枕草子 第百三十六段 殿などのおはしまさで後
殿などのおはしまさで後、世の中に事出で来、騒がしうなりて、宮もまゐらせたまはず、小二条殿といふところにおはしますに、何ともなく、うたてありしかば、久しう里にゐたり。
御前渡りのおぼつかなきにこそ、なほ得堪へてあるまじかりけれ。
(以下割愛)
関白殿(中宮の父藤原道隆)などがお亡くなりなってから、世の中に事件が起こり、騒がしくなって、中宮様も参内なさらず、小二条殿という所においでになられるのですが、何となくもやもやと、いやなことなどありまして、長らく宿下がりしておりました。
中宮様の御用をする自信がなくなり、とても堪えて勤めることが出来なかったのです。
右中将(源経房)が私の家においでになって、お話をなさいました。
「今日、中宮様のもとに参上しましたら、ほんとに何ともしんみりとした感じでした。女房の装束は、裳や唐衣は季節にぴったりで、気を緩めることなくお仕えされています。御簾の端のあいている所から覗いてみますと、女房たち八、九人ばかり、朽葉の唐衣・淡色の裳に、紫苑重ね・萩重ねなど美しく装って、並んで座っておられましたよ。
前栽の草がひどく茂っているので、『どうしてなのですか。刈り取らせたらいいでしょう』と言いますと、『わざわざ露を置かせてご覧になられるとのことですから』と、宰相の君の声で答えがありましたが、しゃれた気分がしたものですよ。
『少納言の宿下がりは、とても気がかりだわ。中宮様がこのようなわび住まいをなさるような時には、どんなに差し障ることがあっても、彼女ならきっと側にいるに違いないと中宮様は思っていらっしゃるでしょうに、そのかいもなく』と、多くの人が言っていたのは、『あなたにお伝えせよ』と言うつもりなのでしょうよ。
まあ、参上してご覧なさい。情緒に満ちたお庭の眺めでしたよ。台の前に植えられたりける牡丹(白楽天の詩を引用していて、季節外れの牡丹により中宮の淋しい心境を伝えようとしている)などの、それは風情のあることといったら」
などと仰る。
「さあ、どうでしょうか。皆さんが『私を憎らしい』と思っていたのが、反対に、私の方が憎らしいと感じましたものですからねぇ」
と、ご返事する。
「のんきなことを」
と、お笑いになる。
事実、『中宮様は、私のことをどうお思いなのか』とご推察申し上げるようなご不興をかったわけではなく、周りにお仕えの女房たちが、
「少納言は、左大臣道長殿側の方々と、親しい間柄だ」
として、皆さんが集まってお話などしている時も、私が自室から参上してくるのを見かけると、急に話をやめたり、私をのけ者にするような態度なのが、これまでなかったことで憎らしいので、
「参上せよ」
などと、たびたびの中宮様からの仰せ言をも聞き流して、ほんに長い間たってしまったのを、それはそれで、中宮様の周辺では、完全に敵方の者のように仕立て上げて、とんでもない作り話まで流れているらしいのです。
いつもと違って、仰せ言などもなく何日も過ぎているので、心細くて物思いにふけっている時に、長女(ヲサメ・下女たちの長。中宮職の下仕えの者)が、手紙を持ってきました。
「中宮様から、宰相の君を通して、こっそりと賜ったお手紙です」
と言って、この私の家でまで人の目を気にしているのは、あまりに度が過ぎています。
「女房に代筆させての仰せ言ではないようだ」
と思うと、胸がどきどきして、急いで開けてみますと、紙には何も書いておらず、山吹の花びら、ただ一重(ヒトエ)をお包みになられている。(山吹は晩春のもので、この時の季節は秋であり、この頃の山吹の花は「返り咲きの花」といわれた)
それに、『いはで思ふぞ』(「心には下行く水のわきかへり言はで思ふぞ言ふにまされる」という、古今六帖からの引用)とお書きになっているのを拝見しますと、久しい間のお便りの途絶えが悲しかったことも、すべて慰められて嬉しく、そんな私の様子を長女も見つめていて、
