ちょっぴり『老子』 ( 44 )
道が廃れ徳が現れる
『道』が廃れると
「 故失道而後徳、失徳而後仁、失仁而後義、失義而後禮。夫禮者忠信之薄而亂之首。前識者道之華而愚之始。是以大丈夫、處其厚、不居其薄。處其實、不居其華。故去彼取此。 」
『老子』第三十八章の後半部分です。
読みは、「 故(ユエ)に道を失いて後に徳、徳を失いて後に仁、仁を失いて後に義、義を失いて後に禮有り。それ禮は忠信の薄くして亂の首(ハジメ)なり。前識者は道の華にして愚の始めなり。是を以って大丈夫は、その厚きにおりて、その薄きに居らず。その實におりて、その華に居らず。故に彼を去りて此れを取る。 」
文意は、「 従って、道が失われた後に徳が現れ、徳が失われた後に仁が現れ、仁が失われた後に義が現れ、義が失われた後に礼が現れたのである。そもそも礼などという形式的なものは、人の真心が薄れた結果現れたもので、争乱の始めとなるものである。人より前に知るなどという智者は、いわば道のあだ花のようなもので、愚かで邪悪の始めとなるものである。従って立派な人は、厚き忠信に居って、薄き礼には居らない。誠実なる道に居って、あだ花のような智には居らない。それ故に、私は、彼の礼、智を去ってこの道を取るのである。 」
前回(43回)の続きの部分です。
本来、『道』という絶対的真理ともいうべき自然の規律があって、それに従って政治や生活がなされておれば良いはずなのですが、「仁」だとか「義」だとか「礼」だとかといった、本質から外れたものに頼るから、世が乱れるというのでしょう。
もっとも、こういった『道』の説明こそが、『老子』先生の最も嫌うところなのでしょうが。
礼も智も、あだ花のようなもの
『老子』の説く『道』を修得することは生易しいことではないようで、その為、本来なら自己を高める手段の一つに過ぎないはずの「徳・仁・義・礼」などといった修養する過程のあだ花のようなものが、人格を形成する主体のようになってしまったため、世が乱れようになったというのです。
「いわんや、人より少しばかり知識があるのを鼻にかけるのは最低だ」とは書いていませんが、そのように受け取ることも出来ます。
『老子』の教えはあまりにも超然としすぎている、という考え方をする人も少なくありません。
しかし、現代の社会においても、この章で指摘しているような光景を見ることも少なくありません。
やたら道徳を語ったり義理や礼儀を重んじるような発言をする人が、その一方で、人格的に首をかしげるような発言をしたり行動をとったりするのを見るのは、特別珍しいことでもありません。
知識人だとか文化人だといわれ、それによる社会的な名声を受けているような人が、社会人としては実に幼稚であるということも再三目にすることです。
そう考えれば、身を修めるということは、どうすれば良いのかと考えてしまいます。
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道が廃れ徳が現れる
『道』が廃れると
「 故失道而後徳、失徳而後仁、失仁而後義、失義而後禮。夫禮者忠信之薄而亂之首。前識者道之華而愚之始。是以大丈夫、處其厚、不居其薄。處其實、不居其華。故去彼取此。 」
『老子』第三十八章の後半部分です。
読みは、「 故(ユエ)に道を失いて後に徳、徳を失いて後に仁、仁を失いて後に義、義を失いて後に禮有り。それ禮は忠信の薄くして亂の首(ハジメ)なり。前識者は道の華にして愚の始めなり。是を以って大丈夫は、その厚きにおりて、その薄きに居らず。その實におりて、その華に居らず。故に彼を去りて此れを取る。 」
文意は、「 従って、道が失われた後に徳が現れ、徳が失われた後に仁が現れ、仁が失われた後に義が現れ、義が失われた後に礼が現れたのである。そもそも礼などという形式的なものは、人の真心が薄れた結果現れたもので、争乱の始めとなるものである。人より前に知るなどという智者は、いわば道のあだ花のようなもので、愚かで邪悪の始めとなるものである。従って立派な人は、厚き忠信に居って、薄き礼には居らない。誠実なる道に居って、あだ花のような智には居らない。それ故に、私は、彼の礼、智を去ってこの道を取るのである。 」
前回(43回)の続きの部分です。
本来、『道』という絶対的真理ともいうべき自然の規律があって、それに従って政治や生活がなされておれば良いはずなのですが、「仁」だとか「義」だとか「礼」だとかといった、本質から外れたものに頼るから、世が乱れるというのでしょう。
もっとも、こういった『道』の説明こそが、『老子』先生の最も嫌うところなのでしょうが。
礼も智も、あだ花のようなもの
『老子』の説く『道』を修得することは生易しいことではないようで、その為、本来なら自己を高める手段の一つに過ぎないはずの「徳・仁・義・礼」などといった修養する過程のあだ花のようなものが、人格を形成する主体のようになってしまったため、世が乱れようになったというのです。
「いわんや、人より少しばかり知識があるのを鼻にかけるのは最低だ」とは書いていませんが、そのように受け取ることも出来ます。
『老子』の教えはあまりにも超然としすぎている、という考え方をする人も少なくありません。
しかし、現代の社会においても、この章で指摘しているような光景を見ることも少なくありません。
やたら道徳を語ったり義理や礼儀を重んじるような発言をする人が、その一方で、人格的に首をかしげるような発言をしたり行動をとったりするのを見るのは、特別珍しいことでもありません。
知識人だとか文化人だといわれ、それによる社会的な名声を受けているような人が、社会人としては実に幼稚であるということも再三目にすることです。
そう考えれば、身を修めるということは、どうすれば良いのかと考えてしまいます。
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