蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

刺激と反応

2024-06-20 | お付き合い
さて、今日も駄文。
読んでくださる方には最大限の感謝と労いを。

ここのところ、無理やりミニ鬱から脱するかのようなスケジュール。
本当に無理やりなのか、たまたまなのか。
毎日誰かと会っている。

そもそもわたしは、大の交際嫌い。 
人付き合いが苦手中の苦手。 
にもかかわらず、たまたま。
重なる時は重なる。
かと言って、目新しい相手でもなんでもない。
30年来の知り合いが2人、15年前ぐらいに知り合った人が1人、3年前に知り合った人が1人。
仕事関係2人、趣味関係2人。
新しいメンバーは、滅多に増えないが、旧交を温めている。

毎日更新され、わたしが読みに行くブログに、こんなことが書かれていた。
(文章は、わたし流、要約)

「仕事や子育てなどのしがらみがなくなった老後こそが、自由で囚われるものがない黄金時期だ。
忖度や強制などなく、自分流を貫き通せばよい」

その通り。
ただ、少し気になることはある。

他人の意見に左右されず、馬耳東風は、メリットばかりではない。
人の目を意識してこそ、自主規制が働き、自分の理想からあまりにも外れた、みっともないマネは出来ない。
多少、他人の目があるからこそ、野放図ではなく、自由奔放に対して常識的な歯止めがきく。

そう感じていた矢先、翌日にその感想を補填するかのようなブログ記事が更新されていた。

「人嫌い」とは、人間が嫌いなのではなく、「人付き合いが嫌い」ということ。
仕事、会社などの煩わしい忖度がらみの付き合いをカットし、自由な解放された立場で人間を考察するのは好き、だそうだ。
わたしと同じだ。

老後にならないと、人間付き合いからは解放されない、、、のではあるが、自分の身体が弱り介護を実際に必要とするようになると、また考え方は変わる。
人のお世話にならなければ生きていけない。
介護費用を払ってビジネスで介護してもらうとしても、介護人も介護される自分もロボットではない。
その時の心境は自分が置かれる場にならないとわからない。
想像通りなのか、想像を絶するのか、はたまた、想像過多なのか。


ちなみに。
若い元気な人と付き合うのは、活力をもらえて、とても良い、、、と、感じる。いや、感じていた。
が、わたしの場合、その場は、わあわあきゃあきゃあパワーを浴びたものの、帰宅してからどっと疲れ、ソファに倒れ込んでしまった。
後から疲れが出たと思われる。
現場では喜びアドレナリン放出のため、細胞もフル活動していたのだろうけれど、おそらくわたしのキャパを超えていたと思われる。
受け切れなかったようだ。
キャパ・オーバー分が、後に容れ物から溢れ出したのか。
アウトソーシング的なイキイキした活力と、自分自身の器、容量との、大きさのギャップがある。
素晴らしい!と共鳴し憧れたのはいいが、自分はついて行けてない。
TVの向こうで見ると、途中で居眠りしてしまうが、実際に会ってパワーを浴びると、目を覚ます以上に、老体がビックリする。
だがしかし、居眠りと、ビックリを適度に混ぜると、ほどよい自分が出来る上がりそうだ。
自分の容量も、時期や体力、気力によって変化する。
トレーニングによっても変わる。
変化を楽しむためにも、外との接触から受ける刺激は、不可欠。
静と動のメリハリは、必要だ。
(交感神経と副交感神経、行ったり来たり、相互関係のようなもの??)

とかなんとか、歳を取ると、その場でなく、後にならないとわからない、疲れが遅れてやって来る、と、年配の皆さんは、そう言っている。
無理している自分に気づかない。
疲れがなかなか回復しないそうだ。
年齢にかかわらず、活動と休息のバランス、さじ加減は、自分でしかわからない。


LINEとブログ

2024-06-19 | お付き合い
先週、ずいぶん久々ぶりに会った3歳下の元気な友人。
彼女は、LINEで時々旅日記のようなものを友人達6〜7人に送っているそうだ。
今回、初めてわたしも送ってもらった。
写真付き。メモ、雑感付き。
とても身近でわかりやすく、参考にもなって実用的でもあり、感想や質問も直接、LINEで本人に送れるし、言うことなし。
ブログとはまた違う手軽さ、身近さがある。
グループLINEではなく、個人個人1人ずつ別個に送ってくれるところが、わたしは良いと感じる。
なぜなら、グループLINEはやり取りをグループメンバーで共有することになるが、個別LINEだとメンバーの目を気にせず、自分のペースでやり取りできる。
仲間に入れてもらって、嬉しかった。