「中宮様には、どれほど、何かにつけてあなたのことを思い出してお口にされているそうでございますのに。誰もが『納得のいかない長い宿下がりだ』と言っているそうですよ。どうして、参上なさらないのですか」
と言ったあとで、
「この先の所まで、ちょっと出掛けましてから、お伺いします」
と言って出ていったあと、ご返事を書いて差し上げようとしたのですが、先ほどの『いはで思ふぞ』のもとの歌を、さっぱり忘れてしまっていたのです。
「ほんとに変ねえ。同じ古歌とはいっても、こんな有名な歌を知らぬ人などあるかしら。もう、のどのところまで思い出しているのに、出てこないのは、どういうことかしら」
などと言っているのを聞いて、そばに座っている女の子が、
「『下行く水』と申すのですよ」
と言ったのですが、一体、どうしてこんなに忘れてしまっていたのでしょう。こんな子供に教えられるなんて、いやになってしまいます。
ご返事を差し上げてから、少し間をおいて参上しました時は、「どんなご様子か」と、いつもより気がひけてしまい、御几帳に半分隠れるようにして控えていましたのを、
「あれは、新参の者か」
などと、中宮様はお笑いになって、
「そなたの嫌いな歌なのだが、『この際には、ぴったりの歌だ』と思ったのよ。全然そなたの顔を見かけないのでは、少しの間も気が休まりそうもないのでね」
などと仰られて、以前と変わったご様子などありません。
童女に忘れていた歌を教えられたことを申し上げますと、たいそうお笑いになられて、
「そのようなことはあるものよ。あまりにも知り過ぎて馬鹿にしているような古い言葉などは、そのようなことがありそうね」
など仰せになられるついでに、昔話をなさって、
「なぞなぞ合わせをする時、方人(カタウド・左右に分かれた味方の人)ではないのですが、そのようなことに巧みな人が、『左方の一番手は、私が出題しよう。そのつもりでいて下さい』などと請け合うので、『まさか、下手な出題はされまい』と頼もしく嬉しく思い、人々皆がなぞなぞの問題を作り出し、それらを選んで決めていると、『一番の謎の問題は、私に任せてあけておきなさい。こう申すからには、決してつまらない問題ではありませんよ』と言います。
『もっともだ』と思っているうちに、行われる日が間近になりました。『やはり、その問題の中味を教えて下さい。万が一にも同じ問題が重なることもありますから』と言うのを、『じゃあ、もう知りませんよ。私を当てになさるな』と、機嫌を損ねるので、気がかりではあるがそのままで当日となり、なぞなぞ合わせを行う人たちが、男も女も左方右方に分かれて座につき、検分役の人なども大変大勢居並んで、いよいよ開始となると、例の左の一番を出題する人が、いかにも心中期するところがあり気に、もったいぶっている様子は、『いったいどんな問題を出すのだろう』と見えるので、味方の人も敵方の人も、皆が今か今かと見つめているうちに、『なぞ、なぞ』と問いかけるあたりは、大した貫禄です。
ところがね、『天に張り弓』と言ったのです。(三日月などの弓張月のこと。子供でも知っている問題)
右方の人は、『実に面白くなった』と勝を確信していますが、左方の人は、あっけに取られて、一同憎らしくて白けきってしまい、『 敵方に心を寄せていて、自分たちをわざと負けさせようとしたんだな』などと、しばらく疑っていると、右方の一番の人が、『実に悔しい、なんて馬鹿なんだろう』と笑って、『これはこれは、全然わからないな』と言って、口をへの字に曲げて、『そんな問題は聞いたことがない』と、猿楽のようにおどけ始めた途端、かずを刺させました。(歌合や物合などで、一番ごとの勝を記録するため竹の串を刺した)
