(その2からの続き)
二日ほど経って、その日のことなどを話していると、宰相の君が、
「どうでした、『明順の朝臣自ら摘んだ』と言っていた下蕨の味は」と言われるのを中宮様がお耳になさって、
「思い出すことといったら、食べ物の話だなんて」とお笑いになられて、お手元に散らかっている紙に、
『下蕨こそ恋しかりけれ』
とお書きになられて、
「上の句をつけなさい」と仰せになるのが、とても可笑しい。
『郭公(ホトトギス)たづねて聞きし声よりも』
と書いて差し上げましたところ、
「随分厚かましいことね。それにしても、食い意地が張っていても、ほととぎすにこだわったのは、やはり気にかかっていたのね」とお笑いになるのも恥ずかしい思いでしたが、
「いえもう、私が『歌は詠みますまい』と思っておりますのに、晴れがましい場所などで、他の人が詠みます時にも、私に『詠め』などと仰せになりますなら、とてもいたたまれない気持ちがいたします。といいましても、まさか、歌の字数も知らないとか、春には冬の歌、秋には梅や桜の花などを詠むことはございませんが、けれども、『歌を詠む』と言われた者の子孫は、少しは人並み以上に詠めて、『あの時の歌は、この者が優れていたとか』『何といっても、誰それの子なのだから』などと言われてこそ、詠みがいのある気持ちもすることでしょう。全然、取り立てて才能があるわけでもないのに、いっぱしの歌のつもりで『私こそが元輔の子だ』と思っているかのように、得意気に真っ先に詠み上げますのは、亡き人(祖父清原深養父、父清原元輔を指す)にとっても可哀そうなことでございます」
と、真剣に申し上げましたので、お笑いになって、
「それならば、一切そなたの心にまかせよう。私からは『詠め』とは言うまい」と仰せになられるので、
「とても気分が楽になりました。もう、歌のことは気に致しません」
などということがありました頃、
「中宮様が庚申をなされる」ということで、内大臣殿は、大変心を配って御用意されていらっしゃいました。
(庚申の夜は、眠ると悪虫が体内に入って害をなすので、眠らずに夜を明かすという道教の信仰行事があった)
次第に夜が更けてきた頃、題を出して、女房にも歌をお詠ませになる。
皆緊張し、苦心して歌をひねり出すのに、私は中宮様の近く侍して、何かお話申し上げなどして、和歌とは関係のないお話ばかりしているのを、内大臣殿が御覧になって、
「どうして歌を詠まないで、むやみに離れて座っているのか。題を取れ」とおっしゃって題を下さるのを、
「そうする必要はないというお言葉を承りまして、歌は詠まないことになっておりますので、考えても居りません」と申し上げる。
「異な事だな。まさか、そのようなことはございますまい。どうして、そのようなことをお許しになられるのです。とんでもないことです。まあよい。他の時はどうでもよいが、今宵は詠め」
などとお責めになられますが、きっぱりと聞き入れもしないで御前に控えていますと、他の人たちは皆歌を作って出して、良し悪しなどを評定なさっている間に、中宮様はちょっとしたお手紙を書いて、私に投げてお寄こしになられました。見てみますと、
「元輔が後といはるる君しもや 今宵の歌にはづれてはおる」
とあるのを見るにつけ、その可笑しさはとても辛抱できないほどです。私が、ひどく笑ってしまったものですから、
「何事だ、何事だ」と内大臣殿もお尋ねるになる。
「『その人の後といはれぬ身なりせば 今宵の歌をまづぞよままし』
遠慮することがございませんのなら、千首の歌だって、たった今からでも、出てまいることでございましょうに」
と申し上げました。
長い章段ですが、文脈としてはそれほど難しくないように思われます。
同時に、いくつかの疑問を示してくれている、ともいえます。
一つは、「どうも退屈だから、ほととぎすを聞きに行こう」と思い立ったからといって、簡単に公の牛車を使って、仲間だけで出掛けることが出来たのでしょうか。いくら中宮の口添えがあったとしてもです。
二つ目は、「明順の朝臣」や「藤侍従」との、やりとりです。
出掛けて行ったのは四人の女房と何人かの従者だと思うのですが、少納言さまたち一行が相当上位にあるように感じられます。
四人の女房のうちの一人、「宰相の君」は上臈女房で、少納言さまは中臈女房に当たると思われますが、好き勝手に振る舞っているように見えます。
中宮の権威がそれだけ絶大であったという証左かもしれません。
さらに、少納言さまが残された和歌の数が極めて少ない理由の大きな原因の一つとして、この章段の経緯が挙げられています。本当にそうなのでしょうか・・・。
二日ほど経って、その日のことなどを話していると、宰相の君が、
