神明の聖人 睿実 ( 1 ) ・ 今昔物語 ( 12 - 35 )
今は昔、
京の西に神明(ジンミョゥ)という山寺があった。(所在不祥。現存していない。)
そこに睿実(エイジツ・伝不祥。延暦寺の阿闍梨らしい。)という僧が住んでいた。この人は下賤の者ではなく、天皇の子孫といわれているが、はっきりと誰の子だとは分からない。
幼くして父母の許を離れ、生涯、仏の道に入り、日夜に法華経を読誦していた。慈悲の心が深く、苦しんでいる者があれば、これを哀れみ手助けした。
最初は愛宕山(京都市北西部にある)に住んでいたが、極寒の季節に衣のない人たちを見ると、着ている衣を脱いで与えたので、自分は裸同然であった。そこで、大きな桶に木の葉を入れていっぱいにして、夜はその中に入っていた。ある時には、食物がなくなってしまい、竈(カマド)の土を取って食べて命をつないだ。それがなかなかおいしかったのである。ある時には、一心に経を誦していると、一部を読み終える時に、ほのかに白象(普賢菩薩の乗物。)が聖人(ショウニン)の前に現れることもあった。
経を読む声は非常に尊かったので、聞く人はみな涙を流した。
このようにして長年修業し、その後神明に移り住んだのである。
さて、閑院の太政大臣と申される人がいた。名を公季(キンスエ)と申される。九条殿(藤原師輔)の第十二子(九男とも十男とも十一男とも、諸説ある。)である。母は、延喜の天皇(醍醐天皇)の皇女であられる。
この公季がまだ若く、三位の中将とお呼びしていた頃、夏の頃、重い瘧(オコリ・マラリアのような熱病らしい。)にかかられたので、あちらこちらの霊験所(霊場。主としてお寺。)に籠って、優れた高僧たちの加持祈祷を受けたが、少しもその効験が現れなかった。
そこで、この睿実が優れた法華の修熟者として評判が高かったので、この人に祈祷させようと思って、神明に出かけられたが、いつもより早く賀耶河(カヤガワ・紙屋川。桂川の支流。)の辺りで瘧の発作が始まった。
「神明に近い辺りなので、ここから引き返すこともない」ということになり、何とか神明まで行き着かれた。
僧房の軒の所まで車を引き寄せ、まず、やってきた理由を伝えさせた。
すると、持経者(ジキョウジャ・睿実を指す。)からの返事は、「重い風邪にかかっていますので、ずっと蒜(オオヒル・ニンニク、ニラなどの総称。)を食べておりますので」と言うものであった。
そこで、「何としても聖人を拝ませていただきたいのです。このまま帰るわけには参りません」と言うと、「それならば、どうぞお入りください」と答えて、立ててある蔀戸を取り除き、新しい上莚(ウワムシロ)を敷いて、お入りくださるよう申した。
三位の中将殿は、従者の肩にすがって入り、横になられた。
持経者は水を浴びてから、しばらくたって出て来た。その姿を見ると、背は高く痩せ枯れていて、まことにこの上なく尊げであった。
持経者は近くまで来て、「風邪の病が重いので、医師(クスシ)の申すに従って蒜を食べておりますが、せっかくお出で下さいましたので、どうしてこのままお返しすることなど出来ましょうか。また、法華経は、浄・不浄を区別なさらないお経なので、誦し奉って何のさわりもございません」と言って、念珠をおしもみながら近寄るのが、たいへん頼もしく尊い。
臥している三位の中将殿の首もとから聖人(睿実を指す)の手を差し入れて、聖人の膝を枕にさせて、寿量品(ジュリョウボン・法華経の一部分。)を読誦するその声は、この世にはこれほど尊い人もいるのだと思われるほどであった。声は朗々としていて、聞いていると尊く有難いこと限りない。
持経者は目から涙を落として、泣く泣く読誦を続け、その涙は病者の高熱で熱くなっている胸に冷ややかに懸かり、そこから冷えは広がってゆき、何度も身を震わせる。寿量品を三べんばかり繰り返して誦し終わった時には、熱はさめてしまわれた。
気分もすっかり良くなられたので、繰り返し持経者を礼拝し、後の世までの交わりを約束してお帰りになった。
その後は、瘧の発作も起こらなくなり、この持経者の尊い名声は、世間に高まっていった。
その頃、円融天皇が堀川院で重い病に罹っていた。様々な御祈祷が行われた。物の怪の仕業なので、世に霊験あらたかと名高い僧たちを集められるだけ集めて御加持を行った。しかしながら、露ほどの効果もなかった。
ある上達部(カンダチメ・上級貴族)が、「神明という山寺に、睿実という僧が住んでおり、長年ひたすら法華経を誦しています。彼を召して、御祈祷させたらどうでしょうか」と奏上した。
また、ある上達部は、「彼は道心深い者で、もし勝手気ままなふるまいがあれば、見苦しいことがあるのではないでしょうか」と言う。また、ある人は、「効験さえあれば、どのようなことがあってもよいではありませんか」と言う。
結局、召すことを決定して、蔵人[ 欠字あり。人名が入るが不詳。]を使者として召請に向かわせた。蔵人は宣旨を承って、神明に行き、持経者(睿実)に会って、宣旨の趣を伝えた。
持経者は、「異様(コトヨウ・修業者で世間離れしていることを表現しているらしい。)の身でございますから、参上するのは憚られますが、天皇統治の地に居りながら、どうして宣旨に背くことが出来ましょうか。されば、参上いたしましょう」と言って出立しようとするので、蔵人は、きっと一応は辞退するだろうと思っていたのに、すぐに出立しようとするので、心の中で喜びながら、同車して参上する。蔵人は、後ろの方に乗った。
( 以下 ( 2 ) に続く )
☆ ☆ ☆
今は昔、
