第二章 戦国武将たちの『ラスト・テンイヤーズ』 ( 3 )
( 二 )
わが国の歴史において、彗星のごとく出現したり人並み外れた強運を背負っていたと思われる人物は少なくありません。
それぞれの時代には、一つの時代を築き上げたり一つのドラマを演じたりした人物たちがちりばめられています。
そもそも、数百年を超えるような時を経て、今なお私たちに伝えられているような人物は、多かれ少なかれ奇跡的な体験をしているようです。
その人物がたとえ悲劇の主人公だとしても、そこに至るまでには人智を超えるような幸運に遭遇しているように思われます。
それらの人物たちの中で、最も華やかでスケールの大きい活躍を見せた人物となれば、やはり豊臣秀吉ではないでしょうか。
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豊臣秀吉は、天文六年 (1537) に誕生したとされています。
信長の三歳下、盟友となる前田利家の一歳上 (同年という説もある) です。
その生い立ちや少年期のことについて様々な逸話が伝えられていますが、殆んどが信用できる資料に基づいたものではないようです。
例えば、少年日吉丸 (秀吉) が矢作川の橋の上で菰を被って寝ているところに、夜盗の頭である蜂須賀小六が通りかかり劇的な出会いとなる、という有名な話がありますが、これなども後世の創作なのです。なぜなら、当時の矢作川に橋は架かっていなかったそうなのです。
生い立ちについても、貧しい農民の子として生まれ、幼い頃に寺の小僧に出されるも、そこを逃げ出して行商などをしながら旅をし、やがて今川家家臣の松下家に奉公したというのが定説のようになっていますが、これも、そのようなこともあったのかもしれないし、いつの間にか事実らしく伝えられてきたものなのか、資料的にははっきりしないことのようです。
生家についても、貧しい農民だったとされていますが、実は豪農だったとか、特殊な勢力を持つ集団の出身者だったという研究者もいるようです。
ただ、天子様の落胤だった、というのはあまりにも無理のある説のようです。
いずれにしても、由緒正しいというほどの家柄でないことだけは確かなようですが、後に、生母や兄弟や甥姪などが秀吉の周囲に登場してきていますので、尾張中村に土着した農民で、周囲には親族もおり、時には戦に駆り出されたり、むしろ積極的に加わっていたのかもしれません。
この頃は、下級武士と農民との間には厳密な区別などなかったと考えられます。
秀吉が信長に仕えたのは、天文二十三年、十八歳の頃です。
この少し前から生駒家に出入りしていて、出仕の機会を掴んだようです。生駒家は油などを扱う商人ですが、浪人や行商人などを食客として抱えていました。様々な情報を得たり、時には用心棒の役目をさせたり、戦闘要員として働かせたりする有力者でした。
秀吉もここに流れ着いて居候していたのでしょう。
信長は生駒家の吉乃という女性のもとに通っていました。
秀吉はこの女性の口利きで信長に奉公できたらしいのですが、生駒家の娘と居候の秀吉がどう結びついたのか正確なことは分かりませんが、持ち前の機知を働かせて自分を売り込んだのでしょう。
他にも、前野将右衛門や蜂須賀小六とも親しくなったようですが、駆け出し時代の秀吉にとって掛け替えのない味方を手に入れているのです。
前野家は輸送業務を家業とし、蜂須賀家は人足の手配などをするのが家業で、生駒家の商売にかかわっていたのです。この二人も、家業の傍ら合戦があれば出入りの人足や木曽川の船頭たちをまとめて、有利な方に加わったりする野武士軍団の大将でした。
こうして信長に仕えるようになりましたが、最初は小者としてで、武士というより使い走りの奉公人といった身分だったようです。
しかし秀吉は、持ち前の才覚と努力を積み重ねて順調に出世していきました。足軽になり、足軽組頭、足軽大将とスピード出世を果たしていきますが、実は、秀吉が、正しくは木下藤吉郎が確実な資料に登場するのは、二十九歳の頃なのです。
信長発行の安堵状の中に署名があるのが最初で、この頃には武士としてそこそこの地位まで昇っていたことが分かるのですが、奉公してからの十年程は下積みの苦労をしたようで、このあたりまでは我々凡人と大差ない宮仕えだったようです。
永禄四年 (1561) 浅野長勝の養女ねねと結婚。秀吉二十五歳、ねねは十四歳でした。出来すぎた話のようにも思うのですが、仲人は前田利家夫妻だったとも伝えられています。
利家は信長の勘気を受け浪人していましたが、この年に帰参が叶い妻子ともども清州の侍屋敷に移り住んでいました。
秀吉と利家は、この頃隣り合わせに住むようになり家族ぐるみの交際が始まったらしいのです。ただ、足軽長屋で隣り合って貧しい生活を助けあったというのは事実でないように思われます。
結婚当時、秀吉がどの程度の地位にいたのか確認できないのですが、利家は帰参とともに四百五十貫文を受け近習に取り立てられていますので、住居が足軽長屋ということはあり得ません。
四百五十貫文という知行は、石高に直せば千石以上になると考えられ、中堅以上の武士という身分なのです。もしかすると、すでに秀吉も利家に近い知行を受けていて、侍屋敷で隣接していたのかもしれません。
信長が斎藤竜興が領有する稲葉山城を攻略し、この地を岐阜と改め天下布武に踏み出したのが永禄十年、秀吉三十一歳の時です。
すでに一部隊を任される地位に立っていました。
ここに至るまでの活躍振りも数多く伝えられています。
