京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

人は心の中に塔をもつ

2024年09月10日 | 日々の暮らしの中で
今週末の寺子屋エッセイサロンでの合評会に間に合うよう、苦心しつつ仕上げに勤しむ。
いつかいつか、詩歌を散文の中に交えたスタイルで、(でも身の程知らずの歌論などではないわ、しかし単なる引用のちりばめでもなく)エッセイを書きたいな、書くのだ、なんて思い続けて、いったいまあ何年の年月が流れ…。
大きな方向だけは見失うことなく気持ちの奥底に据えている。

午後4時頃にはひと雨降りそうな空模様に期待したが、雷鳴が2発に雨少々で終わってしまった。ただ、気温が下がって、エアコンなしでいられる。
心なしか虫の音も繁く高らかだ。



先日、薬師寺東塔の全解体修理の様子をテレビで見て以降、「変わりゆく伽藍と塔の雪」(大岡信)、「薬師寺東塔」(矢内原伊作)、『古寺巡礼 抄」(和辻哲郎)など読み継いでいた。
これらの作品の書かれた年代が古いだけに、読み知るにつれ再建や復興への悲願が身に沁みてくる。
母を案内して訪れたとき、西塔の再建はなっていなかった。それ以後長きの無沙汰…。もっと気候が良くなったら訪れたいものだ。


   ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なるひとひらの雲

「人はそれぞれの心の中に塔をもつ。塔は天上的なものへの、人間の祈りと讃仰の姿である」と。





 
サッカーのクラブでのシーズンが終了した孫L。
イタリア人がオーナーだというアカデミーのアンダー8のチーム(右)にも参加していて、こちらは見事優勝で終わった。
「家族の中で一番のワル」と姉のJessieが言っていたのを思いだすのだけど、顔つきもたくましくなったかな。
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米の飯さえあれば生きていける

2024年09月07日 | 日々の暮らしの中で
その日、家で大人のいざこざに巻き込まれ、登校拒否になってしまったYちゃんと、戦争で右足を無くし松葉杖を突いて登校中、その歩く姿を真似られ、からかわれて泣きだしたKちゃんの二人を元気づけるため、小3から中2の女の子ばかり10人が、誰言うとなく一握りの米を持ち寄り、摘んだヨモギやノゲシの葉を入れて大鍋で雑炊を炊いた。

塩で味付けしたあたたかい雑炊は、「小さな胸の中の悩みや悲しみを、白い湯気で包んで笑顔に変える魔法の力を持っていた」


「もう六十年も前の沖縄での事」として玻名城千代子さんが書いていた。(『人間はすごいな』収 「米の飯さえあれば」)
文中の「60年も前」というのは、現時点では74年ほど前になろうか。
夢を語り、「いつか銀シャリのおにぎりを持って」と言い合った少女たち。

年月は流れ、日本はいまだ飽食の時代を思わせる。テレビ画面にはパクパク、もぐもぐ、ものを食べる姿がうんざりするほど映る。さまざまの食べ物の写真もあふれるし…。
でも、本当の“豊かさ”だろうか。

玻名城さんは、「古希を過ぎ、貧しくなるばかりの老いの日々だが、銀シャリさえあれば生きていける」と結んでいた。

我が家の義母も生前はよく口にしていた。
「ご飯がないのはかなん」
米がなかったわけではなく、仮におかずは漬け物だけであっても、とにかく白米だけは気のすむよう満足に食べたい口だった。
寺という環境で育った義母なりの、白米への思い入れかもしれない。
義母は「もっと食べろ、食べろ」と私に口うるさかったが、私は家にいれば、一日1回夜、一膳の白米をいただく。この基本は若い頃から変わりようがない。


その米が、売り場の棚から姿を消した。品薄と言われてここ久しい。
新米の時期には「仏さんに」と大きな袋であげて下さるご門徒がおいでだ。変わらぬお気持ちへの感謝の念が深まる。
底をつく前にと意識はしていたけれど出会いに恵まれず、少々不安になりかけてきた先日、5キロの新米が手にはいった。

「米の飯さえあれば生きていける」
これを一つの灯りとして、これからはそう信じて生きなければならないのだろうか。
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名作・大笑

