先日行われたプロ野球のドラフト会議、毎年のように見ていますが、希望にあふれて飛び立とうとする若武者たちの姿に、そのお裾分けを頂戴したような気持ちになって楽しませてもらっています。
そして、これも毎年のようにですが、指名を待ち焦がれながら果たせなかった人や、意中の球団でなかった人たちの気持ちを思い、あるいは、これから入団が決まっていく人の数だけ、選手生活を打ち切ることになる人のことが気にかかります。
これもまた毎年のように、「『人間至る処に青山あり』だから、頑張れよ」と声をかけたくなります。
「人間(ジンカン/ニンゲン)到る処青山あり」という言葉の意味を、私は「人間が活動できる場所は、どこにでもある」といった意味で使っていますし、辞書などもそう説明しているものが多いようです。しかし、厳格に言いますと、少し意味が違うのかもしれません。
この言葉は、幕末の僧である月性(ゲッショウ・1817 - 1858 )の漢詩から引用されています。なお、西郷隆盛と入水自殺を図った月照とは別人です。
『 男児立志出郷関 学若無成死不還 埋骨豈惟墳墓地 人間到処有青山 』
「 男児志を立てて郷関を出づ 学もし成る無くんば
骨を埋(ウズ)むに何ぞ只墳墓の地のみならんや 人間到る処青山あり 」
( 墳墓の地は、先祖の眠る墓地。青山は、青々とすばらしい墓地。)
この詩の最後の部分からの引用です。
最後の部分だけを見れば、言葉の意味として間違っていないと思うのですが、詩そのものが訴えているのは、むしろ、初志を貫徹せよ、もしうまく行かなくてもおめおめと故郷に帰るな、人間どこであっても骨を埋める青々とした墓地はあるのだから、と言ったものだと思うのです。この詩は、月性が二十七歳の頃に詠んだものですから、決して、青年が勢いだけで詠んだものでもなく、相当の知識や経験を経たうえでのものだと考えますと、そうそう安易に使えないような気もしてしまいます。
月性は、周防国大島郡(現在の山口県柳井市)で生れました。実家は本願寺系の妙円寺というお寺です。ただ、月性の母は、この寺の長女ですが、他のお寺に嫁いでいましたが、不縁となり身重で実家に戻り、月性を生んだのです。
月性は、そのお寺でかなりやんちゃ坊主だったようですが、母親の指導もあって十三歳で得度し、十五歳の時に豊前国(福岡県)の私塾に入門し五年ほど学びました。この間に広島・佐賀・長崎・平戸などに行っており、この間に先進的な考えを見聞したようです。
二十三歳の時に帰京しますが、四年後に再び大坂に出て学ぶことになりました。この出立にあたって作られたのが掲題の詩です。
三十二歳の頃帰郷し、1848 年に妙円寺内に私塾「清狂草堂」を開設し、六十人ほどが学んでいます。その評判は高く「西の松下村塾、東の清狂草堂」と称されたと言います。
三十六歳の時、叔父の跡を継いで住職となり、その娘と結婚しています。
私塾では尊皇攘夷を中心とした教えを進め、特に海防の重要性を説き、藩政に対する改革意見を建白したときには、「長州藩こそ倒幕の主唱者たれ」と提言しているそうです。
吉田松陰などと親交があり、若者たちに少なからぬ影響を与えたようです。因みに吉田松陰は月性より十三歳年下でした。
1585 年 8 月末ごろ、萩に出掛ける途中の船中で急な腹痛に襲われ、自寺に引き返しましたが、十日ほど苦しんだ後亡くなりました。病死とされましたが、暗殺との噂もあったようです。
安政の大獄と呼ばれる弾圧が始まるのは、その死から三か月ほどしてのことです。
「人間到る処青山あり」という言葉には、「だから頑張りなさい」という言葉も付属しているように思われます。また、初志貫徹というのも、一度や二度の挫折によって投げ棄てて良いものではありませんが、自分が行く道はここしか無いと固執しすぎるのも考え物です。
若い人の夢は大きく突き進む力は逞しいものですが、齢を重ねるにつれて夢は小さくなり突き進む力が弱まることは否定できません。
しかし、反対に、歩いて行く道幅は少しずつ広がっていくもののようですよ。そして、それに従って、「人間到る処青山あり」という言葉の味わいが増してくるように思うのです。つまり、挫折の度に新しい『青山』を見ることが出来ると言うことかもしれませんよ。
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