今日は、私にとっての鉄道シーンの中で最も思い出深いものをご紹介したいと思います。
母親の実家は、福島県の白河と猪苗代を直線で結んだ丁度中間辺りにある「天栄村」というところにあります。
鉄道とはまるで無縁の地で、交通機関といえばバスになります。しかし、そのバスも一番近いバス停が歩いて30分掛かる「牧の内」というところで、峠を一つ越えていかなければなりません。
で、最寄り駅はというと、東北本線の白河駅か須賀川駅ということになります。母親の姉夫婦が須賀川駅の近くに住んでいたため、専ら須賀川駅を利用していました。
私が小学生の頃は、特急列車というのは高級品であり、1日3往復しか止まらない「ひばり」もまず利用することが無く、急行「まつしま」「ばんだい」や「いいで」「ざおう」が高級な旅行手段でした。
しかし、私が小学3年生くらいから乗り物酔いするようになり、急行列車にも乗りたがらなくなってしまい、それからよく利用するようになったのが、下り121列車という旧型客車を使用した普通列車でした。
EF57やEF58に牽かれ、途中機関車交換や特急・急行の追越待ちを繰り返しながら、須賀川まで5時間半も掛けて故郷を目指していたわけです。
そして、黒磯からは赤い交流機のED71や75の出番となり、すれ違う列車も東北本線らしいローカルな鉄道風景に変わっていくのです。
毎年3回、東北への旅を続けていたわけですから、埼玉県に住みながらも、交流区間の普通列車が日常的に当たり前の風景となり、私の鉄人生の中でも忘れられないシーンとなっているのです。
そして、高校生や大人になってからは、交流機の牽く客車を写真に収めたくなって、幾度と無く写真を撮りに出掛けたわけです。
今日は、そんな思い出のシーンの中から、プリント・スキャニングしてあったものだけを一部ですがご紹介いたしたいと思います。
昭和56年1月5日 東北本線 豊原~白坂間にて ED7580牽引普通列車
母親の実家に行く際、母・兄と別行動をとり、白坂駅で下車して撮影を行ったときのものです。当時、この区間の普通列車は、ほんの一部を除いて旧型客車でした。ED71も走っていましたが、普通列車は殆どED75が牽引していたようです。
写真の80号機は、ツララ切りを装備した少数派のED75です。
昭和56年1月5日 東北本線 白坂駅にて ED75107牽引普通列車
白坂駅を今まさに出発した普通列車。白坂駅は1面のホーム2線が中線となっており、本線はその外側のホームが無いところを駆け抜けていくという、東北本線では珍しいタイプの配線となっています。
昭和58年10月5日 東北本線 黒磯駅にて ED7578+旧型客車
黒磯駅4番線で出発待機中の普通列車。黒磯始発の普通列車は、この4番線で折り返しとなります。黒磯駅は、配線の関係上4・5番線と1~3番線ホームが斜にずれているため、急行「なすの」や115系普通列車からの乗換えはもの凄い距離を歩かされることになります。写真に自転車が写っているところから、職員にとっても距離があり過ぎて不便だという事を物語っています。
昭和59年10月14日 東北本線 矢吹~泉崎 ED75+旧客普通列車
この時期ですと、旧型客車による普通列車も晩年だったような気がします。
このあたりは、稲刈りのあと、稲を三脚状に束ねて立てて置くという風景が多かったようです。同じ東北地方でも、以前ご紹介いたしました http://diary.jp.aol.com/marutetsu/277 の風景とは全く異なる趣きで、大変興味を惹かれました。
東北本線の交流南部地域では、50系への置換えを経由せずに455系や715系といった車両による電車化が実施されました。改正時には、一夜にして客車普通列車が消えてしまったわけですね。
子供の頃から思い入れの深い旧型客車・交流機。未だにプリントアウトしていないネガやリバーサルもあるようですので、探し出してまたここにご紹介できたらと思っております。
母親の実家は、福島県の白河と猪苗代を直線で結んだ丁度中間辺りにある「天栄村」というところにあります。
鉄道とはまるで無縁の地で、交通機関といえばバスになります。しかし、そのバスも一番近いバス停が歩いて30分掛かる「牧の内」というところで、峠を一つ越えていかなければなりません。
で、最寄り駅はというと、東北本線の白河駅か須賀川駅ということになります。母親の姉夫婦が須賀川駅の近くに住んでいたため、専ら須賀川駅を利用していました。
私が小学生の頃は、特急列車というのは高級品であり、1日3往復しか止まらない「ひばり」もまず利用することが無く、急行「まつしま」「ばんだい」や「いいで」「ざおう」が高級な旅行手段でした。
しかし、私が小学3年生くらいから乗り物酔いするようになり、急行列車にも乗りたがらなくなってしまい、それからよく利用するようになったのが、下り121列車という旧型客車を使用した普通列車でした。
EF57やEF58に牽かれ、途中機関車交換や特急・急行の追越待ちを繰り返しながら、須賀川まで5時間半も掛けて故郷を目指していたわけです。
そして、黒磯からは赤い交流機のED71や75の出番となり、すれ違う列車も東北本線らしいローカルな鉄道風景に変わっていくのです。
毎年3回、東北への旅を続けていたわけですから、埼玉県に住みながらも、交流区間の普通列車が日常的に当たり前の風景となり、私の鉄人生の中でも忘れられないシーンとなっているのです。
そして、高校生や大人になってからは、交流機の牽く客車を写真に収めたくなって、幾度と無く写真を撮りに出掛けたわけです。
今日は、そんな思い出のシーンの中から、プリント・スキャニングしてあったものだけを一部ですがご紹介いたしたいと思います。
昭和56年1月5日 東北本線 豊原~白坂間にて ED7580牽引普通列車
母親の実家に行く際、母・兄と別行動をとり、白坂駅で下車して撮影を行ったときのものです。当時、この区間の普通列車は、ほんの一部を除いて旧型客車でした。ED71も走っていましたが、普通列車は殆どED75が牽引していたようです。
写真の80号機は、ツララ切りを装備した少数派のED75です。
昭和56年1月5日 東北本線 白坂駅にて ED75107牽引普通列車
白坂駅を今まさに出発した普通列車。白坂駅は1面のホーム2線が中線となっており、本線はその外側のホームが無いところを駆け抜けていくという、東北本線では珍しいタイプの配線となっています。
昭和58年10月5日 東北本線 黒磯駅にて ED7578+旧型客車
黒磯駅4番線で出発待機中の普通列車。黒磯始発の普通列車は、この4番線で折り返しとなります。黒磯駅は、配線の関係上4・5番線と1~3番線ホームが斜にずれているため、急行「なすの」や115系普通列車からの乗換えはもの凄い距離を歩かされることになります。写真に自転車が写っているところから、職員にとっても距離があり過ぎて不便だという事を物語っています。
昭和59年10月14日 東北本線 矢吹~泉崎 ED75+旧客普通列車
この時期ですと、旧型客車による普通列車も晩年だったような気がします。
このあたりは、稲刈りのあと、稲を三脚状に束ねて立てて置くという風景が多かったようです。同じ東北地方でも、以前ご紹介いたしました http://diary.jp.aol.com/marutetsu/277 の風景とは全く異なる趣きで、大変興味を惹かれました。
東北本線の交流南部地域では、50系への置換えを経由せずに455系や715系といった車両による電車化が実施されました。改正時には、一夜にして客車普通列車が消えてしまったわけですね。
子供の頃から思い入れの深い旧型客車・交流機。未だにプリントアウトしていないネガやリバーサルもあるようですので、探し出してまたここにご紹介できたらと思っております。