マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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白土のオショウライサン迎え

2012年10月21日 08時18分10秒 | 大和郡山市へ
白土町のオショウライサン迎えは時間を決めているわけでもないからまちまちだ。

しかも垣内によって迎えに行く場所が異なる。

お互いが確かめるわけでもないので尋ねる人によって時間は人知れず。

大人の念仏講中の一人であるU家が属する垣内が迎える地は白坂神社辺り。

とは云っても浄福寺近くの辻。

環濠水路が流れる辺りだ。

そこは先客があったようで、迎えられた2軒分の線香が残っていた。

U婦人はそこで線香に火を点けた。

5本の線香に火を点けて3本をその場に残す。

手を合わせて拝んだあとは、2本の線香を絶やさずに家まで持ち帰る。



一本はムエンサンに供えて、もう一本は先祖さんに灯す。

玄関前に設えたムエンサンは無縁のガキサン。

トーシいっぱいに敷いたハスの葉。

夏の野菜や果物を供えておく。

二段にしたナスビの薄切りにササギ(ササゲ)豆。

ローソクも立てる。一杯の湯呑茶碗にお茶を入れる。

ムエンさんが食べるようにと一膳の箸も添えておく。



もう一本の線香は阿弥陀さんを祀る仏壇だ。

大きなハスの葉が一枚。

そこにも二段にしたナスビの薄切りにササギ(ササゲ)豆。

同じように一膳の箸も添えた。

三つあるのは亡くなった父親、母親、おばあちゃんに捧げるお供え。

ほうじ茶も三杯。

先祖さんの数を揃える。



入れたお茶は一時間、或いは二時間おきに新しいお茶に入れ替える。

「古い方は人が歩かんところへ撒く」という場所は軒下辺りらしい。

この夜は息子たち家族も帰ってくる。

家族が揃えばみんなで西国三十三番のご詠歌を唱えるそうだ。

翌14日と15日には浄福寺の住職が参ってくれるという。

(H24. 8.13 EOS40D撮影)

矢田垣内の新仏の(アラ)タナ

2012年10月20日 08時32分26秒 | 大和郡山市へ
昭和30年生まれの当主は云った。

47年ぶりに設える新仏のタナ作り。

当時は小学五年生だった。

斎壇がどんなものかも覚えていない年齢だった。

仕方なく村の長老に教えてもらって作った斎壇は葬儀屋に頼むわけでもなく昔ながらの方法で設えたという。

直径が20cmぐらいもある太いモウソウチク。

自生の竹を切りだして丁寧に一つずつ作った。

それはお供えの台になった。

長めのものや短めの竹の台を斎壇に置く。

そこに供えた御供はリンゴ、キウイ、ナシ、ブドウ、スイカ、メロンなどの果物やカボチャ、御供モチも。

上から二段目には太いズイキがある。

斜めに切って立てた。

傍らにはサツマイモも供えた。

最上段に供えられた特殊な形状。

まるで樹木が林立するような姿である。

マキの枝木を一本、一本丁寧に植えた。

「植えた」という表現は当主の言葉。

稲苗に見立てて段々にした形であるという。

本数は数え切れないほどで、後方を高くするのだという。

材料を準備したのは11日から12日にかけて。

この日の朝に設えたという新仏のタナは見事に飾られて13日から15日まで祭られる。

お供えの膳は朝、昼、晩に置く。

朝は少しだが、昼晩は精進料理。

コーヤドーフ、シイタケ、ナンキンカボチャを煮たものを供える。

翌日の14日はゼンマイやアブラゲの煮ものを膳にするという。

この日の夕刻にはオショウライサンを迎えるが、初盆のときには一日早くするというから昨日のことだ。

家から出ていく際には藁で作った松明に火を点けて迎えに行く。

家の近くの辻に向かう。

そこで松明の火から遷した線香を持ち帰る。

「お参りに帰ってください」と申して線香火を消えないようにローロクに移し替える。

帰りの道中には家人が鉦を叩いて家族が迎える。

それから般若心経を三巻唱えたと話す。

般若心経はこの日の晩と14日の晩に三巻唱える。

14日の午前中はおじゅっさんが参ってくれる。

その夜は村の人が参ってくれて西国三十三番のご詠歌を唱えるそうだ。

オショウライサンを送るのは15日の夕刻

涼しくなった時間を見計らって家を出る。

ローソクの火を松明に点けて燃やす。

家族揃って辻まで出かける。

そこで線香に火を移して般若心経を三巻唱える。

鉦を叩くのは子供だと一連のお盆の行事を教わった。

(H24. 8.13 EOS40D撮影)

