さて、今日も駄文。
読んでくださる方には最大限の感謝と労いを。
ここのところ、無理やりミニ鬱から脱するかのようなスケジュール。
本当に無理やりなのか、たまたまなのか。
毎日誰かと会っている。
そもそもわたしは、大の交際嫌い。
人付き合いが苦手中の苦手。
にもかかわらず、たまたま。
重なる時は重なる。
かと言って、目新しい相手でもなんでもない。
30年来の知り合いが2人、15年前ぐらいに知り合った人が1人、3年前に知り合った人が1人。
仕事関係2人、趣味関係2人。
新しいメンバーは、滅多に増えないが、旧交を温めている。
毎日更新され、わたしが読みに行くブログに、こんなことが書かれていた。
(文章は、わたし流、要約)
「仕事や子育てなどのしがらみがなくなった老後こそが、自由で囚われるものがない黄金時期だ。
忖度や強制などなく、自分流を貫き通せばよい」
その通り。
ただ、少し気になることはある。
他人の意見に左右されず、馬耳東風は、メリットばかりではない。
人の目を意識してこそ、自主規制が働き、自分の理想からあまりにも外れた、みっともないマネは出来ない。
多少、他人の目があるからこそ、野放図ではなく、自由奔放に対して常識的な歯止めがきく。
そう感じていた矢先、翌日にその感想を補填するかのようなブログ記事が更新されていた。
「人嫌い」とは、人間が嫌いなのではなく、「人付き合いが嫌い」ということ。
仕事、会社などの煩わしい忖度がらみの付き合いをカットし、自由な解放された立場で人間を考察するのは好き、だそうだ。
わたしと同じだ。
老後にならないと、人間付き合いからは解放されない、、、のではあるが、自分の身体が弱り介護を実際に必要とするようになると、また考え方は変わる。
人のお世話にならなければ生きていけない。
介護費用を払ってビジネスで介護してもらうとしても、介護人も介護される自分もロボットではない。
その時の心境は自分が置かれる場にならないとわからない。
想像通りなのか、想像を絶するのか、はたまた、想像過多なのか。
ちなみに。
若い元気な人と付き合うのは、活力をもらえて、とても良い、、、と、感じる。いや、感じていた。
が、わたしの場合、その場は、わあわあきゃあきゃあパワーを浴びたものの、帰宅してからどっと疲れ、ソファに倒れ込んでしまった。
後から疲れが出たと思われる。
現場では喜びアドレナリン放出のため、細胞もフル活動していたのだろうけれど、おそらくわたしのキャパを超えていたと思われる。
受け切れなかったようだ。
キャパ・オーバー分が、後に容れ物から溢れ出したのか。
アウトソーシング的なイキイキした活力と、自分自身の器、容量との、大きさのギャップがある。
素晴らしい!と共鳴し憧れたのはいいが、自分はついて行けてない。
TVの向こうで見ると、途中で居眠りしてしまうが、実際に会ってパワーを浴びると、目を覚ます以上に、老体がビックリする。
だがしかし、居眠りと、ビックリを適度に混ぜると、ほどよい自分が出来る上がりそうだ。
自分の容量も、時期や体力、気力によって変化する。
トレーニングによっても変わる。
変化を楽しむためにも、外との接触から受ける刺激は、不可欠。
静と動のメリハリは、必要だ。
(交感神経と副交感神経、行ったり来たり、相互関係のようなもの??)
とかなんとか、歳を取ると、その場でなく、後にならないとわからない、疲れが遅れてやって来る、と、年配の皆さんは、そう言っている。
無理している自分に気づかない。
疲れがなかなか回復しないそうだ。
年齢にかかわらず、活動と休息のバランス、さじ加減は、自分でしかわからない。