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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

パクリ専門

2012-12-06 | 日々のこと

最近、仙人養成学校に入ったからか、どうかは定かではないが、
毎日、すごく、楽しい。
楽しくて、楽しくて、しかたがない。

これは、仙人を通り越えて、ひょっとしてあの世から、飛び級で、ヘッドハンティング、
お誘いがあるのだろうか。
あの世への、優秀な人材の青田刈りか。
(しかし、あの世では、活躍のしようがないと思われるが・・・)

朝は、脂汗をかきつつ(ああ、もはや、わたしのカラダの一部となってしまった、誇張表現)
必死で遅刻と格闘しながら、ブログ更新。
この、やたら長いばかりのブログが、また、書いていて楽しい。
(が、後半は、時間に追われ、脂汗→ああ、カラダの一部→・・・もういい・・・)

一時期のように、毎日、遅刻回避のための経費無駄遣いという、最悪の事態を反省し、
最近は、ブログも力の抜き方を覚え、完成度なんぞ、まったく気にせず、早めに切り上げる。
でも、やたら、長いのは、なぜ?
(→この言い方、「純と愛」の純ちゃんのセリフの影響。というか、パクリ)

「こころのスイス人」(→Aブロガーさん)
「オエオエする」(→Bブロガーさん)
これらも、完全に、ご本人に承諾を得ず、無断使用させていただいています。
著作権の問題あり、ですが、わたしのブログ、ほとんど誰も読んでいないので、大丈夫です。
「○○神さま」も、使用したいのですが、気がひけて、目下のところ、使っていません。


で、あっという間に、楽しい時間が、あれよあれよと過ぎて、一週間が、瞬く間に終わってしまう。
で、A4サイズのダイアリー(24時間365日 日記)を見ると、真っ白。
あんなに楽しいこと、記帳しておかないと、忘れてしまう。
で、一週間分をまとめて、思い出しながら書いている。

ものすごく楽しく過ぎているのに、一週間たって、メモにすると、数文字で、おわり。
もっともっと楽しさの余韻を味わいたいのに、これじゃあ、あまりにも、もったいない。
まだあまり抽出されていない、TEA BAG や、ダシBAG をぽいっと、捨てるかのごとく。


理屈ぬきで、楽しい時期って、今までの人生のうち、何度かあった。

高校を卒業してからの4年間。
その次は、末子が幼稚園に入ってから、さらに小学校に上がってからの数年間。
そして、今。

どれも、キーワードは、「卒業」だ。
第一期は、私自身の実質的学業の卒業。
第二期は、ぺったり体力勝負の子育て初期の卒業。
第三期は、子育て、全工程の卒業。(まだ、結婚サポートや、孫もりは、残っているが)
(仕事に関しては、あんまり卒業感はない)

その逆に、暗黒の時期もあった。
第一期は、父が発病した、小学校高学年時代。
第二期は、結婚前夜
第三期は、子育てひと段落後の空の巣症候群。

今後の暗黒予想としては、
これから、着々と忍び足で訪れる・・・介護期。
最終期は、自分の末期に向かう時期。


理由もないのに、理屈ぬきでハイになれる原因は、偶然ではなく、必然だと考える。
心配事を抱えていないことだ。
ひょっとして、心配しないといけないのかも知れないが、アタマが回らない。
超天然。
そこへもってきて、仙人養成学校への推薦入学が重なった。(いつから、推薦入学になった?)

ストレスがないアタマというものは、ボケる一方で、
あれ?記憶に、ない・・・?!という現実に、じつに、ちょいちょい直面し、
もはや、ふつうの日常となると、驚きもさほどない。
仙人養成学校では、この対処法をあまり、教えてくれないのが、悩みといえば、悩みだ。
自分で、自習し、独学で、研究、、ものにしなければならない。
他の生徒の研究レポートを盗み見て、ボケない方法を、ちゃっかり、いただいてしまおうかと思うが、
そんな、仙人道に反することをしては、立派な仙人にはなれない。
なので、ボケにまかせ、自然にまかせ、天然の仙人めざして、日々、精進している。

でも、干物にはなれないのでありまして、
その、仙人ではない部分が、楽しいのでありまして、人生の醍醐味なのだ。

仙人と小市民の間を行ったり、来たり。
山から下りてきたり、山へ戻ったり。
寄り道も、いっぱい。
行きは、カラだった編み籠に、野花や、ひとんちの畑の大根やら、バーゲンの派手派手ドレスやら、
あれこれ突っ込んで、わんさか、ぎゅーぎゅー。
仙人になれず、落第、退学した「出戻仙人」って、麓の村では、ちゃんと迎えてくれるのだろうか・・・

 

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書けば書くほど、毒がまわる・・・

2012-12-05 | 日々のこと

人には、人の感性があり、考えがあり、それぞれ各人、自立していれば、問題ないと思うんだけど・・・
同意されないと、落ち着かない人も、多いようだ。
イエスマンばかりに囲まれても、面白くないと感じるのは、わたしだけ?