『それはけしからぬ。このようななぞを知らない者がどこにいるか。勝を取られるわけなどない』と抗議しましたが、『知らないといったからには、どうして負けたことにならぬというのか』と言って、二番以後の勝負も、この人がね、全部弁じたてて勝たせたそうなのです。よく人々が知っている言葉でも、思い出さない時は、知らないということになってしまうのでしょうが、『どういうわけで、知らないなんて言ったのだ』と、後で右方の一番の人はお仲間に恨まれたそうよ」
などと、お話されましたので、御前に伺候している女房たちはみな、
「それはそう思ったことでしょう。なんて、まずい答えをしたのでしょう」
「左方の人々の心中は、最初少しだけ聞いた時には、どんなに憎らしかったことでしょう」
などと笑う。
このお話は、忘れたことなものですか、「いはで思ふぞ」などは、誰でも知っている言葉なので、おとぼけなのでしょう、と言う中宮様のお気持ちなのでしょうか。
この章段も、とても重要な意味を持っています。
中宮定子の父道隆の死去により、定子を取り巻く勢力は一気に力を落とし、定子の兄など周辺の人々が左遷追放される大事件が起き、定子自身も謹慎状態になっていました。
その中で、少納言さまは、今や日の出の勢いの道長と親しかったため、定子付きの女房たちから何かと疑いの目で見られ、いや気がさしたのでしょう、宿下がりをしてしまいました。
本段は、そのような、少納言さまが敬愛してやまない定子にとっても、また少納言さま自身にとっても大変辛い時期の記録なのです。
なお、最終の部分ですが、中宮の話の意図を、誰でも知っている『いはで思ふぞ』の上の句を少納言さまが忘れていたということを、「そんなはずがない、おとぼけでしょう」とからかったのか、「この話のように、本当は知っているはず」と言うことを周りの女房たちに聞かせようとしたのか、少納言さまも真意を掴みかねているようです。
私は、後者として受け取りました。
殿などのおはしまさで後、世の中に事出で来、騒がしうなりて、宮もまゐらせたまはず、小二条殿といふところにおはしますに、何ともなく、うたてありしかば、久しう里にゐたり。
御前渡りのおぼつかなきにこそ、なほ得堪へてあるまじかりけれ。
(以下割愛)
関白殿(中宮の父藤原道隆)などがお亡くなりなってから、世の中に事件が起こり、騒がしくなって、中宮様も参内なさらず、小二条殿という所においでになられるのですが、何となくもやもやと、いやなことなどありまして、長らく宿下がりしておりました。
中宮様の御用をする自信がなくなり、とても堪えて勤めることが出来なかったのです。
右中将(源経房)が私の家においでになって、お話をなさいました。
「今日、中宮様のもとに参上しましたら、ほんとに何ともしんみりとした感じでした。女房の装束は、裳や唐衣は季節にぴったりで、気を緩めることなくお仕えされています。御簾の端のあいている所から覗いてみますと、女房たち八、九人ばかり、朽葉の唐衣・淡色の裳に、紫苑重ね・萩重ねなど美しく装って、並んで座っておられましたよ。
前栽の草がひどく茂っているので、『どうしてなのですか。刈り取らせたらいいでしょう』と言いますと、『わざわざ露を置かせてご覧になられるとのことですから』と、宰相の君の声で答えがありましたが、しゃれた気分がしたものですよ。
『少納言の宿下がりは、とても気がかりだわ。中宮様がこのようなわび住まいをなさるような時には、どんなに差し障ることがあっても、彼女ならきっと側にいるに違いないと中宮様は思っていらっしゃるでしょうに、そのかいもなく』と、多くの人が言っていたのは、『あなたにお伝えせよ』と言うつもりなのでしょうよ。
まあ、参上してご覧なさい。情緒に満ちたお庭の眺めでしたよ。台の前に植えられたりける牡丹(白楽天の詩を引用していて、季節外れの牡丹により中宮の淋しい心境を伝えようとしている)などの、それは風情のあることといったら」