ブログは不特定多数向け。
中には、公開相手限定の設定ができるブログもある。
が、基本的には、知らない人に向けてのもの、一方的な発信。
同じ内容を複数の友人に同時に送るLINEも、同様に一方的発信ではあるが、公開先がクローズドである。
何よりも親近感がある。

先日、彼女に、わたしの実家での催しに誘ったところ、「体験記、教えてください」という返信があった。
行きたくない、とダイレクトに断るのはぎくしゃくするため、ソフトにお断りされたのだと感じていた。
が、彼女は参加しないけれど、レポートで擬似体験して楽しむということだろう。
その時はピンと来なかったが、なるほど、彼女がやっているLINE旅記事のようなものだということが、この度、彼女からのLINE旅記事を受けて、わかった。

あちこち、あれもこれも一度に一気に体験出来ないから、友人知人達からの体験記からインスパイアされるのは、good ideaである。
実際に自分が行動に移す事柄には優先順位を付け、高い方から実践する。
(優先順序の付け方は、人それぞれの事情があるだろう)
低い方は、とりあえず、体験記で内容を知る。

ブログは、長い間、見に行かなくても、ご無沙汰しても、何の問題も縛りもない。
アカの他人なので。
一方通行だ。
ではあるが、やはり双方向は、強い。
お互いがお互いに、ちゃんと向き合う。
リアクションもしっかり。
閉ざされたLINE記事という、わたしにとっては新たな方法に、灯台もと暗し的な斬新さを感じた。

まさに、実質本位である。
閲覧数もランキングも訪問者(足跡)も、全く気にすることがない、自分からのリアル人に対する発信。
だが、わたしのように、毎日毎日、ダラダラダラダラ、頭から文字が垂れ流されてくるような人間にとっては、そして、あまりリアル友人のいない、交友の狭いわたしには、やはりブログはありがたい。
はけ口、アウトプットに、ぴったり。
(ですが、お読みいただく皆さんがあってこそ!!
それがモチベーションの源になります。
→感謝と労いの気持ち。
ありがとうございます、おつかれさまです)

じつは、もう一つ、趣味SNSに日記を時々アップしている。
そこには、いくつもいくつも、書いても非公開にしている記事がたくさんある。
皆んなからの反応がすぐわかるため、すべるのが怖いからだ。
そして、ほとんどはリアル人ばかりであるが、そこで出会ってリアルに知り合いになることもある。
SNS記事やコメントとリアルが同時進行している。
当然、ひやかし、暇つぶしの人もいる。
だが、未成年の怪しげなSNSではないので、逢って何かを搾取しようという狙いのある人はいない。
いたとしても、徒労に終わる。スカ。
搾取するものが、お金や命や身体や労働なら、身の危険を感じ防御すべきだが、趣味分野の技量や知識では、搾取しようがない。
悪事に引っかかるとしたら、よほどのこと。
(ではあるものの、最近は巧妙な手口を捻り出され、注意に越したことはない)
しかもほとんどが60歳以上。
若い人は入って来ない。
年寄りSNS。
日本だけでなく海外在住のメンバーもいるし、層が厚い。
ただ、面白さや刺激は、自分から能動的に取りにかかる姿勢がないと、口を開けて待っているだけでは素通りする可能性がある。
面白そうなものはないかとアンテナを張っていると、タイミングが合えばキャッチ出来る。
が、やはり一方通行では面白くない。
自分から発する何かがないと、自分も相手もつまらない。
相乗効果である。

とかなんとかかんとか、わたしはヒマ人なのである。



飲み会

2024-06-18 | 日々のこと
昨日は久々ぶりに、飲み会。
5時間ぐらい飲んでいた。
量はたいしたことはないけれど。

べらべら喋るついでに、Wさんに墓じまいのことを聞いてみた。
佐賀県にある実家、お墓、いずれは処分するとのこと。
親戚は佐賀県にいるが、子供や孫の代になったらもう行かないだろう、と。
まして、墓など、子供はいざ知らず、孫の代には維持は望めないだろう、と。
ご本人は大学から関西。やはり住めば都。
50年以上住んだ地、さらに引き続き、今の地で骨を埋めるようだ。
親のいた、生まれ育った実家には、もう戻らないらしい。

「お子さんやお孫さんたちの別荘にされては?」と聞いてみると、「維持費もかかるし、もういいかと」と。
もう少し近ければ、また変わっていたかも知れないが。
仕方ないか。

わたしの場合は、実家が同じ近畿圏内、まだ日帰りで十分行ける場所にあるから行き来は出来る。
やはり近さは重要ポイント。
それと、思い入れ。実家愛。実家が好きかどうか。どれだけ好きか。