例えば、秀吉の初陣は信長が外戚と戦うものでしたが、敵対する二つの城を説得で開城させたという話が残っています。
清州城の塀の修理を請負制で競わせ短期間に完成させたとか、薪奉行の時に費用を大幅に削減させたとか…。
その中でも最も有名なのは、墨俣一夜城建設の活躍でしょう。
これら数多く残されている逸話には共通点があります。
それは、いわゆる武者働きというものがないことです。機知や計略や説得力が存分に発揮されたというものばかりで、利家とは全く対照的な働きぶりといえます。
しかし、秀吉の働きを口先ばかりと評するのはとんでもないことで、どの場面でも身体を張り武者働き以上に命を懸けているのです。
さらに、秀吉の活躍を可能にしたのには前野・蜂須賀など木曽川の川並衆の協力が大きかったのですが、日頃からの物心両面での信頼があったからこそだと思うのです。
秀吉の活躍は、単なる幸運などとは全く異質のものなのです。
信長が天下布武に大きく踏み出すとともに、敵対する勢力との戦いは激しさを増していきました。戦いの規模も、尾張国内での勢力争いなどとは桁違いの大きさに広がっていきました。
一人の豪傑や勇猛な武者だけでは勝敗の決まらない戦いに変わっていきました。秀吉の活躍の舞台がますます広がってきたのです。
元亀元年 (1570) 四月末、朝倉氏攻略に向かっていた織田軍は、浅井長政の謀反にあい窮地に陥りました。「金ヶ崎の退き口陣」と呼ばれる信長の生涯で最も苦しい戦陣の一つとされているものです。
信長は数人を従えただけで京都に逃れ、残された大軍を退却させるにあたり最も危険で難しい役割である殿軍を、自ら名乗り出て成功させたのが秀吉の部隊でした。
常に命を懸けて事にあたる秀吉の面目躍如たる場面ですが、この頃には一軍の将になっていたことが分かります。
秀吉三十四歳の頃のことでした。
この二か月後、姉川の合戦で織田・徳川の連合軍は浅井・朝倉軍を撃破し、三年後の天正元年八月には朝倉氏、続いて浅井氏を滅ぼしています。
秀吉は、この戦いの功により浅井氏の旧領を与えられ、翌年長浜城に入り十二万三千石の大名となったのです。三十八歳の時でした。
長浜城主となった秀吉は、直ちに城下を整備し、商人を集め、農民には荒れた田地の整備や開墾を督励するなど、領地の支配体制を固めていきました。
秀吉の才能がますます輝きを見せてきましたが、領地経営に専心する余裕などありません。信長を取り巻く状況は厳しさを増す一方だったからです。
信長の合戦の中で最も評判の悪いのは比叡山延暦寺の焼き討ちというのが定評のようですが、仏教勢力との戦いとしては、伊勢長島の一向一揆に対して「根切り」といわれる残虐な攻撃で二万人余りを焼き殺していますし、越前の一向一揆に対しても長島を上回る残虐な戦いをしています。
私たちは信長の宗教勢力虐殺という事象を、無抵抗な宗教者を虐殺したといった感覚で捉えがちですが、この考え方は正しくないように思われます。戦いの場では、武士勢力にせよ宗教勢力にせよ、残虐さにおいて大差などありません。
多くの場合、勝者の方が敗者より大勢の人を殺したというだけなのです。
信長の意を汲むことでは最も勝っていた秀吉は、宗教勢力や反対勢力に対する残虐行為にも率先して行動しています。
応仁の乱からすでに百年、日本全土に広がった戦乱を切り開いていく過程には、非道も残虐も避けられない手段なのかもしれないとさえ思われるのです。それは、何も信長や秀吉が特別なのではなく、時代を問わず、規模の大小を問わず、戦争にはそのような側面が存在しているのではないでしょうか。
天正十年六月二日未明、信長が本能寺にて自刃という大事件が発生します。
この本能寺の変が備中高松の秀吉のもとに伝えられたのは、翌三日の夜中でした。光秀から毛利へ事変を伝える間者を捕えたとも、京都の豪商により伝えられたともいわれていますが、丸二日経たないうちに事変を知った秀吉は、前者であれば幸運だったといえますし、後者であればその情報収集力の凄さが窺えます。
秀吉は対戦中の毛利勢と急ぎ講和を結び、京都に向かって疾風の如く駆け上ります。後に「中国大返し」と呼ばれる神業ともみえる怒涛のような行軍でした。
毛利との講和を実現させ、敵軍の動きを見極めたうえで六月六日に行軍を開始し、六月十三日には山崎の合戦で明智軍を打ち破ったのです。
六月二十七日には、清州城において織田家の家督相続と遺領の配分についての評議が行われました。
清州会議と呼ばれるこの会議に出席した宿老は、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興と秀吉の四人でした。この四人がどういう基準で選ばれたのか分かりませんが、実質的には、筆頭家老といえる勝家と明智を討った功労者である秀吉との対決の会議でした。
しかし会議は、信長の嫡孫である幼い三法師を家督相続者として立てた秀吉の思いのままのものになりました。
丹羽長秀と池田恒興は秀吉と伴に光秀と戦っており、おそらく事前の相談がなされていたと考えられますので、参戦しなかったという弱みのある勝家には、三人を相手に対等の交渉など無理なことでした。
秀吉と勝家は並び立つことなどできず、翌年四月に戦いとなります。世にいう賤ケ岳の戦いです。
この戦いに勝利した秀吉は、天下人へとまっしぐらに進んでいきました。
四十九歳で関白叙任。五十歳で太政大臣に任じられ豊臣の姓を賜ります。ついに、日吉丸と呼ばれて以来幾つもの名乗りを経て、ここに豊臣秀吉が完成したのです。
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