「どうでした、『明順の朝臣自ら摘んだ』と言っていた下蕨の味は」と言われるのを中宮様がお耳になさって、
「思い出すことといったら、食べ物の話だなんて」とお笑いになられて、お手元に散らかっている紙に、
『下蕨こそ恋しかりけれ』
とお書きになられて、
「上の句をつけなさい」と仰せになるのが、とても可笑しい。
『郭公(ホトトギス)たづねて聞きし声よりも』
と書いて差し上げましたところ、
「随分厚かましいことね。それにしても、食い意地が張っていても、ほととぎすにこだわったのは、やはり気にかかっていたのね」とお笑いになるのも恥ずかしい思いでしたが、
「いえもう、私が『歌は詠みますまい』と思っておりますのに、晴れがましい場所などで、他の人が詠みます時にも、私に『詠め』などと仰せになりますなら、とてもいたたまれない気持ちがいたします。といいましても、まさか、歌の字数も知らないとか、春には冬の歌、秋には梅や桜の花などを詠むことはございませんが、けれども、『歌を詠む』と言われた者の子孫は、少しは人並み以上に詠めて、『あの時の歌は、この者が優れていたとか』『何といっても、誰それの子なのだから』などと言われてこそ、詠みがいのある気持ちもすることでしょう。全然、取り立てて才能があるわけでもないのに、いっぱしの歌のつもりで『私こそが元輔の子だ』と思っているかのように、得意気に真っ先に詠み上げますのは、亡き人(祖父清原深養父、父清原元輔を指す)にとっても可哀そうなことでございます」
と、真剣に申し上げましたので、お笑いになって、
「それならば、一切そなたの心にまかせよう。私からは『詠め』とは言うまい」と仰せになられるので、
「とても気分が楽になりました。もう、歌のことは気に致しません」
などということがありました頃、
「中宮様が庚申をなされる」ということで、内大臣殿は、大変心を配って御用意されていらっしゃいました。
(庚申の夜は、眠ると悪虫が体内に入って害をなすので、眠らずに夜を明かすという道教の信仰行事があった)
次第に夜が更けてきた頃、題を出して、女房にも歌をお詠ませになる。
皆緊張し、苦心して歌をひねり出すのに、私は中宮様の近く侍して、何かお話申し上げなどして、和歌とは関係のないお話ばかりしているのを、内大臣殿が御覧になって、
「どうして歌を詠まないで、むやみに離れて座っているのか。題を取れ」とおっしゃって題を下さるのを、
「そうする必要はないというお言葉を承りまして、歌は詠まないことになっておりますので、考えても居りません」と申し上げる。
「異な事だな。まさか、そのようなことはございますまい。どうして、そのようなことをお許しになられるのです。とんでもないことです。まあよい。他の時はどうでもよいが、今宵は詠め」
などとお責めになられますが、きっぱりと聞き入れもしないで御前に控えていますと、他の人たちは皆歌を作って出して、良し悪しなどを評定なさっている間に、中宮様はちょっとしたお手紙を書いて、私に投げてお寄こしになられました。見てみますと、
「元輔が後といはるる君しもや 今宵の歌にはづれてはおる」
とあるのを見るにつけ、その可笑しさはとても辛抱できないほどです。私が、ひどく笑ってしまったものですから、
「何事だ、何事だ」と内大臣殿もお尋ねるになる。
「『その人の後といはれぬ身なりせば 今宵の歌をまづぞよままし』
遠慮することがございませんのなら、千首の歌だって、たった今からでも、出てまいることでございましょうに」
と申し上げました。
長い章段ですが、文脈としてはそれほど難しくないように思われます。
同時に、いくつかの疑問を示してくれている、ともいえます。
一つは、「どうも退屈だから、ほととぎすを聞きに行こう」と思い立ったからといって、簡単に公の牛車を使って、仲間だけで出掛けることが出来たのでしょうか。いくら中宮の口添えがあったとしてもです。
二つ目は、「明順の朝臣」や「藤侍従」との、やりとりです。
出掛けて行ったのは四人の女房と何人かの従者だと思うのですが、少納言さまたち一行が相当上位にあるように感じられます。
四人の女房のうちの一人、「宰相の君」は上臈女房で、少納言さまは中臈女房に当たると思われますが、好き勝手に振る舞っているように見えます。
中宮の権威がそれだけ絶大であったという証左かもしれません。
さらに、少納言さまが残された和歌の数が極めて少ない理由の大きな原因の一つとして、この章段の経緯が挙げられています。本当にそうなのでしょうか・・・。
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