2024年09月05日 | こんな本も読んでみた



徳島県南部の霊峰剣山から、みちのくの蔵王へ。
手にした物語の舞台は移った。

養護施設愛光園で育ち、剣山に鎮座する剣神社の、二人とも60歳を超えた宮司夫妻の養女となった珠子の二十歳までの人生が描かれ、ラストは豊かな余韻を残して終わった『天涯の花』。
そして新しく『錦繍』(宮本輝)のページを開くと、そこは(先ずは)蔵王だった。

 

「蔵王のダリア園から、ドッコ沼へ登るゴンドラ・リフトの中で、まさかあなたと再会するなんて、本当に想像すらできないことでした。」
手紙の冒頭はこの一文から始まっている。

この作品を知ったのは、乙川勇三郎氏の『二十五年後の読書』の中でで、
作品中、編集者響子が旅先にもっていった本を読む箇所があり、アメリカ文学の「体の贈り物」から「忍ぶ川」「冬の梅」と読んでゆき、「死の島」の語感と長さにためらって、手にしたのが「錦繍」だった。

響子に託し、- 書簡体小説は苦手だが、これは例外で、今や原始的な通信手段となった手紙だからこそ伝えられるもののあることを再認識できてよかったーと書き添えてある。
未読でもあり、“乙川氏の言われる作品だから!”という理由で昨年3月に購入したのだった。

10年ぶりに再会した元夫との往復書簡。
もうしょっぱなから無理心中の巻き添え、離婚、変貌の激しさ…、となんだか暗い、重っ苦しい言葉ばかりが続く。
「地獄」?
でも、“愛と再生のロマン”らしいのよ。せっかく買ったんだし、宮本作品だし、読みつつあるところ。


こちらは、「父のじごく」
って、何を見た? 何があったの? (受けるなあ)と笑いも漏れたが、この発想はどこから…?? 


「父のじごく」「姉のぼう力」だなんて。書こうとした心というのか頭のうちは如何に? 何が潜んでいるのかしら。笑っていればいいのかな。

            9/7 「『父のじごく』??」 を 「名作・大笑」と改題します

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縁を生かして

2024年09月03日 | 日々の暮らしの中で

   葛の花 踏みしだかれて 色あたらし。
        この山道に行きし人あり
 
釈迢空(折口信夫 1887-1953)の歌集『海やまのあひだ』の巻頭の一首。

深い紫紅色の花房が無惨にねじれて踏みしだかれている。この山道に自分より先に入っていった人がいる。どんな人か。
先んじられたことを口惜しがっているのではなく、私と同じことをたくらみ、それを実行した人がいるということに胸がときめいているのである。
杉本秀太郎氏はこのような意を読んでおられる。歌意は平明ではない、と言われる歌だが。

今日は迢空忌。

 

「折口信夫」の名を知るきっかけとなった『折口学への招待 民俗文学への入門』は、高校を卒業して大学入学までの間に読んでおくよう古典の授業を通しての恩師から紹介された幾冊かのうちの一冊だった。
あとに続きたい。先生のような古典の授業をしたい。日本文学、それも中古文学を専攻したい、と自分の進む道をすでに思い描いていた。

日本文学の根底にある民俗学的方法なるものへの案内として、提示して下されたのだろう。
本がというより、恩師との大切な思い出の一つということで大事に手元に残している。
師とは長くハガキや手紙でやり取りさせていただいて、筆跡を、漢字とひらがなのバランスなど文字の表情とでもいおうか、よく真似をした。

民俗探訪のためにと足を使って分け入ることもなく、研究成果をいただく机上の学問だったけれど、学び、知るにつけ作品を読むうえで深みが増す。それはそれで楽しいものだった。


ここ最近、大昔の学びを振り返る機会に恵まれて、懐かしい自分をそこに見出している。刺激が、自分をつつく。触発されて残っているちょっとの関心が、気持ちを動かすのだ。何年振りかというほどに『身毒丸』を読み返し、「次」を考えている。
これは幸いなことね。
ともし火が消えないうちにと縁をも生かす。生かさないなんてもったいないでしょ。

