雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

鬼が行く ・ 今昔物語 ( 28 - 35 )

2020-01-03 08:55:16 | 今昔物語拾い読み ・ その7

          鬼が行く ・ 今昔物語 ( 28 - 35 )


今は昔、
後一条院の天皇(ゴイチジョウノインノテンノウ・第六十八代後一条天皇のこと。)の御代に、殿上人や蔵人たちのあらん限りを集めて、左右に分かれて種合せ(クサアワセ・もともとは「草合せ」で草花の美しさを競った遊びだが、転じて、細工物や出し物の優劣を競う催しとなった。)が催されたことがあった。
二人の蔵人頭(クロウドノトウ・蔵人所の長官。四位の殿上人。一人は弁官(文官)から、一人は左右近衛中将から選任し、前者を頭の弁、後者を頭の中将と称した。)を左右の長として、双方名前を書き分けた。
その時の蔵人頭は、左は頭の弁藤原重尹(シゲタダ・後に、従二位、大宰権帥)、右は頭の中将源顕基(アキモト・天皇崩御と共に出家している。)朝臣である。このように書き分けしてからは、互いに激しく対抗心を燃やした。そして、日を定めて、北野の右近の馬場で開催することを約束した。

さて、それぞれに属する者たちは、各々が世の中に有り難い珍品を得ようと、諸宮・諸院、寺々、国々、京、田舎も含め、手を回し、精魂をすり減らして、夢中になって探し求める様子は、尋常ではなかった。
殿上人や蔵人だけでなく、蔵人所の衆(シュウ・五、六位の職員)、出納(シュツノウ・出納を主管する職員)、小舎人(コドネリ・雑役にあたる役人)にいたるまで左右に分けられていたので、それらの者たちも皆前世からの敵同士のように、出会っても口も利かない状態であった。いわんや、殿上人や蔵人は兄弟や親しい人であっても左右に分かれたからには、その対抗心の激しさは想像を超えるほどである。

こうしているうちに、いつしかその日となり、双方が右近の馬場の大臣屋(オトドヤ・馬場で催しがある時に設けられる臨時の観覧所。公卿、殿上人の座所となる。)に出かけて行った。殿上人は立派な直衣(ノウシ・貴人の平服)姿で、車を連ねて、集会所からやって来る。集会所はかねてより決められているので、それぞれ前夜のうちに集まっていた。そこから大臣屋へ向かう様子は表現できないほどすばらしい。
大臣屋の前は、柵から東に南北に向き合って東西に長く錦の平屋(錦の幕を用いて天井を平たく張り渡した仮屋。「平張」とも。)を立て、同じように錦の幕を引き廻らし、その中に種合せの品々をすべて取り置いてある。出納や小舎人などが平張の中で、それらを管理していた。
殿上人は、大臣屋の真ん中に仕切りを作り、左方は南に、右方は北に分かれて全員が着座した。蔵人所の衆や滝口の侍(蔵人所に属し宮中の警備にあたった武士。)も皆左右に分かれて座った。
柵から西には、それも南北に向き合って、勝ち負けの舞をするために錦の平張を立て、その中に楽器を揃え、舞人や樂人たちがそれぞれ座っている。
その辺りには、京中の上中下の者が、見物のために市を成している。女車は立てる場所もない。その中に、関白殿(藤原頼通)はお忍びで、車を女車のようにしつらえて、柵より東の、左方の控え所の西のわきに止めてご覧になっておられる。

やがて、その時刻になると、大臣屋の前において、順々に座を敷いて、口が達者でしゃれたことを言える者を双方が連れてきて、その座に向かい合わせに座らせた。
一番ごとの勝負を数える道具の細工には、財を尽くして金銀で飾り立てている。そして、計算係が座に着くと、さっそく品物を合わ、互いに勝ったり負けたりする間、言葉を尽くして論争することが多い。
半ばを過ぎる頃になると、左方より当時御随身(ミズイジン・貴人の警護などに随従する近衛府の武官。)として最盛期にあった近衛舎人下野公忠(シモツケノキンタダ・騎馬の名手とされるが、身分は低かった。)に、左方の競馬(クラベウマ・左右近衛府の対抗で技を競った。)のすばらしい装束を着けさせ、何ともすばらしい駿馬に見事な平文の移(ヒョウモンノウツシ・平らにした蒔絵を施した鞍。移は移し鞍のことで、公用で使われていた鞍の一種。)を置き、それに乗せて、左方の控え屋の南から馬場に打って出てきた。まことにすばらしく、これを見た人々は感嘆の声を挙げた。