人のことを気にしてばかりいては、生きていけません。
ほんと。


今日の、あさイチ、テーマは、「主婦活」。
専業主婦歴、長々と長いと、なかなか仕事に就けないそうな。
専業主婦じゃなくても、なかなか仕事に就けないってこと、世の中事情も、ついでにフォローしてほしかった。

重いものを持つのはイヤ、深夜にコンビニ泥棒が来たらイヤ(誰でもイヤだ・・・)、
・・・あれは、イヤ、これは、イヤ。
お昼間の黄金タイムだけ、ちょとっこ働きたい。しかも、家庭生活に、影響がない時間で終えたい。
そんな職場、あったら、ぜひ、紹介してください。

「主婦は、家庭を切り盛りしているから、スゴイことですよ」と、ゲストコメンテイター役のタレントが言う。
スゴイのか?

元ママ友で、ご近所Aさん、専業主婦。
かつて、彼女は言ってた。
「○○銀行に行って、あれこれして、××銀行で、これこれして、振込みが、あーだ、こーだ、
あの用事、この用事、あれして、これして、・・・
とっても、たいへん」
ふうむ・・・なるほど、たいへん・・・なのは、よくわかる。
でも、その用事、仕事の空き時間にやっているわたしとしては、ふつうに、べつに、たいへんでもなんでもない、
と感じてしまう、わたしは、すご~~く、イヤなヤツ。
ほんと、ほんと。

感じ方は、人それぞれなんだってことだ。
その人が、「素晴らしい、良い」、と、感じたら、誰がどう思おうが、良いのだ。
同意を求めて、
「あら、そう? たいしたことでもないけれど、ね」なんて、口に出して言うバカは一人もいないと思うので、
「ほんと、素晴らしいね(あなたが、そう思うなら)」
ってことなのだ。
それで、いいと思うのだけれど、だめなのかなあ?

ここまで書いて、これ、ひょっとして専業主婦の方がお読みになると、むかつきまくるだろうなあ・・・と、
そういう気がしてきた。
すごい上から目線だ、と。

いえ、そんなことは、ありません。
どの職業の方々にも、どの専業主婦の方々にも、この上なく素晴らしい方々がおられる。
ピンからキリまで、びっしり、おられる。
個人個人の事情もそれぞれあるし、
一概に、ひっくるめて、大雑把に、「あーである、こーである」と、言い切れない。
それに、わたしは、争いは、きらい。めんどくさい。
闘いや折衝に、熱いエネルギーが湧いてこない。
仙人・幹部候補生だから、霞を食べて生きているから、ナマものは、苦手なのだ。

わたしを知るリアル人が、「あなたは、ヒトを見る目が鋭い」、と、そう言って、わたしを斬る。
わたしは、一刀両断(ちょっとここでは、使い方が適切ではないか・・・)、
自分ごと、ぶった斬っているから、仙人になって、山奥に逃げるしかないのだ。

NHK朝の連ドラ、「純と愛」の愛(いとし)のように、
人間の本性が、なんでも見えてしまうから、引きこもっている。
カモフラージュとして、霞をかけている。(発炎筒で、煙を立ちあげるのではなく)

ちなみに、前にも書いたことがある、天童よしみ似の女性、わたしの前に姿を現さなくなった。
つまらない。ちょっと、がっかりしている。
同じ時間に、同じ場所にいるのに、廊下をひとつ隔てて、別のパーティ会場に戻ってしまった。
あの人を見ていると、人間臭さが凝縮されていて、マスクが何重にも必要なぐらい、ナマ臭いのだが、
じつに、自分に正直に生きておられる。
わたしのように、へんなインチキ霞など、かけずに、そのまま、ご自分を全面に開示しておられる。
その勇気は、たいしたものだ。
(ご自分では、自覚、認識はなく、意識されていないと思われるけれど)

