姑(故人)と母(生存)、1歳違い。
彼女たちの青春時代は戦争一色。
姑は女学校時代、同じ近畿圏内に移動させられ、そこの軍需工場で学生勤労奉仕。
主要軍需工場のため、ピカピカ、バンバン、空から爆弾が降ってきたらしい。
大人になってからも、雷が鳴ると、子犬が震えて陰に隠れるように、姑は異様に怖がっていた。
母からは、戦時中の話を聞いたことはない。
母の兄と、母の姉の夫は、戦死。
話したくないのだろう。
あるいは、起こってしまったこと、済んだことは振り返らない楽観主義?
舅と父(ともに故人)は7歳違い。
舅からは、戦争の話は一言も聞いたことがない。
が、ご近所の皆さんからの、大きな白い布への寄せ書きや、満鉄?の軍票(当時の紙幣?)など、戦争グッズは残存している。
父は、飛ばされた戦地の縁あった人々を、戦後、何度か日本に招いていた。
わたしは家に来たマレーシアの女性と、子供の頃、お話した記憶がある。
台湾女性が日本で台湾料理店を営んでいて、そこに食べに行ったこともある。
甘酸っぱい酢豚に、入っていたパイナップルときゅうりが、わたしにはインパクトが強かった。
(当時小学生低学年?)
戦地での記録を父がパソコン入力し、データを義姉がプリントアウトしたものがある。
我が家の2階の、ガラクタ山の中に埋もれている。
根性を出して探せば見つかるが、内容は記憶の中だけでもいいかも。
父は戦地に赴く前の写真もある。
家の前庭で両親(祖父母)と共に写っている。
(その場は、今も現存)ひとり息子を送り出す祖父母は、どんな気持ちだっただろう。
高校の社会科の先生が、戦地から九死に一生を得て生還した話を授業中に聞いたことがある。
「戦争経験者は、目が鋭い、決して目は笑っていない」と、彼は鋭い笑わない目で語っていた。
高度成長期の生まれ育ちのわたしには、ぴんと来なかったが、どうも我々(生徒)は、弛んでいるそうだ。
檄を飛ばされていたわけか。
「あいつらの目は腐っている」と当時の特定の集団を指して糾弾していた。
今なら絶対に、NG発言だ。不適切どころではない。
すでにわたしの時代も、古き時代。
ではあるものの、わたしの学校では、廊下にバケツを持って立たされる、とか、体罰とかは、全くなかった。
ちょっと時代が5年以上ズレるのか。
というか、そんなヤンチャな子供はいなかった。
一般的な開かれた学校ではなかったので、あまり参考にはならないが。
当時生徒だったわたしが面白いと思ったのは、教師がエリート意識を持っていること。
これ、おかしい、かなりパラドックスである。
教師も人の子、生き甲斐をもって職務にあたるのは良いが、生徒にプライドを明言しなくてもよいものを。
もう老成、老熟していたと思われる(自分で言うか?)当時の生徒のわたしは、先生の意識は勝手に各人、持っていただいたらそれで結構なので(わたしには関係ない)、わたし自身の進む道さえ確保出来ればそれでよい、と思っていたフシがある。
自分が小学4年〜5年ぐらいの時にわたしは、教師を見限った。
教師なんかは生徒(わたし)を理解していない、結果だけで判断する、ということを強く思った。
教師不信というわけか。
その割には、わたしは不良にもならず、問題も起こさず、消極的ではあるものの、目立たず大人しく、過ぎて行ったものだ。
不良になるには、逆噴射エネルギーがかなり要るので、わたしは明らかにエネルギー不足だった。
嵐が吹き荒れる家庭生活に日々、疲れていたので、学校には息抜きに行っていたようなものだった。
どこにもエネルギーは存在しない。
鬱憤が溜まる余裕もなく、家庭のストレスを平和な学校で癒していた。
変な構図だ。
自分は劣等生で追い詰められる学校にストレスを感じないなんて、おかしい。
おそらく劣等生であることは、たいしたストレスではなかったのだろう。
家庭に比べると。
ちなみに。
成長過程の子供にとっては、学校と家が全て。(習い事は、学校に含まれる?
部活も学校に含まれる? どうなんだろう?)
学校でも家庭でもない第3の緩和ゾーンが必要だとされている。
緩和ゾーンは、趣味のことや、こころを解放できるところ。
習い事は微妙なポジション。
しかしながら、なんやかんやとアワアワいっている間に、すぐ卒業して、あっという間に時間は経つ。
全ては思い出となり、混ざり込んでしまう。
※写真は、昨日の枚方市山田池公園の花菖蒲園。
2年前は一面、見事だったのに、マンパワー不足のため、すっかり菖蒲の規模が縮小されていた。
こんなところにも、経済衰退をひしひし感じる。