公忠は、柵の内を一回りし、鞭を取り直して立っていると、右方の控え屋から打って出た者がいた。
見れば、老いぼれた法師に貧相なひしゃげた冠を着けさせ、犬の耳が垂れたような老懸(オイカケ・武官の冠の両側に付けた扇形状の飾り。)をさせて、右方の競馬の装束の古ぼけて薄汚れた物を着せ、枯鮭(カラザケ・内臓を取って無塩で乾した鮭。)を太刀に佩かせ、その装束もだらしなく腰の辺りまでずり下げ、袴は足先まで膨らませて、抹額(モコウ・冠などの上から締める鉢巻き。)も猿楽のような物をつけ、女牛に結鞍(ユイクラ・二本の木を結い合わせて作った粗末な鞍。)というものを置いて、それに老法師を乗せて出てきた。
公忠はこれを見て、大いに怒り、「わけも分からない殿ばらの言われることに従って、とんでもない恥をかいてしまった」と言って、さっさと引っ込んでしまった。
すると、公忠が怒って引っ込むのを見て、右方の者は手を叩いて大声で笑った。まるで、相撲で負けて引っ込むのを見て笑うのと同様であった。そして、笑うと同時に、右方では、乱声(ランジョウ・舞楽の前奏)を鳴らし、落蹲(ラクソン・雅楽で、二人舞のナソリを一人で舞う時の呼称。)を演奏して舞い出した。

もともと勝負の後で舞が行われる予定で、左方でも陵王の舞を準備していたが、まだ勝負がついていないのに、このように落蹲を出したので、左方では、「これはどうしたことだ」などと言い合っていると、女車の体裁でお忍びでご覧になっていた関白殿は、このように落蹲が出てきたのを、「けしからん」と思われて、すぐに人を召して、「あの落蹲の舞人を必ず捕らえよ」と大声で命じられた。
これを聞くや、落蹲の舞人は踊るようにして中に入り、装束も解かず、あわてふためいて逃げ、馬に乗って西の大宮大路を南に向かって必死に馬を走らせた。
その舞人というのは、多好茂(オオノヨシモチ・同名人物いるが時代が合わない。)であった。「面を取ったら、人に見られてしまう」と思ったので、面をつけたまま、馬を走らせたが、申の時(サルノトキ)のことなので、大路で出会った人は、「あれを見よ、鬼が昼の日中に馬に乗って行くぞ」と大騒ぎし、幼い者などはこれを見て恐れおののき、「本当の鬼だ」と思ったらしく、病気になってしまった者もあった。

さて、関白殿は、「まだ勝負も決まっていないうちに、落蹲が出たことを中止させよう」と思われて、「捕らえよ」と仰せられたのである。本気で捕らえようとされたわけではないが、「捕らえよ」と仰せられる声を聞いて、逃げ出したのも無理からぬことである。
その後、好茂は不興を蒙って、長らく朝廷に出仕しなかった。また、関白殿は、頭の中将はじめ右方の人々を快く思わなかった。そのため、右方の人たちは、「左方をひいきしている」と言って、関白殿をお恨みした。
これは、公忠が関白殿の御随身だったからではないかと、世間の人は想像した。
このように、事が中途半端になってしまったので、左右双方の人も皆が苦々しくなり、勝負は取りやめになった。そうした中で、落蹲の舞人が面をつけたまま馬を飛ばして逃げたことは、世間で笑われることになった。

されば、このような勝負のいざこざは、昔から必ず起こることだ、
となむ語り伝へたるとや。

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