11月5日から始まった真如堂(左京区)の「十夜法要」、その最終日となる昨日(15日)結願法要が営まれた。十日十夜に渡ってお念仏を唱えることは、仏の国で千年の善行を積むことにも勝るという無量寿経の教えに基づき、阿弥陀如来への感謝も込めるという法要。
この日は法要後に、円仁作の木彫りのご本尊・阿弥陀如来像が開扉されるのだ。阿弥陀像をぜひ拝観したいと、もう何年か越しで私が口にしていたこともあり、嬉しいことに「お参りしませんか」と浄土宗のお寺のNさんに声をかけていただいていた。都合もついて、ありがたく同行させていただく。ご自身の寺も近日に十夜法要の最後を勤めることになっている。

色づき始めた境内の紅葉を愛でて散策したり三重塔にカメラを向ける、たくさんのお参りで賑わっていた。午後2時から、ほら貝、御詠歌、お鈴の音色とともに僧侶とお稚児さんが続くお練り法要があった。それを見守ろうと待つ人も多かったのかもしれない。
「鉦」の音と、南無阿弥陀仏の名を唱えるゆったりとした低いひくいお念仏の声。内陣から届くお念仏の声は、鐘の音に打ち消されるほど、低い。「十夜鉦講」とは、なるほどと思った。
御本尊に詣で、縁を結んだ人たちは、十夜鉦講の唱えるお念仏の力も得て、極楽に往くことができる、という。内々陣へ。数段の階段のその上にあるお厨子は、正面の扉と両脇の一部の三面が開けられ、一人ずつ順番に拝観した。長い列が続いていて、いつまでもじっとしてはいられない。
「素晴らしい阿弥陀さんのお力ですよ」とNさん。「うなづき弥陀」とも呼ばれ、木彫りのせいか表情にやさしさがにじむ。手は九品来迎の印を結び、これは、どんな人でも信じれば極楽に往生させるという請願を表すものと言う。
信じる。…とは、自らの人生のすべてを仏の教えにゆだねる、お任せする、ことか。
月かげのいたらぬ里はなけれども眺むる人の心にぞずむ (法然)
月の光は、受け入れた人の心にこそ届く…、と。
帰りは隣接する金戒光明寺の山門(公開中)をくぐり抜けて…。


この日は法要後に、円仁作の木彫りのご本尊・阿弥陀如来像が開扉されるのだ。阿弥陀像をぜひ拝観したいと、もう何年か越しで私が口にしていたこともあり、嬉しいことに「お参りしませんか」と浄土宗のお寺のNさんに声をかけていただいていた。都合もついて、ありがたく同行させていただく。ご自身の寺も近日に十夜法要の最後を勤めることになっている。

色づき始めた境内の紅葉を愛でて散策したり三重塔にカメラを向ける、たくさんのお参りで賑わっていた。午後2時から、ほら貝、御詠歌、お鈴の音色とともに僧侶とお稚児さんが続くお練り法要があった。それを見守ろうと待つ人も多かったのかもしれない。
「鉦」の音と、南無阿弥陀仏の名を唱えるゆったりとした低いひくいお念仏の声。内陣から届くお念仏の声は、鐘の音に打ち消されるほど、低い。「十夜鉦講」とは、なるほどと思った。
御本尊に詣で、縁を結んだ人たちは、十夜鉦講の唱えるお念仏の力も得て、極楽に往くことができる、という。内々陣へ。数段の階段のその上にあるお厨子は、正面の扉と両脇の一部の三面が開けられ、一人ずつ順番に拝観した。長い列が続いていて、いつまでもじっとしてはいられない。
「素晴らしい阿弥陀さんのお力ですよ」とNさん。「うなづき弥陀」とも呼ばれ、木彫りのせいか表情にやさしさがにじむ。手は九品来迎の印を結び、これは、どんな人でも信じれば極楽に往生させるという請願を表すものと言う。
信じる。…とは、自らの人生のすべてを仏の教えにゆだねる、お任せする、ことか。
月かげのいたらぬ里はなけれども眺むる人の心にぞずむ (法然)
月の光は、受け入れた人の心にこそ届く…、と。
帰りは隣接する金戒光明寺の山門(公開中)をくぐり抜けて…。



「悲劇」。辛い歴史をたどった会津藩ですね。
マッチャンさんのブログで時にそうした思いに触れています。
いつも一方の側からライトが当てられ明治維新が語られるようです。
山門を見上げるこの石垣沿い(2枚目の写真、少し左手)にも「会津墓地参道」の碑が立っています。
京都市街を見おろす高いところ。墓地へは、この道だけではありません。
ぜひぜひ思いをかなえてくださいませね。
本文に写真を追加添付してみます。
「信心」と言いましても私は何も人さまに語れないのですが、
いろいろ繰り返しお話を聞くことで一代修行?と言いますか…、
思いを深めたいと努めています。が、とかくうわっ滑りです。
理屈をこねない素直な気持ち、物の見方が大切だと思っています。
「もうすぐにでも、読むべきでしょう」、
このように思われた「とき」を逃す手はありませんね。
明日ありと思う心のあだ桜…、と親鸞さんが。
自分から良い出会いを求めたいですね。
私が(お寺に参り)法話に耳を澄ませるのは、そうした思いの中での一つです。
宗教はかくあるべきものでしょうか。
苦しむ人を助けるのが宗教と言われます。
80数年生きてキリスト教との付き合いのほうが長くなりました。
もともと仏教に限らず、宗教に疎い私ですが
寺社の荘厳な雰囲気は気持ちが清々しくなりわからないながらも好きです。
特に京都観光では、いろいろお参りさせて頂きました。
亡き友人とお寺巡りでご朱印帳のことも教わりました。
3冊半を納棺の時入れたと娘さんから
報告されました。
極楽に行けたと思います。
先日、偶々、「NHK:100分de名著」という番組をボ~と見ていましたら、「ブッダ最後のことば」という題で「涅槃経」を優しく解説していたのですね。
私は、一応、仏教徒(曹洞宗)ですが、全く、仏教に関する知識はありません。
それでも、ブッダが死に際して残したといわれる「涅槃経」の内容(勿論、易しく解説した内容にですが・・・)に、生きている人間として惹かれるものがありました。
何時か読んでみたい、否、もうすぐにでも、読むべきでしょう・・・と思いましたよ。