わたしは、好きだ。
郷愁だけでもない。
いつまでも、こだわりがある。切れない。
例えば、新しい腕時計を買っても、それまで使っていた腕時計が捨てられない、そんなかんじか。
更新はしても、決して上書きされない。
前のものは全て下に層になって残って蓄積されている。
積み重ねられたパイシートのよう。
だから、断捨離も出来ないのかも知れない。



墓の行方

2024-06-17 | 読む人々には興味ない話
墓じまいについて。
65歳以上の人にしか興味がないと思われるが、自分が興味のあることを書く。

前にも書いたが、知人Aさん(推定70歳代)が、住居のある地区で墓地を以前、購入した。
核家族であるAさん家は、誰も亡くなっていないので、墓石はまだ設置していない。
墓石が建っていない更地墓地に管理費を毎年払うが、購入済み、更地スペースはポツンポツンと段々少なくなり、周りはどんどん墓石が建つようになってきて、肩身が狭いという。
別の地域にある親の墓は、親が亡くなってから、Aさんの兄が建てた。
故郷の墓が遠いため、墓の引越をしたようだ。
兄夫婦は、兄が建てた両親の墓に今後、入るが、兄の子供達は、2人とも遠方に住み、そちらで腰を据えるため、親の墓を引き継げない見通し。
引き継がれない親の墓を抱えながら、その一方で自分の墓地を更地で持つ知人Aさん。
Aさんの子供達も遠方だったり、息子のお嫁さんが女系家族だったり。
墓を建てて維持してもらえるのかどうか、未知数。
あまり何も考えないで、自分たちの墓地を買い求めたAさん。
どうなるのだろう。
移動した親の墓も、Aさんの墓も、子供達には負担だろう。
Aさん夫婦のどちらかが先に亡くなったら、残された片方が、やっと墓石を建てるのだろうか。
そこのところだけが、遺族の考えどころ、悩みどころだ。
残された片方がどんな状態かにもよる。
認知症や病気になっているかも知れない。
その時に考えるしかないか。
だが、ぴんぴんしている70代の今では想像もつかないことでも、80代になり、90代になると、だいたい予想がつく。
親の墓じまいをするのも、終活のひとつであるが、自分の墓をどうするのかも、道筋をつけておけば、残された子供達の負担が軽減される。
だいたい終活するタイプの人は、親の墓じまいで苦労したため、子供には同じ苦労をさせたくない、だから自分の墓は要らない、という人が多いかも知れない。

両親両方が亡き後は、子供達が自分達の考えを反映して行動することだろう。

ちなみに。
わたしの実家の墓は、とりあえずは、あと40年ぐらいは維持されるだろう。

わたし自身に関しては、夫の墓地に眠る予定。
先代と先先代の嫁が相談して力を合わせて、過去帳と、当時既存の墓石に刻まれた戒名や記録を元にしたり、(たぶん)お寺に問い合わせたりして、墓をリニューアルしたため、わたしは、楽ちん。
だが、わたし達夫婦の墓石は新設しないと、無い。
場所は、同墓地敷地内、先祖、先代達の墓石に隣接。
新設墓石は、夫婦のうち、生き残った方が建てる。
墓の維持費、管理費は残しておく。
子供達は現地に来れないなら、業者に委託するとよいかと。
仮に子供がお金を使い込んでしまったとしても、わたしはこの世にいないから、わからない。
恨めしや〜と、化けて出て来るなんてことはない。

現代や未来に生きる子孫たちに、過去の価値観を押し付けるのは、いかがなるものか。
行われてきた事実の報告だけは残しておくつもりだが、はたして聞く耳を持つかどうか、だ。




共感と優越感は違う

2024-06-16 | ブログ
昨日、書いた記事がある。
が、また別の日にアップする。
なぜか?
全く別のことを書きたい気持ちがムクムク。

ブログ村エッセイに、わたしはセキ(席?OR 籍?)を置いている。
ブログは、goo運営のもので、毎月利用料金がかかかる、有料コースに設定している。
ブログ開設当初は無料バージョンにしていたが。
まあそれはよいとして。
つまり、2つの容れ物があるということ。

毎日、ブログ村エッセイで、ランキングされている記事を読んだり、
gooでお気に入りにしているブログの更新記事を読んだりしている。
その他には、まったくそれとは別に、個別にお気に入りブログが2つあり、訪れて読む。