わたしが、感じるには、彼女は、わたしのことがキライだと思う。
なので、わたしが、出入りすると、「あんた、出て行け」とは直接、言えず、鬱陶しいから、消えてしまうのだろう。
言ったところで、わたしは、霞を食べて生きている仙人、そして、エスペラント語が通じないから。
のれんに腕押し、二階から目薬。

仙人は、なんの役にも立たないけれど、下界の争いごとには巻き込まれなくていいから、いいなあ・・・。
そのうち、アタマの上から、怖い製造物の部品やらなんやら、きな臭いものが落ちてくるかも知れないが。

こう書いて、またまた、自分のニオイに、むっとした。
オエオエきた。
逆自慢か。自己肯定か。
霞とか、全然、効いてないではないか。

なにを書いてもだめだってことだ。
暗いのもだめ。いじけたのも、だめ。自慢もだめ。
じゃあ、明るく、突き抜けたものに、すればいい。
あるいは、感情や思惑、感想を一切書かず、
風景、状況だけを淡々と描写する、カメラみたいなかんじは、どうだろう?
タイトルは、「カメラ・愛(アイ)」


今日は、気温9度、晴れ、のち、くもり。
朝、9時に、犬の散歩、ドッグフードは、○○製の○○。
道の途中で、こんなことがあった。こけた。笑われた。
・・・・
やっぱり、なんか、色がついてしまう。

今日は、ここらあたりで、結論を導くことを放棄した。
今日のわたしは、毛糸の糸が、絡(から)まっているかんじか。
今、感じたこと、思ったことをリアルタイムに、アップしているだけで、なんの思慮もないのだが。
「趣味」という名の、べた時間の無駄遣い。

もう、文末ということで、書きたいことが出てきたのだが、
(恋人を見送る、電車のプラットホームみたいなポジション)
ここは、ぐっと、こらえて、マロンに、いや、ロマンに、昇華しよう。(意味不明)

 

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付き合ってください

2012-12-04 | 日々のこと

仙人オフデーが続き、やっと、仙人の日常が戻った。
でも、いつものごとく、時間がない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「まいにちフランス語」という、ラジオフランス語講座を毎朝、聴いている。
(実情は、BGMとして流している・・・が、正解)
もう、かれこれ3年(正確には2年9ヶ月)になる。

内容も、再放送されているシリーズが、いくつかあり、再放送も今で二つめ。
テキストは、前のものを利用し、買わない。
基礎編(月、火、水)と、応用編(木、金)に分けられていて、
まるまるすべて同じものが再放送されるわけではなく、
基礎編か、応用編のどちらか一方は、新作である。

応用編は、最初の1年で、完全に落ちこぼれた。
ラジオから流れる音をBGMとして流すだけにしていたが、今では、ラジオの電源を入れないことも多々ある。
まったくわからないし。
ただ、フランス語はわからないが、日本語に解説した内容が気に入っている場合もある。
例えば、2010年4月から放送された(その後、再放送もあった?)、
フランス文学を毎回、紹介していったシリーズは、はじめてラジオ講座を聴いた時であったこともあり、
楽しく聴き、紹介されていた「ナナ」という小説まで買って読んだ。
男性を次々と破滅させる娼婦ナナのお話だったが、
翻訳本は、いかにも、日本語訳が、もたついているというか、
19世紀?当時の部屋のカーテンの様子とか、すらすら読みにくい、ガタピシした内容だったので、アタマもガタピシきた。

まあ、それは、最初に、頬を高潮させて、初々しくラジオ講座を聴いていた頃の話。
今では、再放送なのに、初めて聴くかのごとくの、違う意味での新鮮さ。
まったく記憶にない内容を、かなり多く含む。
テキストに自分で、メモを書き加えたりしている、その筆跡をみると自分の書いた文字のようだが、記憶がない。
ただし、初々しいのではなく、ふてぶてしい。

数字の数え方で、フランス語習得を脱落したという人は多い。
なんなの? あの、けったいな、複雑な、わけのわからない数え方は?
わたしは、10までカウントできるが、そこで、脱落した。じつに潔い。

放送で、覚えているのは、イラストだったり、声優の声だったり。
合間に入る、短い音楽だったり。

今は、パトリスと、たかちゃんの軽妙なやり取りが楽しい、再放送だ。
で、やっとこさ、ここからが、本題に移る。
(なあんだ、フランス語のことじゃなかったの?
はい、フランス語、ちんぷんかんぷんなんで・・・)

で、で、・・・です。
話は、ここから・・・です。

昨日の放送で、フランス人は、「付き合ってください」と、告白してから付き合うのではなく、
いきなり、ナンパからでも気が合ったら付き合うそうな。
「付き合って」と言わなくても、ふとしたキッカケで愛が生まれることがフランスでは日常だって、
パトリスが、そう言っていた。

日本人は、告白してから、付き合うという人が多いとか。
特に若い方々?
へ~、そうだったの?