窓の外、冷ややな空気の中に澄んだ虫の声。

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木組み・心組み

2024年09月01日 | 日々の暮らしの中で
昨夜、NHKの番組「新プロジェクトX」を観た。1300年を経た薬師寺東塔の全解体修理に携わる職人さんたちの〈技と哲学〉、挑戦の姿に見入った。




1300年の荷重で腐食したりゆがんだ心柱をはじめに1300あるという部材を、「創建当時の工人たちの心になって」仕事をされていく職人さんたち。
2012年に開始された修理は2019年に終了、9割の部材を生かすことができたと伝えられた。近しい者の幸せや世の安穏を祈りつつだったろう。


飛鳥時代から受け継がれていた寺院建築の技術を後世に伝える棟梁・西岡常一さんを描いた
映画、「宮大工西岡常一の遺言 鬼に訊け」を見たことがある。
「技法に世襲なし」 は名言として残る。

法隆寺の大工には代々口伝が伝わっているそうで、西岡氏も祖父の常吉棟梁から教えを受けていた。
「木は生育の方位のまま使え、東西南北はその方位のままに」
   山の南に生えていた木は、塔を建てる時に南側に使え。北の木は北、東の木は東、
   西の木は西に、育った木の方位のまま使えと。
   
「堂塔の木組は、寸法で組まず木の癖で組め」
「百工あらば百念あり…」

「木の癖組は工人たちの心組み」

木と同じように人にも癖がある。
木の癖を生かした木組みをし、工人たちの心を汲んで心組みをする。
ありとあらゆる職人たちが心を一つにして仕事に向かえる集団にしていくことは、棟梁の器量なのですな…。
物の見方、人とのつきあい方、教えられるようだ。


「初め器用な人はどんどん前へ進んでいくんですが、本当のものをつかまないうちに進んでしまうこともあるわけです。
だけれども不器用な人は、とことんやらないと得心ができない。こんな人が大器晩成ですな。頭が切れたり、器用な人より、ちょっと鈍感で誠実な人の方がよろしいですな」

1300年、ここに建ち続けているということが、建て方、材の用い方…誤りではなかったことの証しとなること、印象に残った。
創建当時の工人さんたちの技法、哲学、祈りの心、に遠く遠く思いをはせてみる。

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あと少しが遠くても

2024年08月29日 | 日々の暮らしの中で
台風情報に翻弄され気味で、本土上陸後の激しい雨風による被害の大きさを知っても、さて、いつから行動を起こすかと思案で終わっている。
庫裏の建物は周囲ぐるっと溝がめぐらされているので、大雨に供えて流れをきちんと確保できるようでなくてはならない。
吹き飛ばされそうなものはすべて蔵へしまおう。
一度庭木の枝が高所で折れて、それが廊下の窓に倒れかかったことがあった。雨戸はいつ閉めよう? 本堂は厳重に雨戸を閉める。

雨は降ったりやんだりで今は特段警戒を要する状況までは至っていない。最接近するという日を目安に、明日にでも、情報を確認しつつでいいだろう。
溝は大丈夫。大慌てしてでも閉めまくればいいのだから。
と、やきもきするのは女手一つ。…いざとなったら動いてくれるのでしょう。


そんななか、孫のTylerに贈ろうとバースデーカードを認めた。
ちょっと油断してしまって、来月15日にぎりぎりで間に合うかどうか。明日には郵便局に行く。


13歳。thirteen。「ティーンエイジャー」だから、ちょっと大人っぽい?カードにして、しかし中はくだけて、生まれてからの想い出をいくつか並べ、親切心はほめ言葉をちりばめた。

夜、まだ封をしてないカードを取り出して、とどめの一筆を。
テレビで聞いたばかりの歌詞を片隅に記した。

    ♪あと少しが遠くても
       足あとの数を誇ろう

想いは通じるかしら、13歳に。
それにしても・・・ 過ぎたるはなんとやら言いますわなあ。


アイスが欲しくて探しにいく4歳半ばのTyler.
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心が和んだ