京の西に神明(ジンミョゥ)という山寺があった。(所在不祥。現存していない。)
そこに睿実(エイジツ・伝不祥。延暦寺の阿闍梨らしい。)という僧が住んでいた。この人は下賤の者ではなく、天皇の子孫といわれているが、はっきりと誰の子だとは分からない。
幼くして父母の許を離れ、生涯、仏の道に入り、日夜に法華経を読誦していた。慈悲の心が深く、苦しんでいる者があれば、これを哀れみ手助けした。
最初は愛宕山(京都市北西部にある)に住んでいたが、極寒の季節に衣のない人たちを見ると、着ている衣を脱いで与えたので、自分は裸同然であった。そこで、大きな桶に木の葉を入れていっぱいにして、夜はその中に入っていた。ある時には、食物がなくなってしまい、竈(カマド)の土を取って食べて命をつないだ。それがなかなかおいしかったのである。ある時には、一心に経を誦していると、一部を読み終える時に、ほのかに白象(普賢菩薩の乗物。)が聖人(ショウニン)の前に現れることもあった。
経を読む声は非常に尊かったので、聞く人はみな涙を流した。
このようにして長年修業し、その後神明に移り住んだのである。
さて、閑院の太政大臣と申される人がいた。名を公季(キンスエ)と申される。九条殿(藤原師輔)の第十二子(九男とも十男とも十一男とも、諸説ある。)である。母は、延喜の天皇(醍醐天皇)の皇女であられる。
この公季がまだ若く、三位の中将とお呼びしていた頃、夏の頃、重い瘧(オコリ・マラリアのような熱病らしい。)にかかられたので、あちらこちらの霊験所(霊場。主としてお寺。)に籠って、優れた高僧たちの加持祈祷を受けたが、少しもその効験が現れなかった。
そこで、この睿実が優れた法華の修熟者として評判が高かったので、この人に祈祷させようと思って、神明に出かけられたが、いつもより早く賀耶河(カヤガワ・紙屋川。桂川の支流。)の辺りで瘧の発作が始まった。
「神明に近い辺りなので、ここから引き返すこともない」ということになり、何とか神明まで行き着かれた。
僧房の軒の所まで車を引き寄せ、まず、やってきた理由を伝えさせた。
すると、持経者(ジキョウジャ・睿実を指す。)からの返事は、「重い風邪にかかっていますので、ずっと蒜(オオヒル・ニンニク、ニラなどの総称。)を食べておりますので」と言うものであった。
そこで、「何としても聖人を拝ませていただきたいのです。このまま帰るわけには参りません」と言うと、「それならば、どうぞお入りください」と答えて、立ててある蔀戸を取り除き、新しい上莚(ウワムシロ)を敷いて、お入りくださるよう申した。
三位の中将殿は、従者の肩にすがって入り、横になられた。
持経者は水を浴びてから、しばらくたって出て来た。その姿を見ると、背は高く痩せ枯れていて、まことにこの上なく尊げであった。
持経者は近くまで来て、「風邪の病が重いので、医師(クスシ)の申すに従って蒜を食べておりますが、せっかくお出で下さいましたので、どうしてこのままお返しすることなど出来ましょうか。また、法華経は、浄・不浄を区別なさらないお経なので、誦し奉って何のさわりもございません」と言って、念珠をおしもみながら近寄るのが、たいへん頼もしく尊い。
臥している三位の中将殿の首もとから聖人(睿実を指す)の手を差し入れて、聖人の膝を枕にさせて、寿量品(ジュリョウボン・法華経の一部分。)を読誦するその声は、この世にはこれほど尊い人もいるのだと思われるほどであった。声は朗々としていて、聞いていると尊く有難いこと限りない。
持経者は目から涙を落として、泣く泣く読誦を続け、その涙は病者の高熱で熱くなっている胸に冷ややかに懸かり、そこから冷えは広がってゆき、何度も身を震わせる。寿量品を三べんばかり繰り返して誦し終わった時には、熱はさめてしまわれた。
気分もすっかり良くなられたので、繰り返し持経者を礼拝し、後の世までの交わりを約束してお帰りになった。
その後は、瘧の発作も起こらなくなり、この持経者の尊い名声は、世間に高まっていった。
その頃、円融天皇が堀川院で重い病に罹っていた。様々な御祈祷が行われた。物の怪の仕業なので、世に霊験あらたかと名高い僧たちを集められるだけ集めて御加持を行った。しかしながら、露ほどの効果もなかった。
ある上達部(カンダチメ・上級貴族)が、「神明という山寺に、睿実という僧が住んでおり、長年ひたすら法華経を誦しています。彼を召して、御祈祷させたらどうでしょうか」と奏上した。
また、ある上達部は、「彼は道心深い者で、もし勝手気ままなふるまいがあれば、見苦しいことがあるのではないでしょうか」と言う。また、ある人は、「効験さえあれば、どのようなことがあってもよいではありませんか」と言う。
結局、召すことを決定して、蔵人[ 欠字あり。人名が入るが不詳。]を使者として召請に向かわせた。蔵人は宣旨を承って、神明に行き、持経者(睿実)に会って、宣旨の趣を伝えた。
持経者は、「異様(コトヨウ・修業者で世間離れしていることを表現しているらしい。)の身でございますから、参上するのは憚られますが、天皇統治の地に居りながら、どうして宣旨に背くことが出来ましょうか。されば、参上いたしましょう」と言って出立しようとするので、蔵人は、きっと一応は辞退するだろうと思っていたのに、すぐに出立しようとするので、心の中で喜びながら、同車して参上する。蔵人は、後ろの方に乗った。
( 以下 ( 2 ) に続く )
☆ ☆ ☆
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます