医療と法との接点の分野、きちんと学んでいきたいと思うところでもあります。
同じことを、何度も何度も繰り返してはなりません。
健康をないがしろにする政策は、皆の力で正していかねばならないと思います。
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http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2012071702000095.html
社説 四日市の判決から40年 公害の反省はいずこ
【中日新聞 2012/07/17 朝刊オピニオン 1688字】
四大公害の一つ、四日市公害訴訟の歴史的な住民勝訴から四十年。あの経験は、生きているのか。原発事故は防げなかったか。四日市は再び語り始めた。
半世紀前、日本は敗戦の傷をいやそうと、上り坂を無我夢中で駆けていた。そのエネルギー源が石炭に代わる石油であった。
三重県四日市市南部の近鉄塩浜駅から伊勢湾へ。トラックが行き交う塩浜街道を横切ると、第一コンビナートの敷地が海まで続く。
紅白に塗られた巨大な煙突の先から白い煙が立ち上り、銀色の管が無数に走るプラントが今もひしめき合っている。かつては黒煙が市内を覆い、煙突からは二十メートルもの火柱が上がった場所である。
一九五五年、旧海軍燃料廠(しょう)、軍の石油精製施設跡地の払い下げを受け、三菱グループを中心に、石油化学コンビナートの建設が始まった。高度経済成長の夜明け、石油時代の幕開けだった。
その四年後、日本初の本格的な石油化学コンビナートは稼働した。「結合」を意味する耳なれないロシア語に、地元だけでなく、日本中が夢を見た。近くの小学校の校歌には「コンビナートは希望の光」というくだりがあった。
さらに四年後、異変が明るみに出始めた。伊勢湾で捕れた魚の異臭騒ぎに始まって、重いぜんそくの症状を訴える患者が多発した。煙の中に含まれる亜硫酸ガス(二酸化硫黄)が原因だった。
六七年、隣接する磯津地区の患者九人が、第一コンビナートの六社を相手取り、慰謝料などの支払いを求めて提訴した。日本初の大気汚染公害訴訟である。五年に及ぶ審理を経て、津地裁四日市支部は六社の共同不法行為を認め、総額八千八百万円余の支払いを命じた。六社は控訴しなかった。
その日から間もなく四十年。原告の生き残りは野田之一さん(80)一人になった。市の観光協会は、コンビナートの夜景クルーズで人を呼ぶ。
四日市公害とは、いったい何だったのだろうか。四大公害のうち、富山のイタイイタイ病、新潟水俣病、そして熊本の水俣病も、事件の発端は戦前にある。
四日市公害は明らかに、高度経済成長という強過ぎる光の影である。日本列島の真ん中で、日本経済の中枢を担う企業が「結合」し、石油時代への舵(かじ)を切り、エネルギー多消費、大量生産のものづくりでこの国のかたちを変えた国策そのものの影だった。
◆工場よりも命が大事
「人の生命・身体に危険のあることを知りうる汚染物質の排出については、企業は、経済性を度外視して、世界最高の技術・知識を動員して防止措置を講ずべきである」。予防原則にまで踏み込んだ判決は画期的だった。産業や経済より人間の命の方が大事だと、司法は強く訴えたのだ。私たちはあの時、ゆったり歩く、もう一つの道を選ぶこともできたのだろう。
四日市では「スモッグの中のビフテキよりも、青空の下の梅干しおにぎり」というスローガンが叫ばれた。工場には脱硫装置がついて黒い煙は白くなった。大気汚染防止法が改正され、環境庁が発足した。それでも私たちは、青空の下のおにぎりを選ばずに、成長の影を引きずった。
弁護団事務局長の野呂汎さん(81)は「この国では、エネルギー政策の変わり目に歴史的事件が起きる」としみじみ語る。
四日市市は二十九日、節目の記念式典を市としては初めて開く。福島の事故に、歴史を伝え残す責任をかき立てられたかのように。
大量の電力を安価で効率的に産業界へ送り込む。これが原発が選ばれる最大の理由であった。そのために、命や健康への影響が軽視され、施設の老朽化や自然災害の危険を顧みなかった。廃炉や廃棄物処理などの費用をみれば、割安でも効率的でもないのだが、その結果が福島原発事故である。
◆私たちみんなで選ぶ
市内の水処理会社に勤める榊枝正史さん(27)は、今年から「語り部」を名乗り始めた。「公害とは関係なく生きてきた世代にも、未来を考えてもらいたいから」と、昔語りではなく五感に訴える連続講座を開いている。
例えば磯津でとれた魚を実際に食べてもらう、というような。
四十年前と同じ岐路に立ち、四日市は再び語り始めた。だが、石油時代の次の針路は結局、私たちみんなで選ぶのだ。それもあの時と同じである。