「前から好きでした。付き合ってください」
片膝を地面につけ、ひざまずき、花束を差し出すシーン。
(あ、これは、プロポーズの時か? 漫画的、金太郎飴パターンの連想)
わたしのイマジネーションは、貧困そのものだ。

ちなみに、わたしは、そんな経験は一度もない。
これって、お付き合いに移ったの?と、感じるヒマも、余裕も、瞬間もなく、
(あとで、思えば)付き合い始めは、初対面の時、というのが、ほとんどだ。
初対面でない場合は、後になって、ああ、あの頃が付き合い始めの頃だったんだ、と
記憶をさかのぼって逆算する。

いちいち、「付き合ってください」、とか、「付き合ってくれる?」とか、
前置き、許可、そんなの、役所の手続きじゃあるまいし、めんどくさい。

なんで、そんなお役所・手続きがいるんだろう?
わたしは、無粋人間なので、この年になっても、まったく理解できない。
「いやです」
「どっちでもいいです」
「勝手にして」
などと答えられたら、どうするのだろう?

「再考、再検討をお願いします」
「そんなこと言わないで、さー」
「がっかり」
「オレ(わたし)のどこが気に入らん?」
みたいに、各人、いろんな反応があるのだろうか。

「付き合いますが、好きになるかどうかわからないけれど、それでも、いいですか?」
なんて、こころのスイス人みたいなお返事をする場合もあるのだろうか。
「それでもいいので、付き合ってください」となるのだろうけれど、
「ぼく(わたし)のこと、好き?」って、ころあいを見て聞くのだろうか?
「あと、少しです」
「まだです」
「なかなか、遠いです」
「程遠いです」
とか、答えるのだろうか。

まともにフォーマット通り、順序だてて付き合ったことがないので、シュミレーションが、貧困すぎて笑える。

で、わたしの、貧困中の貧困の、結論。(まだ、早いか?)

人は、世界中で同じ顔の人は一人もいないように、(一卵性双生児は、知らん)
特定の人と人の付き合い方は、世界中で一つとして同じ付き合いかたは、ない。
なので、参考にしたり、カンニングしたり、理想として手本にしたりするのは、けっこうだが、
自分たちには、自分たちの付き合いかたしかない。

自分は、世界に一人しかいないから、「これが、自分流の付き合い方だ」、と思っていても、
相手も世界に一人しかいないから、これまた、相手流の付き合い方というものがある。
お互いが、自分流を通せは、ややこしいし、(いつも、話し合い、調整し合い、けんかし合い。
交互に譲り合うとか、中間をとったり、とか、前進ならいいけれど)
それより、もっともっと、いちばん、ややこしいのが、お互いが、お互いともに、相手に合わせるというパターン。
どうすりゃいいの?


「わたしは、いつも、こうです。こういう付き合いかたをします」なんて、言い切れないと思う。
だって、相手が違えば、付き合い方も違うはず。
それが、毎回、同じパターンになるのであれば、ごり押し?
前の人との付き合いの事例は、活きてないのか、
あるいは、よっぽど、具合がよくて、「よし、これでいこう}と、黄金の定番として定着したのか。
でも、付き合いの前例、ってことで、今は別れてるってことは、死別でもない限り、ベストな付き合い方ではなかったということだ。

夢に描く「お付き合い」パターンが、いつも同じシチュエーションというのは、よくわかる。
だが、わたしの場合は、その夢がない。
ただただ、笑えてしまうのだ。
ほっぺを真っ赤にして、はにかんでいる自分を想像するだけで。

本でいえば、最初に解説を読む。あるいは、本に巻いてある帯の一行だけ読む。
それに近い。
プロローグとか、しちめんどくさい。
どうせなら、全編、プロローグで、本編なし、エピローグなし、解説なし、とか。
作者に頼らず、自分だけの世界で、自分で組み立ててしまうってのは、どう?