それぞれのブログには特徴がある。
わたしと同じく孤独愛好家のブログがあり、毎日更新され、短文で、読みやすく、論調は哲学めいているのだが、、、
必ず絶対にいつも、自分と同じぐらいか、それより下の人々のことしか取り上げられない。
昔の過去記事にまで遡ってはいないから、上の人々のことに触れていた時期もあったのかも知れないが。
人には好みがあり、それぞれが好きなことを追求すればよい。
わたしは、上も下も真ん中も、あっちへ行ったりこっちへ来たり、わりと好きなものは偏っていない。
が、そのブロガーさんは、必ず最下層か、下か、同じぐらいの生活をしている人々だけに着目する。
そのブログ記事によって、わたしは、年金ギリギリラインの人々のことを知るのだが、上のほうの人々が空席。
なので、別のお気に入りブログに、上のほうのブログを選び、毎日拝読している。
わたしは、自分を軸に、自分より下、自分と同等、自分より上、を上下移動して楽しんでいる。
(人は人の上に人を作らず、人の下にも人を作らないので、上下といっても、年収や属性で分けているだけ)

何度も書くようだが、毎日訪れるブログの肝は、短文であること。
わたしのように、毎日、長文は、毎日重いと思われる。
が、次から次へとおしゃべりが止まらない。
よほど、内向き気質で、ヒマなんだろう。

それはそれとして。
今日、新たなブログを初めて読んだ。
グチグチブログ。
内容が、わたしのグチと瓜二つ。全く同じ。
「あなたも愚痴って、こころの老廃物を出し切ってください」と、紹介文に書かれていた。
が、わたしは、わたしの代わりに愚痴ってくれるブログに、ひたすら溜飲を下げるのみ。
全く同じ内容の愚痴のところには、割れんばかりの拍手を送っている(胸の中で)。
ブログは、娘さんが書く、自分の身の回りのことを全くしない父に対する愚痴なのだが、「父」を「夫」に変えるだけ。
家事だけでなく、他の全てのことに、母任せの父、よく離婚せずに持っていると思う。
「仕方ないのよ、昔の男は」とお母さんは諦めているようだ。
一度、離婚の相談を娘さん(ブロガーさん)にしたことがあるが、娘さんはその時は応じなかった。
それを今は悔いているとのこと。
しかし、世の中の大半の高齢者夫婦は、似たようなものだと想像する。
わたしが尊敬する友人の夫でさえ。

知人の同世代夫婦で離婚したという話を耳にすると、なぜかわたしは、すごくウキウキ、イキイキする。
そうだろうなあ、そうだよねー、やっぱりねー、と、よく経緯を知らないくせに、夫婦の現状や離婚原因をまるで真横で見てきたかのように想像する。
しかも、心躍りながら。

離婚する人、できる人は少ないだろう。
壊すのは、エネルギーがいる。
作る、造る、創るときとはまた別の、無機質ながら膨大なエネルギーを必要とする。
現実問題として、メリット、デメリットを秤にかけると、かなりデメリットが大きい。
LINE婦人公論の記事などで紹介されている、高齢・団地一人住まい、イキイキ暮らしのお手本みたいな人は、女性ばかり。
(媒体が婦人公論だから、読者は女性)
登場する人は死別が多いように思う。

高齢になって離婚はやはりハードルが高い。
経済だけでなく、健康、介護が関わってくる。
しかし、まだ70歳になるかならないかの、健康な、家事をしないリタイア夫は、妻には重くのしかかる。
「昔風で古い」では片付けられないが、別れることも出来ない。
生きている間だけじっと我慢すればよい、とは言っても、どちらが先にあの世に行くのかわからない。
グチグチブログのブロガーさんのように、本当にそんな父(夫)を持つと気の毒だ。
自分の代わりに愚痴を吐いてくれてスカッとする一方で、自分の夫はあの男性よりはずっとマシだなあと、へんに安堵したりする。
下には下がある。

自分より下の生活をしている人ばかりをとりあげるブロガーさんと、同じ心境か。
上を見て、羨ましくため息をつくのは嫌なのだろうか。 
私は違う。
なぜなら、自分より上の人は、その状況に適した能力なり人格なりの人であることが多い。
自分より格段に優れている人を見て羨ましがるのはおかしい。
その人の器や能力に見合った状況だから。
それに、今の状態が未来永劫に続くとは限らない。

羨ましがる場合は、現況が自分の能力に見合っていないと感じるからだろう。
わたしは、かつては姉の夫さんは「夫の鑑」だと羨ましいと思ったこともあったが、姉のレベルに相応しいのであって、わたしレベルには高望みしすぎだ。
同級生の夫さんや家も羨ましいと感じたこともあったが、今では全然、比較したりしない。
隣の芝生は青い、という面もあるだろうし。
それに、異質のものは比べられない。

とは言え、、、
グチグチブログ、読んだ瞬間は、スッキリしたのに、しばらくすると、自分のほうがまだマシか、と胸を撫でおろしたり、無意識に比較している小さな器の自分を発見する。

なので、わたしは、上や下や真ん中や、いろんなブログを読む。
向学心、向上心を刺激するものも好きなので。
走ったり、ジャンプしたり、転けたり、休んだり、、、いろいろしながら、毎日を生きる。
というか、たんなるブログオタクだ。



尊敬します。

2024-06-15 | お付き合い
今週は、あっという間に過ぎた。
もう1週間が経ってしまった。
次女婿が誕生会に、手料理を持って来てくれたのは1週間前。
もうあれから1週間???