などと仰る。
「さあ、どうでしょうか。皆さんが『私を憎らしい』と思っていたのが、反対に、私の方が憎らしいと感じましたものですからねぇ」
と、ご返事する。
「のんきなことを」
と、お笑いになる。
事実、『中宮様は、私のことをどうお思いなのか』とご推察申し上げるようなご不興をかったわけではなく、周りにお仕えの女房たちが、
「少納言は、左大臣道長殿側の方々と、親しい間柄だ」
として、皆さんが集まってお話などしている時も、私が自室から参上してくるのを見かけると、急に話をやめたり、私をのけ者にするような態度なのが、これまでなかったことで憎らしいので、
「参上せよ」
などと、たびたびの中宮様からの仰せ言をも聞き流して、ほんに長い間たってしまったのを、それはそれで、中宮様の周辺では、完全に敵方の者のように仕立て上げて、とんでもない作り話まで流れているらしいのです。
いつもと違って、仰せ言などもなく何日も過ぎているので、心細くて物思いにふけっている時に、長女(ヲサメ・下女たちの長。中宮職の下仕えの者)が、手紙を持ってきました。
「中宮様から、宰相の君を通して、こっそりと賜ったお手紙です」
と言って、この私の家でまで人の目を気にしているのは、あまりに度が過ぎています。
「女房に代筆させての仰せ言ではないようだ」
と思うと、胸がどきどきして、急いで開けてみますと、紙には何も書いておらず、山吹の花びら、ただ一重(ヒトエ)をお包みになられている。(山吹は晩春のもので、この時の季節は秋であり、この頃の山吹の花は「返り咲きの花」といわれた)
それに、『いはで思ふぞ』(「心には下行く水のわきかへり言はで思ふぞ言ふにまされる」という、古今六帖からの引用)とお書きになっているのを拝見しますと、久しい間のお便りの途絶えが悲しかったことも、すべて慰められて嬉しく、そんな私の様子を長女も見つめていて、
「中宮様には、どれほど、何かにつけてあなたのことを思い出してお口にされているそうでございますのに。誰もが『納得のいかない長い宿下がりだ』と言っているそうですよ。どうして、参上なさらないのですか」
と言ったあとで、
「この先の所まで、ちょっと出掛けましてから、お伺いします」
と言って出ていったあと、ご返事を書いて差し上げようとしたのですが、先ほどの『いはで思ふぞ』のもとの歌を、さっぱり忘れてしまっていたのです。
「ほんとに変ねえ。同じ古歌とはいっても、こんな有名な歌を知らぬ人などあるかしら。もう、のどのところまで思い出しているのに、出てこないのは、どういうことかしら」
などと言っているのを聞いて、そばに座っている女の子が、
「『下行く水』と申すのですよ」
と言ったのですが、一体、どうしてこんなに忘れてしまっていたのでしょう。こんな子供に教えられるなんて、いやになってしまいます。
ご返事を差し上げてから、少し間をおいて参上しました時は、「どんなご様子か」と、いつもより気がひけてしまい、御几帳に半分隠れるようにして控えていましたのを、
「あれは、新参の者か」
などと、中宮様はお笑いになって、
「そなたの嫌いな歌なのだが、『この際には、ぴったりの歌だ』と思ったのよ。全然そなたの顔を見かけないのでは、少しの間も気が休まりそうもないのでね」
などと仰られて、以前と変わったご様子などありません。
童女に忘れていた歌を教えられたことを申し上げますと、たいそうお笑いになられて、
「そのようなことはあるものよ。あまりにも知り過ぎて馬鹿にしているような古い言葉などは、そのようなことがありそうね」
など仰せになられるついでに、昔話をなさって、