2024年08月26日 | 日々の暮らしの中で

どうしても今日には詣っておきたかった事情もあって東本願寺へ。
塀沿いの法語行灯の中に、〈苦し「み」  悲し「み」  悩「み」、いずれも人生の味 〉ー といったことが記されたのがあった。
人の心の底など見通せる(見通される)ものではないと思うも、人の中に生きるとき、こうしたことがわかる細やかな神経、思いやりや優しさをもっていたい。


父の母親は寺に生まれた。だからといって特別熱心なということは表面上は感じてこなかったが、この祖母や父の姿に倣い生きてきた日々に、仏縁はひそかに結ばれていたと気づかされる。




〈秋分の日の電車にて床にさす光もともに運ばれて行く〉
  心が和んだ。ああ、短歌はこんなに静かに情景を丁寧に歌っていいのか。多く学ぶところがあった。作歌に迷ったら、佐藤佐太郎を読みなさい。そう言って下さったのは、誰だったのだろう。

〈苦しみて生きつつをれば枇杷の花終わりて冬の後半となる〉
  私は考えた。それまでの私は、自分の心の激しさや思いの丈を三十一文字にぶつけるのが短歌だと思っていた。それは違ったのだ。佐藤佐太郎の作品は、そのことを私に思い知らさせてくれた。
                 (石蕗の章 佐藤佐太郎  より)

道浦母都子さんの『歌人探訪 挽歌の華』をゆっくりと、それこそ一日一人のペースで読んでいる。
1947年に生まれ早稲田に入学。反戦デモに参加するようになって、学生運動の挫折、その後の孤独といったことなどにも、なぜか心魅かれる歌人のお一人でいたが、道浦さんの「原稿用紙千枚分を三十一文字で表現するような一首ができるかもしれない」の言葉もまた強く印象付けられて記憶されている。

情熱を秘めつつ、物静かな人がいい。
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繊細な心と情熱があれば

2024年08月24日 | こんな本も読んでみた

紅蜀葵咲く地の影に暑を残し   石原八束

赤い花でも涼しさを感じさせるモミジアオイ。この猛暑日はいつまで続くのだろうか。
台風への備えも気にかかりだした。

幕末の世(政)情の変化激しい時代に、
十代で南画に出会い、世間という拒み切れない魔物に振り回され回り道をしたが、煩わしい日常と馴れ合わずにきた女の強情。
「強情と強靭な精神は紙一重」としながら、画家になりたいという夢を枯らさない、己を貫く強さを持った一人の女性を描いてみせてくれた。
人はさまざまに心に不自由を抱えているものだが、「繊細な心と情熱があれば、人は丁寧に生きてゆくはずである」。タイトル『冬の標(しるべ)』には、そんな思いを読んだ。

一人の女性の情熱と心の揺れを通して、生きる意味を読んだ。さまざまな両極端を身にからみつかせつつも生きる、人の自由さ。これも文学かな。
派手さはないがじっくりと読ませてくれた。

 

書店で『序の舞』が平積みされたのを目にし、どなたかのブログでキレンゲショウマを見たことが偶然重なったことで、2022年1月に買い求めたままになっていた宮尾登美子さんの『天涯の花』のページを開くきっかけができました。

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お地蔵さんを洗い清め

2024年08月21日 | 日々の暮らしの中で
地蔵盆をまえに町内の祠におさめられたお地蔵さまを洗い清めた子どもたち。
お座布団に前掛けと、新しいものが用意される。

当日は朝から大人が出て会所の庭先にテントを張り、座敷にはお地蔵さんの飾り付けをすませる。
23.24日と主役である子供たちを見守り、食事の世話などもろもろの助っ人役を務める大人の方が、子どもの数を上回っているんじゃない?という昨今だが、そのぶん安全に目も届き、思いっきりくつろいで遊びにも興じられるというもの。

お供え物を何にしましょう。
飲み物、駄菓子、カップラーメンなどのインスタントもの、果物…、各家から供えられたものは子どもたちで等分に分けて、彼らの口に入る。

「じぞ(地蔵)さんに賽銭あげとくれ~」
賽銭箱を持った年長者のあとについて町内を練り歩く子どもたちの声が通りに響く。
夜には町内が寄って数珠回しをしながら、子供たちの無病息災を祈り大数珠を拝す。
夏休み最後となるオタノシミ、どうぞ無事に済みますように。