なぜ?
思い返してみる。
日月火水木金土、、、
あ、そうそう、、、毎日なんだかんだと、あれこれタスクがあったり、出かけたり。
ぼーーっと暇を持て余していた日はなかった。

しかし、逆説になるが、、、。
残り少ない人生なのに、こんなに早く時間が過ぎてはもったいないのでは?
何もすることがなくて(する気がなくて)退屈は苦痛で虚しいが、することがあると、時間が瞬間的に1週間過ぎてしまって、それもまた充実しているにしても、時間の無駄使いではないにしても、、、過ぎるのが早いのは良いことか、良くないことか。
ダダ漏れは避けたい。
が、漏れているのではなく、たぶん、脳機能が弱っているため、記憶濃度が薄くなっていると思われる。
鮮明度や新鮮度をしっかりきっちり保てない?

退屈な時は時間が過ぎるのが遅く、楽しい時は早いという。
早ければ早いだけ、持ち時間、残り時間の減り方が早い。
では持ち時間の絶対量(健康寿命)を増やせば良いのでは?
当たり前の理想を言ったところで、無意味だけど。
なんでも、メリハリがあってこそ、相反する双方が際立つ。
逆ベクトルの法則。

ちなみに。
昨日は、わたしの希少な友人との女子会。
コロナ前、以来。
たっぷりおしゃべりした中で、こころに残るものを思い出し、味わっている。

彼女は頑張り屋さんなのだ。
尊敬している。
でも彼女は、「わたしは何の取り柄もないから、残ったのは、こんなことしか出来なかったのよ」と言う。
芸術もスポーツも才能がある人しか芽を出さない、
才能云々に関係ない、誰でも出来ることと言えば、勉強しか残らなかったの、と。
勉強こそ、才能だとわたしは、声を大にして言う。
アタマが悪いと、理解出来ない、覚えられない、応用出来ない。発想も出来ない。
頭脳、脳みそは、才能のカタマリだと感じる。
やる気を起こす、モチベーションこそが要で、いくら頭脳明晰でも、宝の持ち腐れということもある。

彼女は、「自分には何もない、だから、自分の芯みたいなものを確立したかった」と言う。
いやいやいやいや、素晴らしい。
わたしも何もないのだが、努力嫌いな省エネ人間なもので、芯といってもただ甘く自己肯定するだけ。
客観的に目に見える、かたちになるものがない。
その点、彼女はそれを成している。
わたしがひっくり返っても出来ない。

同世代で同じようなかんじなのに、人それぞれ、違うものなのだろうか。
同じようなかんじ、なんて、曖昧にひとくくりには出来ないが。
そう言うなら、親も環境も同じの、2歳違いの姉とわたしは、違うタイプ。別人。
姉は彼女と同じく頑張り屋さんで、行動派で能力も高い。
姉もわたしも2人とも逆境だとか、そういう荒波環境ではないのに。
かたや、頑張り、かたや、頑張らない。
まあ、それも個性なのだろう。

かと言って、わたしは別に卑屈になって自己否定する年齢でもない。
逆の発想がある。
良く出来る、能力ある人は、どんどん自分で行動していき、本人は疲弊する。
出来ない省エネ人は、いつも大樹の陰でのんびり休憩して、余力いっぱい。
一生、余力を使わないまま生涯を終える可能性は大。
だが、いつも涼しい気分。汗をかかない。
(冷や汗は、しょっちゅうだけど)
しかし、「サボっている」と糾弾されるので、どう対応するかが、ポイント。

どっちにしても、やる気ある行動派は素晴らしい。
エネルギーを浴びるが、たぶん、わたし自身はサボりなので、表面上に浴びるだけで、すぐ浴びたエネルギーはなくなる。
ではあるが、本能的に、エネルギーを浴びる方向を嗅ぎつける。
自分のエネルギーチャージは、人からいただく。
盗電してスマホ・チャージみたいなもの?
堂々と自宅の電力を使ってチャージしているが。

太陽エネルギーを浴びる地球のようなもの?
更にその周りを回る月のような人もいるけれど。
わたしは、ある程度、エネルギーを自分の裁量で活用したい。
そのためにも、太陽役の人にはエネルギーを豊富に発していただきたいが、それは望みすぎ。
枯渇しないよう、エネルギー源を探し、命を長らえている。

