書写山の性空聖人 ( 3 ) ・ 今昔物語 ( 12 - 34 )
( (2) より続く )
武者は、性空聖人の凄まじいばかりの祈りの姿を見て、「聖人を連れて参上しないからといって、命を絶たれることもなかろう。きっと、流罪になるのだろう。しかし、この聖人を無理やり連れて参れば、現世も後生も良いことはあるまい。そうだとすれば、いっそのことこの僧房から逃げ出そう」と思って、家来どもを呼び集めて、馬に乗り鞭を打って逃げ出した。
十余町ばかり坂を下った時、院の下役人が書面を捧げ持ってくるのに出会った。それを受け取り開いて見ると、「聖人をお迎えしてはならない。院が、召し出してはならないという御夢をご覧になられたので、その旨のご命令を出されたのである。速やかに帰参せよ」と書かれていた。これを見て武者は大喜びした。
事の成り行きを心配しながら急いで帰参し梶原寺での事や聖人の僧房での事をつぶさに申し上げると、院はご自分の御夢と思い合わせて、大変畏れられた。
その後、身分の上中下を問わず僧俗合わせて、京より聖人に結縁を求めて参るようになった。
花山法王は二度も御幸なされた。その二度目の時には、延源阿闍梨(エンゲンアジャリ)という優れた絵師を連れて行かれ、聖人の肖像を描かせ、また、聖人の最期の有様を記録させた。
その肖像を描かせている時に、地震があった。法王はたいそう恐れなさった。すると聖人は、「恐れることはございません。これは、私の姿を写したので生じたことなのです。また、後に、姿を写し終った時に地震が起こるでしょう」と言った。
まことに、姿を写し終えた時に、大きな地震があった。その時、法皇は地に下りて、聖人を礼拝して帰って行かれた。
その後のこと、源心座主(天台座主)という人がいた。比叡山の僧である。
この人は、まだ供奉といわれていた時から書写の聖人と懇意であった。ある時、聖人の許より源心供奉の許に手紙が届いた。開いて見ると、「長年、仏をまつり経を書写してきました。あなたに供養していただこうと思っていましたが、何となく支障があって、今なお果たせておりません。そこで、万障繰り合わせておいでいただきたいのです。何としてもこの願いを果たしたいのです」とあった。
源心はこの手紙を見て、急いで書写の山に行って、聖人の願い通りに、経文を供養し奉った。聖人はたいそう喜び、尊んだ。
すると、その国の人が大勢集まってきて、この事を聞いて尊ぶこと限りなかった。
供養が終わると、様々なお布施を与えた。その中に一寸ばかりの針の[ 欠字あり。「さび」と言った意味の言葉か? ]たのを紙に包んでいる物があった。源心はこれを見て、何のことだか訳が分からないと思った。
「針はこの国の特産物であるから与えてくれたのであろう。そうとはいえ、たった一本の錆びた針を与えてくださったことが、とても理解できないが、もしかすると何か理由があるのかもしれない。されば、この事をお尋ねしてみよう。もし聞くべき事であれば、今聞かなかったら、後々後悔するかもしれない」と思って、源心は暇乞いをして出て行く時に聖人に、「この針を下さったのは、どういうわけでしょう」と尋ねた。
聖人は、「この事は、定めし不思議に思われたでしょう。この針は、私が母の胎内より生まれ出ました時に、左の手に握って生まれてきたのですが、母がそのように話して私にくれたのです。それを長年持っておりましたが、無駄に捨ててしまうのも[ 欠字あり。不詳。]と思いまして、あなたに差し上げたのです」と答えた。
これを聞いて源心は、「よくぞ尋ねたものだ。尋ねないですましていたら、聖人の一生を知らずじまいになっていただろう」と喜んで帰って行ったが、摂津の国の辺りまで来た時、人が追いかけて来て、「聖人はお亡くなりになりました」と告げた。長保四年という年の三月[ 欠字あり。]日のことである。( 但し、性空聖人の没年は、寛弘四年(1007)三月十日、あるいは十三日とされている。)
聖人は、前もって自らの死期を知っていて、このようにしたのである。死ぬ時には、仏堂に入り、静かに法華経を誦して入滅した。
後になって、源心供奉は、「世の中に仏法を説くことの出来る僧は多いが、その中から、聖人が私を最後の時の講師に呼んだということから、私の後世は頼もしく思われ、前世において、どのような契りをしていたのかと思うのである」と言われた。
このことを、座主(源心)は常に話していた、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