様々な年齢が一つ箇所に集まって過ごす2日間。小さな社会体験を重ねて親睦していく姿はよいものです。


連日の猛暑は未だ衰え知らずとはいえ、季節の微妙な移りを覚えることがある。

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母娘の旅

2024年08月18日 | HALL家の話
「今から女二人でシドニーにいきます」
早朝、娘からLINEでメッセージが入って、突然だったが(もしかしたら…)とは思った。

案の定、「誕生日のプレゼントにチケットを取るから、週末を利用してシドニーに行こう」
誘ったのは孫娘だった。
ジェットスターのタイムセールを利用したチケットだというが、ホテルの宿泊費、食事代、もろもろ物価高で世界で2番目に住みにくい場所と言われるシドニー。日本人の感覚からすると、と値段にいちいち反応する娘。
「コーヒー2つ、ベーグルとで26ドル」「オイスター10個で30ドル、…」

 


昨日の上々の天気は一転、今日はロックスのマーケットを覗き歩くにも小雨でダウンを着用したという。

 

「よく歩いたわ。都会は歩くね、歩く!」
束の間の母娘の旅は明日の朝の便で終わる。1時間でブリスベン到着。また日常に~。


孫娘が生まれるので渡豪した2005年。
出産後病院から帰宅してまもなく、「せっかくだからシドニーに行って来たら」とチケットやホテルの手配も済ませて送りだされたことがあった。
(一人で?)と先ず思ったけれど、まさか娘と行けるはずもなく、しかしせっかくの好意を無にもできず…。
前日にはシドニーの地図を自分なりに描いて、そこそこ頭に入れて…、どこへ行こうかと急遽計画を立てたのだった。

「よく歩いた!」ということばを私自身も実感として味わっていたから「わかる、わかる」。
確か、あの当時はなかったトラム。夜、少しだけ思い出を交わし、引っ込んだ。


母と娘が共に暮らす時間は多くの場合とても短い。大切に過ごしてほしい。
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盆の夜空を飾る

2024年08月16日 | 日々の暮らしの中で

火を灯すには少しきつめだという北風が吹いているようだったが、今年もきれいに五山の送り火が焚かれた。

最近はもっぱらテレビでその様子を拝見している。動画にとってAUSの娘家族の元にも届けた。
昨日は「妙法」のうちの「妙」の火床を車からチラっと見て、暑いさなかに準備を進める地域の方々の努力を思った。

「大」文字は真西に向いてはいなくて、やや北西寄りに傾いて灯される。なので大文字が最も美しく、真正面に見えるのは足利義尚の墓所がある相国寺だという。
銀閣寺をたてた8代将軍足利義政が、25歳で亡くなった子の義尚の菩提を弔うために、相国寺の僧侶に頼んで作らせたのが送り火の始まりだった -という説があるそうな。
とすれば、「大」の送り火は義尚に見てもらうことを目的に灯されたと考えられる、と八木透氏が書かれていたことがあった。

浄土真宗では、お盆に先祖を迎え供養し送り出すといった習俗はないのだけれど、先祖を偲び、お仏壇に手を合わせ…、この先には、京都の盆の夜空を飾る風物詩。煙たなびく送り火を目にすれば、やっぱりしみじみする瞬間がある(小さな声で言っておこうかな)。


先祖のご恩に報いるためには、仏法を何より大切になさいませ…。

                    (小林良正さんの「ほほえみ地蔵」より)
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生きてゆくのにも情熱がいる

2024年08月14日 | 日々の暮らしの中で
娘の夫と娘がそれぞれに誕生日を迎えるので、お祝いのカードを送っていたが、昨日「今朝受け取りました」と言ってきた。5日のずれがあるので、わざわざ中一日あけて7月29日と31日に出したのに何の意味もなさず、一緒に届いた。ということは、はてさて、どういうこと。