ある意味、海に囲まれ、国土が狭く、資源の少ない日本のようなものか。
日本沈没にならなければよいが。

あ、そう言えば、日本を追い抜く最新インド事情を彼女から聞いた。
また今度。




パワフルな人からエネルギーを浴びる

2024-06-14 | お付き合い
今日は楽しかった。
わたしより3歳も若い、元気溌剌な人からエネルギーをたっぷりもらった。(30歳若いのではないけれど)
都会で、パエリアランチ、パンケーキ&コーヒー、、、。
おしゃべりに花が咲いた。
話題も多岐にわたって、しかも、彼女はわたしより若い現役なので知識も豊富。
刺激を受けた。
なかなかそういう人はいない。
やっぱり、同世代はイイなあ、、、。

ちなみにこの人は、元、仕事仲間。
とてもパワフルだ。
海外一人旅、語学研修滞在、などなど旅はオリジナルで、団体パックではない。
(この度の彼女は別として)しかしまあ、それにしても、わたしが日頃、行動を共にする人々は、高齢者ばかり。
自分も高齢者なので、なんの不自然さもないが。
のではあるものの、、、天然系のわたしより、自覚なく、すっとぼけたことを言われたり、言ったことをすっかり忘れられていたりすると、なぜかイラっとする。
お互い様なのかなあ、、、?
やはり、自分より少し元気な人と行動を共にするほうが、シャキッとする。
気が引き締まる。
安らぎか、刺激か、どちらを選ぶ?と選択すると、今はまだ刺激を選ぶ。
しょっちゅうなら体が持たないが、タマになら、アクセント、メリハリになる。
安らぎは家の中で十分得ているが、安らいでばかりいると躍動感は生まれない。

この元仕事仲間Aさんは、わたしが興味あることを次から次へと、ジュークボックス※のように提供してくれる。(※例えが古い、、、1960年以降、急激に衰退したらしい)

やはり、同じ職場で同じ仕事をしていた時期があっただけに、関心事項や興味に、共通するものがある。
文芸、アート、映画、ショー、国際、語学、旅、、、
プライベートでは、家庭、家族のこと。
ついでに、時代遅れの夫への共通の不満など、話題は尽きない。

それにお酒より、スイーツ。
たった2人でも、女子会は賑やかで、延々と喋っている。
わたしたちは、カフェ店内、まわりのお客さんの2倍ぐらいの年齢。
また向学のために、映画やイベントに行こうね!と口約束して都会を後にした。


努力しないで生まれのせいにする

2024-06-13 | 無題
「燕は戻ってこない」。
これはNHK TVで火曜日22:00から放送されているドラマである。
桐野夏生、原作。
かなり刺激的な内容であるが、毎週、息もしないで(いや、少しして)固唾を飲んで、熱心に見ている。
稲垣吾郎、黒木瞳が、まあまあまあまあまあなんと、カンジワルイ役で、なかなか印象的。
稲垣吾郎は、夜ドラを挟んで、引き続き23:00からの「ワルイコあつまれ」でのキャラクターのギャップがスゴイ。おもしろい。

今週、一昨日、放送された中に、わたしのこころを鷲掴みにした、黒木瞳(母親役)のセリフがある。
表現は少し違っているかも知れないが。
「努力もしないで(不遇な今の状況を)生まれのせいにするのは最低」
これ、刺さった。
わたしに、言ってる?

多くの人は、「努力している」のに報われないと嘆いている。
あるいは、「努力している」のに報われないのは生まれのせいだ、と、努力していることを主張する。
それをわざと肯定せず、逆説的に扱い、反感を買うことで強調され、インパクトある表現になっている。
深層心理を揺さぶり反応を引き出す。

これの変形バージョンなのだが。
のほほんと、ナマケモノ、省エネ主義のわたしは、
「努力もしないで今の安泰を、生まれのおかげと安堵するのは最低」
そう言われているような気にもなる。
否。努力したから安泰を掴んだのだ、生まれのせいではない、と、自分のやってきたことを評価することだろう。
努力と生まれと幸運のおかげ、なんていうのもある。
どちらにしても、今、波風立たずに満足している人には、不穏な喚起だ。
幸せぼけに一石を投じる。
が、幸せ感は、尺度や基準は人それぞれ。

代理母をテーマにするこのドラマでは、「生まれ」とは、主に遺伝子のこと。
加えて経済状況を含む環境なのだが。
母親役の黒木瞳の口から出るわ出るわ、ケシカラン言葉の山。
あっけらかんと自分肯定、他人否定。
バレエ業界に悪感情を抱かせてしまうのではないなと、かえってわたしは老婆心。
人それぞれ一人一人尊厳があるので、バレエダンサーだけが飛び抜けて地球上の誰よりも尊厳があり高付加価値があるとは理解し難い。
滑稽に思えてくる。笑ってはいけないのだが。
作者や脚本家の意図にハマっている?