「付き合ってください」
そう言われたら・・・わたしなら・・・どんな相手であっても、
「はい、こんな、わたしでよかったら」
「でも、あとは、知らんよ」だろうか。

プロポーズなら、真面目に取り組むけれど。

アラブの王様に、プロポーズしてもらって、第四夫人ぐらいに、なってみたいかな?
おもしろい人生経験が出来そうだし。(オイルダラーを一度でも浴びてみたい・・・)
ただし、第一夫人ではないところが、ミソ。
あるいは、武装ゲリラに誘拐されて、愛が生まれ、自分もゲリラとして活動するとか・・・
そういう激動の人生も、味わい深いか?(わたしは、ノーサンキューだが)

どこかの、時が止まったような田舎町で、ロッキングチェアーに揺られながら、
窓の外をぼーっと眺めて、季節の移り変わりを感じながら、一句作ったり・・・・
肘の抜けたエルボーパッチ付きセーターや、馴染んだオーガニックコットンシャツをさりげなく着こなした、
気さくな、ステキな仲間(ほんの少数)が、まわりにいて、肩の力を抜いて暮らすのも、いいなあ・・・

などなど・・・
「付き合ってください」とは、正反対の、
お役所仕事の苦手な、わたしであります。

 

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タイトルさえ、思いつかない、仙人オフ・デー

2012-12-02 | 日々のこと

今日は、家庭の事情で、仙人できません。
二面性、あり、であります。
怪人二重面相。

このメリハリが、じつは、わたしのリフレッシュの源。

強弱、アップダウン、高低、上下、左右、大小、
濃淡、明暗、表裏、美醜、善悪、清濁、愛憎、好き嫌い、出来&不出来、
真偽、本音&建前、毒&薬、名&実、
PUSH&PULL、追いかける&逃げる、柔&剛、スロー&クイック、
生死、動静、運&不運・・・

バランス、調合、意識&無意識で、いろんなバリエーションが生まれ、
とてもとても、虹色より、玉虫色より、もっともっと多彩で複雑な色を生み出す。


80歳近くになって、芽が出なかった芸術家が、
「自分の人生は無駄だった」と、つぶやく。
わたしは、義務教育で学んだ以外の芸術は、まったくわからないけれど、
人生って、芸術かも。
世界一有名な無名人。
パラドックス、逆の発想。
どこに視点をもっていくかで、反対側が映し出される。

幸せって、360度の方向に広がっていて、価値観も、然り。
なにかを得ると、なにかを失う。
地位、名声を得ると、自由な行動が制限される。
安定、評価を得ると、守りにまわる。
仕事、家庭、その他もろもろも、得ると、こんどは、守ろうとする。
得る前より、自由がきかない。


自由が理想。
でもね、自由ってね・・・
100パーセントに近い自由を手に入れると、なぜか、金欠になるという、
ちょっと唐辛子っぽい、オマケがついてくる。

自分だけの時間も楽しみ、仲間との時間を大切に、大事にするって、これも理想。
家族との時間も、長い道のりの、遠い先への楽しみに向けての預金、投資みたいな気になる。
これは、へんなのか?
その瞬間、瞬間を楽しむべきなのか?
今をガマンして、将来に向けるって?
時間の使い方は、お金の使い方に似ている?

人生は、能動的に、自分で采配できないこともいっぱい。
例えば、事故、病気、災害、そういうことに遭遇すると、計画通りには行かない。
なので、現在、この時間、時間、瞬間、瞬間を有意義に使わないと、悔いが残る?
でも、そんなこと、考えてない。
そうして、1日が終わる。

とりあえず、夢を描いて、実現するための具体的計画を立てると、けっこう、それだけでも楽しい。
実現に向けて、努力したりすると、これまた、楽しい。
楽しいことが満ちあふれている人生は、楽しいのだ。

「仙人の休日」。
これは、仙人をオフするということ。
通常のナマの人間に戻っている状態だ。
ナマに戻ると、考えがまったくまとまらず、ブログも、結論がないまま、昼食の支度に移る。

ということで、今日は、仙人オフデーである。

 

