自分のブログ。
ぶっちゃけ、わたしは、静かなほうが好き。居心地がいい。
人の興味を引いても、その関心内容が2チャンネル的だというのは、自分の嗜好には合わない。
さて、そんな話は卒業の感あり、・・・で、話は、変わり・・・ます。
一連の我が家のお祭り騒ぎイベント、最も大きなものは、昨日、無事、終了したが、
まだまだ、続く。
結婚し、人が生まれるということは、ありとあらゆる方面に、大変、大きな経済効果をもたらす、と、しみじみ実感した。
経済だけではなく、精神的にも、行動的にも、活力が加わる。
ヒト、モノ、カネの流れが勢いづく。
まさに、国力の元、エネルギー源である。
そして・・・雑感です。
社会の最も小さなコミュニティーである、家族。
家族の形態は、時代によって、そのカタチを変えていくが、核家族というものは、シンプルで、まさに、核。
身動きが取りやすく、どすんどすんと重い巨体に比べると、それはそれは、楽。
家族のあり方は、家制度の崩壊とともに、大きく変わった。
家の付き合いというものが、すぽっとなくなると、自分たち単体だけの付き合いになる。
イベントも、そう。
単体といっても、最低限、自分の家族以外の人たちともお付き合いはする。
贅肉が、そぎ落とされた、厳選された、お付き合いとなる。
昔からの風習や、習慣、姻戚関係、義理の付き合い・・・どこまで取り入れるか、新しい核家族の胸ひとつ。
楽、自由、開放感!!
シンプルチョイスは、グッドチョイス、さらにベストチョイスに、なればいいが。
わたしが、いままで受けてきた、親世代の生活様式や、お付き合いとは、打って変わって、最小限度のエコ付き合い。
家の大きさ、規模も、ぐーーんと小さくなり、楽なのはいいが、軽い、小さい、抜粋手抜き、
吹けば跳ぶような一代限りの儚さ、泡沫感も。
時代の流れか。
地域の違いか。
それが気になる、気がかりなら、もっと、重厚にやればいいのだろうけれど、
こんなに楽でいいのか、と、気が抜けるぐらいだが、
旧き良き文化を踏襲しきれていない、仕事をちゃんと完全にしきっていないような、
自分の代で、バトンタッチを中断してしまっているような、自分への後ろめたい反省、責任みたいなものも、感じる。
わたしは、自分流、自分カラーでモノゴトを進めたのは、この度が初めてじゃないかと思う。
いつも、上の世代からの踏襲、コマとなって動くだけだった。
やっと、中間管理職となり、部下も動いてくれ、とても助かっているが、
やはり、評価の対象は、船の船頭である自分ということになる。
下っ端で、文句を言いながら、使い走りをしているほうが、楽かも知れない。
お客様に、お出しする料理ひとつにしても、
自分で作るわけではないが、オーダーするにも、多くのモノの中から選ばなければいけない。
厳選。
ジャンル、質、量、出すタイミング、・・・
へんに、バタバタしていても、ゲストは、落ち着けないと思うし、
かといって、わたしはサービス、接待しなれていないので、おたおた。
口下手のくせに、会話もしなければいけない、なんて、思ったり。
お土産の用意も、さてさて、どんなものがいいのやら、と悩んだが・・・。
結果的には、ごくごく普通だったように思う。
「たいしたことでもないじゃない。あんなことで悩んでたの?なあんだ、大げさな」
と、鼻で笑われるかも知れない。
この年になって、わたしにしてみれば、初めての、指揮官の役割。
今までは、すべて、部下として、パシリとしてとしか動いたことがなかったのだと、思い知った。
母や、義母が、家の大きな行事の際、ゲストを迎えるときに、汗を流しながら、ピリピリしていたことが、よくよくわかった。
わたしは、今回、実家を離れての初めてのことだったが(・・・遅い・・・。なにぶん、お年寄りが元気なもので・・・)、
核家族の家の規模があまりにも小さいので、これでいいのか?と肩透かしを食らうような、
いやいや、これでいいのだ、自分は、ミニマム・エコ流で、と思ったり、
時代の流れに乗る、というか、時代の流れを自分流、我が家流にアレンジするというか、
貴重な体験となった。
義母や母、義姉、姉たち、・・・いまさらながら、尊敬する。
前例があるということは、基準となり、方針決定の舵切りの助けになる。
よき先輩である。
彼らも、前例を見て、自分の代には自分流の判断を加えて、家の行事をこなしてきたことだろう。
娘たちは、義母・母の、両方の家の流儀を見聞きし、知った上で、
そして、核家族的なわたしのエコ流儀にも、手足となり参加し、いろんなことを学ぶことだろう。
いずれ、彼ら流の方針、スタイルで、推し進めていくことだろう。
重厚からエコへ、さらに、未来派へ。
時代とともに移り変わる、家族の風景。
家族は、カタチを変え、過去・現在・未来へと引き継がれてゆく。