努力をする、しない、、、努力の内容も、時代の移り変わりがある。
優秀な遺伝子(精子、卵子)が高値で流通する時代に投げかける、「生命って、なに?」。

専業主婦。

2024-06-12 | 暮らし
長女が最近、仕事に終われている。
夜中まで仕事、プライベート時間も仕事、食事中も仕事、休日も仕事。
今、まさに働き盛り、重要な役割りを担っているようだ。
想像するには蝶番(ちょうつがい、ヒンジ)のような位置か?
同じ蝶でも、わたしの愚蝶ブログとは全く違う。
仕事のことは、愚母(わたし)に言っても、理解されないか、へんに間違って解釈して他人に話されたり、また説明を何度も重ねるのが面倒なのか、娘たちは、わたしには一切言わない。
なので、想像するのみ。
(娘婿は、自分の仕事の一部を親切に丁寧に優しく、わかりやすく説明してくれるが。
義理の間柄は、ワンクッションあるから気遣いしてくれる)

私、長女、次女、おんな3人の会話。
「このごろ、(おねえちゃんは)仕事、大変らしいよ」
と、わたしが次女にため息混じりで、一言、漏らした。
次女が言った。
「おねえちゃん、仕事、やめたら?」

長女が答えた。
「仕事やめて、何するの?」
わたしが、口を挟んだ。
「専業主婦!」
・・・
気まずい空気は、、、流れなかった。
即座に長女が勢いよく言った。
「専業主婦の仕事って何?!」
・・・
が、わたしは、しどろもどろ、、、にはならなかった。
待ってました!とばかりに、元気に言った。

料理、家事、育児!
3つの単語を並べた。
長女、次女、2人から流れる冷た〜い気流。

その後、ほんの2、3言、なにかを発したが、会話は全く発展しなかった。
全員、3人共、流した。
建設的意見を交わす気、ゼロ。
この話題、終了!と、時間の無駄だと言わんがばかりに、各人、忙しなく別の事柄に移った。
討論、議論する価値、意義がないのか。

かつて、ちゃんとした就労経験なしのママ友が言っていた。
主婦は色々用事があって大変だ、と。
家事はさておき、銀行に行ったり、と。
今なら銀行に行かなくてもインターネットで用は足りる。
(現場に足を運び対面でしか出来ないこともあるようだが)
彼女は子供が帰ってきた時に家にいて迎えたいそうだ。
自営業なら可能。
家事や子育ての合間に出来る仕事を探していた女性もいたが、「合間」の定義が難しい。
確かに、合間に出来る仕事もある。
働き方、人それぞれ。
30年以上前とはだいぶん、状況が変わってきている。

ちなみに。
コップの一つも洗わない、食べ終わった食器を下げない、いつもトイレは汚しっぱなし、(汚している意識もない)、お風呂は入浴事前事後ノータッチ、ゴミの分別をしない、ゴミ収集日がいつか知らない、家事を全く微塵もしない、一切関わらない夫は、40年前のまま。
(しかし、これは家事と言えるのか?当たり前の身の回りのこと。
もし1人住まいなら、メディアで紹介される、足の踏み場もないゴミが山積みされた汚部屋住人になることだろう)
自分で動くのはお酒とジャンクフードを買いに行くことぐらい。
生まれてから一度も家事をしたことがない。
そういう男性はまだいる。
家父長制度の成れの果て。
(大正生まれの父は、家事はしていたが)
ノーベル賞受賞者やお偉い権威者、政治家、実業家、有名なスポーツマン、俳優、優れた人々でも、家で家事しないんだろうな、、、と想像すると、どんな素晴らしい成果が世に出ても、その人の家族にはなりたくないなあと思ったりする。
別居という手があるが。

身の回りの家事をする、家事能力を身につけさせなかった、当たり前の躾が出来なかったわたしが悪いのだろう。
ペットでもトイレトレーニングの躾がされている。
わたしは、ブリーダー失格だ。

躾トレーニングに失敗し、その結果、毎日具体的な形となって目の当たりにして接すると、ストレスが頭の上から大岩のようにドカンと降って来て、わたしの神経を蝕んでいる。
て、頭に大岩直撃だと即死だ。
毎回、即死を繰り返している。
いったい何回、即死したのだろう。
我が家における専業主婦とは、、、魂が抜けた抜け殻。
病んでいる状態は過ぎ、生体反応のないロボットになっている。ルンバちゃん。
丸く掃除が終われば、自分で元の位置に戻ってチャージ。益々更に進化中ルンバ。
だから、長女も次女も、専業主婦には決してならない、、、か、あるいは、ビジネスと割り切るかも。
わたしは身を挺して見本となったわけだ。反面教師。
わたしは、これだけ即死を繰り返しても、今だに神経がヒリヒリして、壊れてもまた蘇り、中途半端でなかなか死なない。
その度に苦しむ。悶絶する。
魂を切り売りし、自分の羽根を抜いて旗を織るかのように、生活のために少しずつ身を削って生きている。
ま、自分のためなので。
他ならぬ自分が生きていくため。
まだまだ生には執着しているようだ。