帰省されたとか、お盆だからとか、墓参りに来たのでと立ち寄ってくださる方がいる。墓地とは離れているので、わざわざという方ばかりだし、それを思えば留守にもできない。
盆正月だけの出会いとなると、かつては義母でないとせっかくの客人に気の利いた話もできず、愛想無しのままお帰り頂くことになりかねなかった。
「今の人誰?」と問えば、「〇〇さんとこからでた▢▢さんで…」と義母の説明は長く続く。

けれどこちらも先方さんもぼちぼち代変わりが進み、とともに距離は縮まり、身近なところでの会話も成立するようになった。こうして人は生き継いでいくのだろう。
それでもやっぱり家々の歴史への関心は薄く、相変わらずの愛想無しが顔に出てやしないかな? いや、それは言葉に現れているのかもしれないねえ。

「来る人の絶え間を己がものにして」
ときどきテレビをつけて、大阪の桐蔭高校はどうしたかと高校野球の経過を確かめ、“総裁選に出馬しない”という速報を目にしたけれど消した。そして、

 新しく乙川作品を読み始めることにした。
帯裏には「生きてゆくのにも情熱がいる。萌えるように輝いていたときは過ぎてしまったが、終わりはまだ遠いとも思う」とある。
ー 情熱はかけがえのない命のように愛おしい


来る人の絶え間を己がものにして結ぶも涼し滝の白糸
  熊野若王子神社(京都市左京区)の滝を江戸後期の歌人河本延之が詠んだことを「京近江 名所句巡り」に教えられ。

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100人いれば100の舞台が

2024年08月11日 | 催しごと
この暑さにお花も長持ちしないのが悩ましいが、阿弥陀さまへのお花も立て終えたし、お飾り、堂内もきれいに整えた。
心地よい大汗を流して、堂内吹き抜ける風に(ああ、極楽ごくらく)の心境…。 
まさに一事に専念よ。


だから今日は午前中から下鴨神社の糺の森で始まった「古本まつり」に向かった(~16日)。


会期の後半にもなるとあちこちで値下げが始まり、3冊1000円コーナーが3冊500円になったり、3冊500円が1冊100円になったり、最後は袋1杯でいくらとする店まで出てくるとか。
ほとんどが初日に一回ということもあって知らずにいるが、店側には、なるべく本を持ち帰りたくないという事情もあるらしい。文庫本を中心にこうしたコーナーを見歩いた。

「本との出会いは縁なのよ。自分の目で棚を眺めるうちに引っ掛かるものが見つかる。勘を頼りに選ぶ数百円の本に一万円の物語が詰まっていたら得した気になるでしょう」
少し古い文庫本を好んで、たまに買いだめして帰る母親に、「今度、神田で買い集めて送ってやるよ」と言ったクニオへ、一言(『クニオ・バンブルーセン』乙川優三郎)。

編集者として働く休日に母を訪ね、母の手料理を食べながら母と子の会話は戦争から文学へと移って ー。
「私ならこうする、という反発的な読み方はつまらないわねえ。ああ、こんな人もいるのかと他者の世界を愉しめたら、実生活の役にも立つし」
クニオにとって小説はすべて人生読本だったから、母親のこうした本の読み方にも教えられた。

以前『生きる』を読み、今回『露の玉垣』を読み終えて、8月に入ってから2店舗のブックオフで時代物ばかりを買い集めた。
乙川作品は現代ものから入ったが、絶望や虚無の底にも生の意味が潜み、明るさを見いだせる作品のとりこになって…。

 

小説は人に同じ解答を与えはしない。
〈文学は、真実は個々の内部にあり、誰にとっても同じである必要はないし、そこに意味がある。文学は個々のものだ〉
100人いれば100の舞台が生まれる、と永田和宏氏が書かれていた。

「憧れから始まる人生に無駄なことはない」とクニオさん。
楽しい毎日は自分で作らなくっちゃ。


水やりに顔を出したのは茶ガマかな?茶子かな? 
見分けはつかないけれど、見慣れてかわいいものです。
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ここはどこよ

2024年08月08日 | こんなところ訪ねて
ここはどこよと船頭衆に問へば  ここは枚方鍵屋裏
鍵屋浦には碇が要らぬ  三味や太鼓で船とめる  
                  「三十石船唄」


