『 伊周の薨去 ・ 望月の宴 ( 130 ) 』
寛弘七年( 1010 )正月二十九日、前太宰帥正二位藤原朝臣伊周薨去。御年三十七歳であられた。
この姫君や少将(長子道雅)などは、決して望みをお捨てにならなかっただけに、ただ打ちのめされて、茫然となさっている。
ひたすらに、ご自分も死に後れまいと泣き惑われているが、その甲斐があるのではあればともかく、まことにお労しいことと申し上げるのも、通り一遍に過ぎる。
実際、こうしてお亡くなりになるような御年でもないものを、このようにあっけなくお亡くなりになってしまわれたのは、長年いくら何でもこのままでは終われないと、中関白家の再興を定子皇后所生の敦康親王を頼りとしてきたものを、彰子中宮に若宮、今宮と二人の皇子が、天に輝く日月の如く誕生なさったので、まったく打つ手がなくなり、今となっては「こういう定めだったのだ」と気落ちなさったためにご病気となり、御命を縮めてしまわれたのであろうか。
帥殿の君達(キンダチ・道雅)はもとよりのこと、中納言(隆家)や、頼親の内蔵頭(伊周の異母兄らしい。)、周頼の中務大輔(伊周の異母弟らしい。)などという人たちは、帥殿のご兄弟たちで、哀れに思いお嘆きである。
一品宮(イッポンノミヤ・脩子内親王)や一の宮(敦康親王)などのご様子も、その哀れなことは推察するにも余りある。
「ああ、何と痛ましい世の中であろうか。悲運の上にこのようにお亡くなりになってしまわれるとは」などと、人々は取沙汰している。
中納言は、いっそう世の中を憂きものとお思いになるにつけても、僧都の君(隆円。伊周の同母弟。)とお話し合いになりながら、やはり世を捨ててしまいたいとばかり申されている。
この辛い世の中に、今はただ、ご自分のことのみ考えたいご心境であるのに、いざ決断するにあたっては、遠資(トオヨリ・正四位兼資のこと。従三位参議源惟正の子。)の娘との間に生れた女君たちの哀れさを思うと、すべてを捨てることが出来ないのも哀れである。
権力の頂点で君臨した伊周の父藤原道隆が亡くなると、中関白家は没落の道へと向かいました。
一条天皇の深い愛情を受けていた定子中宮(後に皇后)も、そのわずか五年ばかり後に世を去りました、享年は二十四歳という若さでした。
そして今、一時は道長と覇権を争った伊周も、望みを絶たれて三十七歳で生涯を終えました。
道隆が没して、わずか十五年後のことで、浮き世とは申せ、今生の儚さを感じさせられる出来事でございました。
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