時は止まることなく僅かずつ進む。
進み続ける。
やがて最後はどうなるのか、だいたいは想像できる。


最後に。文末で、今更遅いですが。
真面目でまともで正当な専業主婦の方は、閲覧注意。
読まないでください。

料理が得意なお婿さん

2024-06-11 | 日々のこと
うちで、3番目孫(小1女児)のホーム誕生日会を開いた。
いつも必ず孫たちの誕生日会をするが、6月、7月、8月、9月と、この時期は毎月続く。
あと1人は2月。
誕生日会は、ケーキ追加だけのことが多い。
が、今回は、次女一家も参加。
次女婿が、手作り料理を披露してくれ、わたしの冥土の土産がまた増えた。
事前リサーチに基き、誕生日会の主役である3番目孫の好物を使った料理。
彼女は、コーンが大好き。
次女婿は、とても甘いトウモロコシを12本も市場で買って料理してくれた。
コーンスープ、コーン茶碗蒸し(オリーブオイル&瀬戸内海塩かけ)、メキシコ風焼きトウモロコシ(パクチー&紅い香辛料&チーズ)、コーンピザ。
どれも、トウモロコシって、こんなに甘かったっけ?という、感激の品々。
持つべきものは、料理の達人の婿。
彼は自分の家庭でも料理担当、食生活を担っている。
わたしは、対抗意識ゼロで、なんでもかんでも切り刻んで入っているハンバーグと、マカロニサラダ、トマトサラダ、そして、お赤飯。
来月は、5番目孫(3歳女児=次女の娘)の誕生日会なので、きっとパパ(次女婿)はお客さんに徹するのではないかと予想している。
手ぶら、手料理持参無し。
ああ困った。
わたしの出す隠し技がない。
ハンバーグしか出来ない。
いや、すごく頑張れば、コロッケも作れる。
のではあるが、手間暇の割に、イマイチ。
ジャガイモの水分が出過ぎて、揚げる時に爆発することもある。
タイムパフォーマンスが悪い。しかも、リスキー。
なにも苦手なメニューを選ばなくてもいいのに、レパートリーが少な過ぎて哀しい。

実はわたしは八宝菜も作ることが出来るのだが、調子に乗って何度も作っていたら、4番目孫(4歳女児)に、直近、「また八宝菜〜?」と言われた。
で、しばらく八宝菜は封印しようと決意した。
しばらくって、1ヶ月?
他に何か作れるのか??
八宝菜は、野菜がたっぷり食べられるし、ご飯に乗せて中華丼にしているメンバーもいるし、簡単、便利、タイパ(タイムパフォーマンス)良し、栄養バランスも良く、ツブシがきく。
ということで、(姑が使っていた)大きな中華鍋で大量に作る八宝菜は定番になっていたが、孫発言で青菜に塩となった。
なにしろ、料理のレパートリーは少ない。
子育て中は、速さ勝負だった。
ぱぱぱぱと出来るもの。
はやく作らないと、子供が眠くなって食べる前に寝てしまうので。
すごく焦って猛スピードで作っていた。
懐かしい、慌ただしい、忙しない日々。

今も娘夫婦が2人共に仕事事情がある時、チビっ子たちを預かることがあるが、彼らが帰った後の喜びがまたスゴイ。
子供は何はどうあれ、うるさいものなので、振り回されるが、まあ彩りのひとつ。
足腰が動いて、出来る間にお手伝いして、少しは役に立たなければ。
自分の心身の健康のためと、ボランティア精神。
わたしは元来、サボりで自己チューなので、あかの他人のよそ様の子供たちの世話はとても出来ない。
ではあるものの、崇高な精神や行動は目指さず、無理しないことがわたしのモットー。
出来る範囲でする。
自分の能力を超えて頑張り過ぎると、成果や感謝を期待したり、更にボランティア以上に期待されたりする。
なので、あっさりと。
承認欲求がないので、働きが悪いわたし。

負担をかけたり、かけられたり、家庭内の協力、働き分量の比率、さじ加減はバランスが微妙だ。
お互い、ある程度、寄りかかる、甘えるのも人間関係を潤すことがある。