( (2) より続く )
武者は、性空聖人の凄まじいばかりの祈りの姿を見て、「聖人を連れて参上しないからといって、命を絶たれることもなかろう。きっと、流罪になるのだろう。しかし、この聖人を無理やり連れて参れば、現世も後生も良いことはあるまい。そうだとすれば、いっそのことこの僧房から逃げ出そう」と思って、家来どもを呼び集めて、馬に乗り鞭を打って逃げ出した。
十余町ばかり坂を下った時、院の下役人が書面を捧げ持ってくるのに出会った。それを受け取り開いて見ると、「聖人をお迎えしてはならない。院が、召し出してはならないという御夢をご覧になられたので、その旨のご命令を出されたのである。速やかに帰参せよ」と書かれていた。これを見て武者は大喜びした。
事の成り行きを心配しながら急いで帰参し梶原寺での事や聖人の僧房での事をつぶさに申し上げると、院はご自分の御夢と思い合わせて、大変畏れられた。
その後、身分の上中下を問わず僧俗合わせて、京より聖人に結縁を求めて参るようになった。
花山法王は二度も御幸なされた。その二度目の時には、延源阿闍梨(エンゲンアジャリ)という優れた絵師を連れて行かれ、聖人の肖像を描かせ、また、聖人の最期の有様を記録させた。
その肖像を描かせている時に、地震があった。法王はたいそう恐れなさった。すると聖人は、「恐れることはございません。これは、私の姿を写したので生じたことなのです。また、後に、姿を写し終った時に地震が起こるでしょう」と言った。
まことに、姿を写し終えた時に、大きな地震があった。その時、法皇は地に下りて、聖人を礼拝して帰って行かれた。
その後のこと、源心座主(天台座主)という人がいた。比叡山の僧である。
この人は、まだ供奉といわれていた時から書写の聖人と懇意であった。ある時、聖人の許より源心供奉の許に手紙が届いた。開いて見ると、「長年、仏をまつり経を書写してきました。あなたに供養していただこうと思っていましたが、何となく支障があって、今なお果たせておりません。そこで、万障繰り合わせておいでいただきたいのです。何としてもこの願いを果たしたいのです」とあった。
源心はこの手紙を見て、急いで書写の山に行って、聖人の願い通りに、経文を供養し奉った。聖人はたいそう喜び、尊んだ。
すると、その国の人が大勢集まってきて、この事を聞いて尊ぶこと限りなかった。
供養が終わると、様々なお布施を与えた。その中に一寸ばかりの針の[ 欠字あり。「さび」と言った意味の言葉か? ]たのを紙に包んでいる物があった。源心はこれを見て、何のことだか訳が分からないと思った。
「針はこの国の特産物であるから与えてくれたのであろう。そうとはいえ、たった一本の錆びた針を与えてくださったことが、とても理解できないが、もしかすると何か理由があるのかもしれない。されば、この事をお尋ねしてみよう。もし聞くべき事であれば、今聞かなかったら、後々後悔するかもしれない」と思って、源心は暇乞いをして出て行く時に聖人に、「この針を下さったのは、どういうわけでしょう」と尋ねた。
聖人は、「この事は、定めし不思議に思われたでしょう。この針は、私が母の胎内より生まれ出ました時に、左の手に握って生まれてきたのですが、母がそのように話して私にくれたのです。それを長年持っておりましたが、無駄に捨ててしまうのも[ 欠字あり。不詳。]と思いまして、あなたに差し上げたのです」と答えた。
これを聞いて源心は、「よくぞ尋ねたものだ。尋ねないですましていたら、聖人の一生を知らずじまいになっていただろう」と喜んで帰って行ったが、摂津の国の辺りまで来た時、人が追いかけて来て、「聖人はお亡くなりになりました」と告げた。長保四年という年の三月[ 欠字あり。]日のことである。( 但し、性空聖人の没年は、寛弘四年(1007)三月十日、あるいは十三日とされている。)
聖人は、前もって自らの死期を知っていて、このようにしたのである。死ぬ時には、仏堂に入り、静かに法華経を誦して入滅した。
後になって、源心供奉は、「世の中に仏法を説くことの出来る僧は多いが、その中から、聖人が私を最後の時の講師に呼んだということから、私の後世は頼もしく思われ、前世において、どのような契りをしていたのかと思うのである」と言われた。
このことを、座主(源心)は常に話していた、
となむ語り伝へたるとや。
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