「倫理や法的義務の規定は被告に不利な事実を原告又は原告の弁護士に知らせたり裁判所に通知することを要求していないが、当時の和解が大動脈瘤を考慮したものではないことが明確になった以上、裁判所は和解を無効とすることができる。」と判示している。(和解は、無効であるということであるが、そのまま訴訟が係属して判決が出された場合は、その判決まで無効ということまでいうのかは明らかではない。また、和解がなされたときは、スポールディングは未成年であった。もし、成人であったとしたら、同様の結論であったかも不明である。)
 上記判示は、倫理義務違反はないとしているが、日本の弁護士倫理の考え方に沿うのであれば、被告弁護士は、倫理的義務に反していたと私は考える。

 以下、その理由を考えて行く。

2、弁護士の誠実義務

 弁護士は、誠実義務を有している。弁護士法1条が、第1項で、弁護士の使命が基本的人権の擁護と、社会正義の実現にあることを宣言した上で、第2項で「弁護士は前項の使命に基づき、誠実にその職務を行い、社会秩序の維持及び法律制度の改善に努力しなければならない」と定められている。「弁護士倫理」(H6年制定、H17年まで弁護士の倫理の基準として機能)第4条でも「弁護士は、信義に従い、誠実かつ公正に職務を行う」と定め、この規定は、現行の弁護士職務基本規定5条「弁護士は真実を尊重し、信義に従い、誠実かつ公正に職務を行うものとする。」ということに引き継がれている。

3、被告弁護士が、倫理的義務に反することの理由について

 社会正義の実現に使命があるのであれば、被告弁護士は、スポールディングに大動脈乖離があることを被告らに説明し、スポールディングのわかっている限りの病状に合わせた和解の評価をうけられるように仕向ける必要があった。それが、保険会社の一社にのみ大動脈乖離の事実を伝えたに終わっている。スポールディング自身が大動脈乖離のことを知る前に、大動脈が破裂し、死に至ることもあり得た。その場合は、被告弁護士が責められるかどうかは別にしても、大動脈乖離の情報の秘匿が、スポールディングの早期発見のチャンスを奪っていることは確かである。本当に情報の秘匿が許されるのであろうか。
 さて、短期的には、保険会社は、大動脈乖離の症状をいれずにスポールディングに和解金を払うことになり、当初は、払う額自体は少なく抑えることができたであろうが、長期的には、和解が無効とされたことで、一度で和解や裁判が済むべき所、再度1審裁判所に差し戻されたのであり、時間的にも大きなロスを被ることになってしまった。
 原告側が、原告弁護士も含め、大動脈乖離の情報を得るべく証拠開示をもとめることが出来たのにしないことを奇貨として、情報を秘匿せしめた被告弁護士の行動は、「代理人的性格」に重きを置くがあまり、「司法機関的性格」を忘れ、倫理的義務違反をなしたと言えるのではないか。

第2 社会は、被告弁護士のような弁護士を求めているのか

 Spaulding caseでは、被告弁護士は、保険会社の費用で賄われ、弁護士の選任自体も保険会社が行っていた。
 保険会社は、たとえ、弁護士倫理義務違反ぎりぎりの行動をしたとしても、被告弁護士のような、実は、短期的にでも支払う保険料を少なくすることに重点を置く弁護士を求めているのかもしれない。
 いや、食うか食われるかの実社会において、被告弁護士のようなタイプのほうが、弁護士として企業にとっては望まれるのかもしれない。
 それは、なぜなのだろうか。3つの要因が考えられると思う。

1、悪貨は良貨を駆逐する原理が働くため

 正義や社会の公正をいくら声高に叫んだとしても、ひとや企業は、1円でも多くの利益をもたらす弁護士を良いと考えがちである。
 すると、オファーも断然、被告弁護士のようなタイプに集まる。
 弁護士職業も、ボランティアではなのだから、収益を上げる必要がある。それでないと、事務所費用や事務員費用が賄えず、結局、自らの事業を回せないこととなる。
 大衆受けのするほうに、弁護士が流れ、ますます、社会正義や公正を目指すひとの職が減る流れは、止めようにも止まらない。
 社会正義や公正に反する弁護士活動のなされることが、尊重される社会の機運や民度を挙げて行く必要がある。そのためにも、社会に対し、憲法学や法律学の基礎的な知識や法的思考方法の基本を、情報発信する不断の努力が必要であると考える。

2、倫理は、教育で芽生えさせるには限界があるため

 もともと、弁護士倫理を学んでいない弁護士が、倫理に添った活動ができないし、さらに、たとえ、倫理を学んでも、知識の様に学んだからすぐ使えるものでもない。
 倫理は、そのひとが生まれてからの成育環境、家庭環境、友達関係、先生との出会い、宗教観などで育まれるものである。付け焼き刀で身に着くものでは決してない。
 かと言って、できないからと言って、放置してよい理由にもならない。
 教育には一定の限界があるし、倫理を規定においても倫理と法律がなじまない部分もあって、法的拘束力で割り切ることができない部分が残ることとなる。
 弁護士ひとりひとりのまさに、倫理観に期待するほかない。

3、党派性(「代理人的性格」)に偏重しすぎるため

 依頼者の依頼に応え、依頼者の利益を最大化したいがために、倫理をも忘れて活動をすることも考えられる。
 公判の攻防がし烈になればなるほど、依頼者側に有利になるように行動したくなるのがひとの嵯峨であろう。民事訴訟法2条信義誠実義務違反、弁護士職務基本規定5条真実尊重義務違反、同75条偽証のそそのかし違反となるところであるものの、証言予定者が不利な証言をしようとしている場合に、より有利な証言にかえるようにアドバイスすることもありうる話である。
 しかし、弁護士は、弁護士法1条1項「公益的役割」(公益性)及び「当事者その他の関係人の依頼等によって法律事務を行うことを職務とする」(同3条1項)という「当事者の代理人としての役割」(党派性)の一見矛盾する両者のバランスを取らねばならない。すなわち、「当事者の代理人としての役割」の限界を画すものが「公益的役割」である。
 従って、弁護士は、依頼者との信頼関係に基づく善管注意義務により、最大限の努力を傾注して依頼者の権利実現または利益擁護に邁進すべきだが、そのために社会的正義その他の規範に違反しまたは公益ないし公的価値に抵触することは許されない(加藤新太郎『弁護士役割論』)。弁護士として、守るべき一線を、個々の具体的なケースにおいて自ら明確にして行動する必要があるであろう。

第3 Spaulding caseでの医療倫理について

 私は、医師のであり、弁護士倫理を考えることで、医師の倫理をあらためて考え直す機会を得ている。
 Spaulding caseに出てくる医師の行動は、医療倫理の観点から、どうあるべきであったか。
 医学分野においては、医師には、病気を治すこと(cure)だけでなく、患者のQOLを高め、その患者が社会生活を豊かに送れることができるようになるという、全人的医療(care)を他職種連携の下に達成していくことが、常に目標としてある。
 しかし、残念ながら、Spaulding caseでいうのであれば、被告側の医師の行動は、あるべきケアの真逆であった。すなわち、原告の大動脈乖離を発見したのであれば、破裂すると生命の危険を来す重大疾患であるのだから、その治療を受けさせるように行動すべきであった。自分の役割は、被告側に依頼された診断をしたことで終えたとして、患者を放置することは医師として決して許されないと考える。

以上
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