「なぞなぞ合わせをする時、方人(カタウド・左右に分かれた味方の人)ではないのですが、そのようなことに巧みな人が、『左方の一番手は、私が出題しよう。そのつもりでいて下さい』などと請け合うので、『まさか、下手な出題はされまい』と頼もしく嬉しく思い、人々皆がなぞなぞの問題を作り出し、それらを選んで決めていると、『一番の謎の問題は、私に任せてあけておきなさい。こう申すからには、決してつまらない問題ではありませんよ』と言います。
『もっともだ』と思っているうちに、行われる日が間近になりました。『やはり、その問題の中味を教えて下さい。万が一にも同じ問題が重なることもありますから』と言うのを、『じゃあ、もう知りませんよ。私を当てになさるな』と、機嫌を損ねるので、気がかりではあるがそのままで当日となり、なぞなぞ合わせを行う人たちが、男も女も左方右方に分かれて座につき、検分役の人なども大変大勢居並んで、いよいよ開始となると、例の左の一番を出題する人が、いかにも心中期するところがあり気に、もったいぶっている様子は、『いったいどんな問題を出すのだろう』と見えるので、味方の人も敵方の人も、皆が今か今かと見つめているうちに、『なぞ、なぞ』と問いかけるあたりは、大した貫禄です。
ところがね、『天に張り弓』と言ったのです。(三日月などの弓張月のこと。子供でも知っている問題)
右方の人は、『実に面白くなった』と勝を確信していますが、左方の人は、あっけに取られて、一同憎らしくて白けきってしまい、『 敵方に心を寄せていて、自分たちをわざと負けさせようとしたんだな』などと、しばらく疑っていると、右方の一番の人が、『実に悔しい、なんて馬鹿なんだろう』と笑って、『これはこれは、全然わからないな』と言って、口をへの字に曲げて、『そんな問題は聞いたことがない』と、猿楽のようにおどけ始めた途端、かずを刺させました。(歌合や物合などで、一番ごとの勝を記録するため竹の串を刺した)
『それはけしからぬ。このようななぞを知らない者がどこにいるか。勝を取られるわけなどない』と抗議しましたが、『知らないといったからには、どうして負けたことにならぬというのか』と言って、二番以後の勝負も、この人がね、全部弁じたてて勝たせたそうなのです。よく人々が知っている言葉でも、思い出さない時は、知らないということになってしまうのでしょうが、『どういうわけで、知らないなんて言ったのだ』と、後で右方の一番の人はお仲間に恨まれたそうよ」
などと、お話されましたので、御前に伺候している女房たちはみな、
「それはそう思ったことでしょう。なんて、まずい答えをしたのでしょう」
「左方の人々の心中は、最初少しだけ聞いた時には、どんなに憎らしかったことでしょう」
などと笑う。
このお話は、忘れたことなものですか、「いはで思ふぞ」などは、誰でも知っている言葉なので、おとぼけなのでしょう、と言う中宮様のお気持ちなのでしょうか。
この章段も、とても重要な意味を持っています。
中宮定子の父道隆の死去により、定子を取り巻く勢力は一気に力を落とし、定子の兄など周辺の人々が左遷追放される大事件が起き、定子自身も謹慎状態になっていました。
その中で、少納言さまは、今や日の出の勢いの道長と親しかったため、定子付きの女房たちから何かと疑いの目で見られ、いや気がさしたのでしょう、宿下がりをしてしまいました。
本段は、そのような、少納言さまが敬愛してやまない定子にとっても、また少納言さま自身にとっても大変辛い時期の記録なのです。
なお、最終の部分ですが、中宮の話の意図を、誰でも知っている『いはで思ふぞ』の上の句を少納言さまが忘れていたということを、「そんなはずがない、おとぼけでしょう」とからかったのか、「この話のように、本当は知っているはず」と言うことを周りの女房たちに聞かせようとしたのか、少納言さまも真意を掴みかねているようです。
私は、後者として受け取りました。