京阪「枚方市」駅(東見附)から隣の「枚方公園」駅(西見附)の区間を歩いて、江戸時代に「三十石船」の乗降地としてにぎわった鍵屋(資料館)を訪ねてみた。

本来は30石相当の積載量を持つ船のこと、江戸時代に淀川の伏見-大阪間を定期的に上下する客船を「三十石船」と呼ぶようになった。
屋形はなく苫掛けで、船員4人、乗客乗員28人。伏見から大阪への下りは半日か半夜、しかし上りは竿をさしたり綱を引いて船を引き上げるために倍の一日か一夜を要し、費用も下りの倍額だった - と資料館での記述を拝見。



船が枚方にさしかかると小さな船がそっと近づき、船客相手に大声で、汚い言葉で「酒くらわんか 餅くらわんか」と飲食物を商う。
煮売茶船は「くらわんか船」と呼ばれ、淀川の名物だった。
「三十石船」の乗客相手に煮売りの商いをした「くらわんか船」で使われたことから「食らわんか茶碗」という呼び名が生まれたのだろうという。

「食らわんか茶碗」を知るきっかけは向田邦子のエッセイ「食らわんか」だった。
気に入った季節のものを盛るとき、なくてはならない5枚の「くらわんか」の天塩皿があると書いていた(『夜の薔薇』収)。
「食らわんか」「よし、もらおう」となれば、大きい船から投げ下ろしたザルなどに厚手の皿小鉢を入れた。落としても割れないような丈夫な焼き物は(長崎県波佐見産のものが多かったそうだが)、汚れたような白地に、藍のさっぱりした絵付けだとも書いている。

 


この道は秀吉による文禄堤の上にできた道だ、と立寄った塩屋(屋号)さんで教えて下さった。店の向いが本陣の跡地になる。

 

庄屋と問屋役人を兼ね、幕末には農業経営を発展させ、金融業を営んでいたという大南善衛門家(屋号 田葉粉屋)が碑の後方に。



広大な敷地に蔵4棟を持つ泥町の大商家。泥町っていうには、水害も多かったのだろうか。

鍵屋資料館を訪ねた。

左手が主屋。

淀川沿いに、天正年間(1573-92)創業と伝わる鍵屋は「三十石船」の乗降地として賑わった。堤防で隔てられるまで、建物の裏手は川に面していたようだが、2Fから川が望める風景だった。大広間で、舟待ちの人々を想像してみた。


暑い中、案内するからと言ってくれた隣市に住む友人と汗をふきふきの半日だった。彼女も少し前に歩いたばかりだったのだ。
エッセイを読んで以来の心残りも晴れた。今一度もっと広範囲に川のほうまでも、秋風の吹くころならゆっくり歩けそうな気がする。
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腰が据われば心も据わり

2024年08月05日 | 日々の暮らしの中で
連日、「不要不急の外出を避け、…」と促す言葉が耳に入って来る。
私の外出などおおかたは不要不急のものかもしれないが、人生、無駄にこそ意味があると言われるではないの。
そもそもは、出歩くことに意味があるのだが、連日〈油照る逃げ場なきこと空気にも  宮津昭彦〉で、顔にまとわりつく熱気に息苦しさを覚える暑気。
この数日は家籠りを決めた。


出好きの腰は据わり、心も据えて、一事に専念。今のうちにしておきたい。書き物をするために多くの時間を割くことができた。

乙川勇三郎氏が作品の中で「推敲するだけでは足りない文章の彫琢」を指摘されていた(「この地上において私たちを満足させるもの」)。 
「わかりやすいことは薄っぺらでもある。何も考えさせない小説に良質な読後感は期待できない」とも。
ひと言ひと言に氏の存在が刻印されていて、私は学んでいる。書き過ぎない、言い過ぎないと心して、言葉を探し、文章を練り、自分の世界を大切に、励むのだった(などと自分で口にしていいものか?)。


乙川氏のエッセイ本は見当たらない。これまで著者の声が聴きたい、語るのを聴きたいと思ってきたので、出会えて嬉しや嬉しや。
すべては生きているうち 励めるうち、日のくれぬうち。

廊下の外で、アブラゼミが鳴いた。
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