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血流が、ホシイ

2012-12-01 | 暮らし

動画って、すごい。
いやはや、すごいよ、と、感心した。
なにも、いまに、はじまったことではないが。

故郷のじっちゃん、ばっちゃんにも、ぜひ、見て欲しい。
ブログに貼り付けると、効果絶大。
わたしは、見る側・専門であるが。

文字だけで表現するのと、言語をしゃべって、発音、視覚で、同時表現するのでは、ずいぶん違うものだ。
表情や声のトーン、感情の込め方、そういうパフォーマンスで、伝え方の色合いが変わる。
その人のもつ本質、基本は、同じだが、表現方法によって、ぐっとニュアンスが変わる。
両方、あわせて、表現されると、ぐうんと奥行きが出て、相乗効果が高まる。

だが、たいていの一般の人は、
自分そのもの、自分自身のカラダ、顔、口、動作などを使ってパフォーマンスすることに、慣れていない。
プレゼンテーション能力、コミュニケーション能力は、生まれつき備わっている人もいるが、
ある程度、経験やモチベーションを要すると思う。
(たとえば、押しの強い、目立ちたがり屋の、政治家とか)

俳優やタレントは、自分の見かけ、動作を表現ツールとして駆使して、表現する。
芸術家は、作品を通して、表現する。
舞踏家の場合、カラダの動きで表現する。
スポーツ選手は、勝敗の結果を出して、表現する。


で、話は、・・・
動画・・・が、すごいってことだった。
その動画を見るのも、広がるのも、インターネット。
その力は、ほんの一昔前なら想像を絶するものがある。
地球の表と裏も、ひょいっと、つないでしまう。
グーグル・アースも、すごい。
近所のコンビニに行くかのごとく、地球の裏側の、行ったこともない場所が映し出される。


パリ計画、こんどは、モンマルトルに泊まろうかな、などと考えて、ひとり、にんまり。
駅からどう歩けばいいのかな?
ステイ先への帰り道、お惣菜、買って帰る近所のお店、どんなかな?

1年に1度、ライフスタイルとして、お気に入りの場所に行って、定点観測したい。
定点観測は、マーケティングにも必須であるし、時の移り変わりがわかって、とても楽しい。
いろんな場所、知らないところばかり行くのも、楽しいかも知れないが、
知っているところを何度も訪れるのも、その度に新しい発見があり、いいものだ。

義父が、日本国内旅行で、同じところばがり、団体ツアーで旅していたが、あれは解せなかった。
同じところばかり行くなら、どう考えても、個人旅行だと思うが。
それに、なんの文句も意見も言わず、もくもくと着いていく義母も、なかなか・・・わたしは解せなかった。
まあ、人には人の好みと、事情、ってものがあるのだろう。
生き方にも、時代の色というものもあるだろう。


旅だけではなく、趣味の世界でも、同じところにばかり行っても、
集う人々の顔ぶれが、いつも変わりばえしない、同じ人では、つまらない。
まったく同じ顔ぶれでは、なんの変化も、流れももなく、滞り溜まるだけなので、面白みに欠ける。
99パーセント、同じ顔ぶれでも、たった一人の新顔が現れて、空気、カラーが、ごろっと変わるということもある。

やはり、なんでも、交流、流れ、動き、というものが必要だ。
安定と刺激。伝統と変革。保守と革新。定着と変化。
両方、欲しい。

安定や保守、伝統にも、見直しが欲しい。
いったん、ばらばらにして、もう一度、組み直す。作り直す。
破壊から、新しいものが生まれる。否定から、発見が生まれる。
一見、作り直す前と同じ外見でも、全体的に、ほとんど変わらなくても、一旦、風を通し入れる。
頭ごなしに新しいものを否定するのではなく、かといって、まるまる新しいものに、すべてを任せるのではなく、
自分の目、脳、で、問い直し、試行錯誤してトライ、チャレンジする柔軟な姿勢が大事だと思う。


抽象的になった。
選挙のことを言っているようなイメージになってきているが、そんなつもりはない。
が、何事も、モノゴトには共通する思考方法や、ノウハウ、行き着くところの概念があるのかも知れない。

いつも、ほんの少しでもいいから、動いていたい。
じっとしているけれど、実は、ちょっとすつ動いている、カタツムリみたいに。


動きが欲しい、と言いつつ、
あまり動きのない、テンポのない堅苦しいブログ内容の流れに、固くなって、眠くなった人もいるだろう。
わたし自身、肩がこりこりに凝ってきた。
流れが欲しいのは、ほかでもない、肩凝りをほぐす、血流か。

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