京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

「出会うのです」、と。

2016年10月29日 | 催しごと

「四十回記念 秋の古本まつり」が百万遍の知恩寺境内で始まった。暖かくして出たつもりだったのに予想以上の冷え込みに寒くって、時折ぽつぽつ暗い空からは落ちてくるし、傘を持たずに出たので気が気でもなく、境内の半分、東側の店舗は急ぎ足になってしまった。
寒いわけだった、今日の近畿地方には木枯らし1号が吹いた、と。

京阪出町柳駅に近い寺の掲示板で「人は自らの運命を作る」といった言葉を目にした。どう考えればいいのかなと思いながら、そのうち忘れてしまって、今出川通りを東へと歩いて知恩寺に向かう。京都大学の北側に位置している。
特別な探し物はなくって、どんな本に出会えるかという楽しみだけだった。


『梁塵秘抄漂游』(尾崎左永子)と右は『遠い日の歌』(谷内六郎文庫②)。
「古典に対しては無心に、先入観なく近づく」を流儀とされる著者が、短歌人としての眼からみながら「漂游」する『梁塵秘抄』。一方は1960年代の前半に書かれた画文59編が収められている。
…と「あとがき」から拾ってみた。本を選ぶときに「あとがき」を参考に内容を知る、また、読み始める前に「あとがき」から先に読む、という人は多いのだそうな。私もそうすることはよくあるが、購入後に「あとがき」を読んでから本文に入ることはまずない。楽しみが減るのではないか。

   

こうした本があることも知らずにいたが、どちらも興味津々、素敵な一冊である。そして2冊ともスピンが挟まったままの、未読のような綺麗さがまた嬉しい。

「本を読むのに、なんの手間もいらない。読みたい本のページを開けば、すむ。」という書き出しは「当りみかん」と題した出久根達郎氏のエッセイ。氏は著書『本と暮らせば』のあとがきで言われている。
「読むだけが、本ではない。そこにあるだけで、私たちは本から何らかのオーラを受ける。いろんなイメージが湧くし、思いがけぬアイディアを得る。電子書籍には、これが無い」「紙と活字と形とにおいとの色彩を持つ本だけが、人間の五感に訴えてくる」、と。
わかるなあ、好きな本に囲まれて暮らすのは、愉悦の極み、かも。いつか読むから、と買い置きしたくもなる。
コメント (4)
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