かつやのタレカツ

2012年10月19日 08時40分54秒 | 食事が主な周辺をお散歩
サービス券をもらっていた「かつや」。

今月初めにはチキンの「タレカツ」が販売されていた。

その幟が目に入るたびにお腹がぐうぐう。

一度は味見してみたいと思ってドアを開けた。

丼に盛られた「タレカツ」。

食欲をそそる香りがたまらない。

がっつり食べた一切れのチキンカツ。

分厚く大きいから一口では食べられない。

カツはサクサクのように、いやそうでもないような感触だ。

タレはソースでなく甘ダレ。

カツの下に隠れているご飯とともにがっつり。

タレはそれほどご飯に染み込んでいない。

うーん。



タレカツは4枚のチキンカツ。

なかなか減ってはくれない。

カラシがテーブルにあった。

それはどうなんだろうと半分になったところで食べてみた。

カラシはそれほど辛くはないが、味を引き出すのだろうか美味くなる。

チキンはムネ肉だろう。

もっさりしている。

できればモモ肉と思うが、カツ化には不向きかも知れない。

テーブルには漬けものも置いてあった。

トッピングして食べた。

ほどよい漬けものは割干大根漬の名称で小売されている。

290円。

食べよけあるタレカツに満足感。



支払いを済ませたらまたもやサービス券を手渡された。

(H24. 8.13 SB932SH撮影)

菅生の墓参り

2012年10月18日 06時45分40秒 | 山添村へ
7日は墓掃除。

県内東部の山間部ではいずこもそうだが、昨今は集まりやすい日曜日に移すことも珍しくない。

山添村の菅生では5日にされていた。

奇麗になった墓地に参る人々。

朝早くから参った人が供えていった御供。

洗い米や薄切りしたキュウリ、ナス、カボチャも供える。

供えているのは一枚のカキの葉。

表面に置いている。

傍には線香もある。

太い竹に花飾り。

竹は花立てだというから毎年作り替える家もある。

先祖さんに供えた御供にシキビとお花。

実家に戻った人はお寺の墓に参って先祖供養。

次から次へとやってくる。

新盆を迎えた親戚筋もおられたのであろう。

墓参りは午前中に済ませんという。

参るお寺は無住寺の蓮照院。

嘉永七年(1854)の頃は観音寺の末寺であったようだ。

同寺には文明十一年(1479)の建之された光背地蔵菩薩立像と大永八年(1528)建之の光背地蔵菩薩立像がある。

山添村の文化財に指定されている地蔵立像だ。



そこにもカキの葉に乗せた御供と花飾りをしている。

村人の心遣いであろう。

菅生には四つのお寺があるとN氏は話す。

一つは蓮照院で、他にはニシナンサン(西南寺)、ナカナンジ(中南寺)、シモンドだ。

シモンドは村の下の入り口付近に祀られているから下の堂を書いてシモンドと呼ぶ。

そこには立て札があった。

時代的には室町期前半の舟形光背をもつ地蔵菩薩立像。

ギザギザの髪際線が鋸歯状とする特徴をもつ「被帽地蔵」だそうだが、お堂の扉が閉まっているので拝見できない。

それぞれの地区ごとにあるお寺やお堂に参る各垣内の人。

大垣内に氏神さんを祀る十二社神社にもお寺があったそうだ。

それを移したのがどうやら蓮照院のようだ。

各垣内の墓参りは14日にするというから蓮照院に供えていたのは新盆の親戚筋であろう。

(H24. 8.13 EOS40D撮影)

菅生の新盆(タナ)参り

2012年10月17日 06時50分26秒 | 山添村へ
山添村菅生で行われる初盆のN家。

地区では2軒の新盆があった。

いずれもガキダナのカンゴを設えていたN家の親戚筋だ。

両家で行われる新盆のお参りは同一時間帯。

以前は夕刻であったそうだが今回は午後の時間帯。

ご紹介をいただいて新仏を祀るタナを拝見する。

座敷の廊下に設えたタナはヒノキの葉(ヒワダ)で覆っている。

それはイケガキ(生垣)だと話す当主。

竹は新しい竹で作った。

古い竹は「こわけて(砕ける)しまう」と云って柔らかい新竹を用いる。

位牌や遺影を中央に置いたタナの膳。

オハギ、ゴハン、煮もの、汁椀などを供える。



その間にはハシゴを掛けている。

回数に限りはないが、供えたお茶が古くなれば捨てて新しいお茶に入れ替える。

掛軸を掲げる家もあるというが当家にはそれが見当たらない。

家のあり方は様々だが、ウチワ(身内)とされる親戚筋が集まったところで長老が念仏を唱えるそうだ。

鉦を叩いて唱える念仏は十三仏。

おそらく「南無大聖不動明王、釈迦牟尼仏、文殊大菩薩、普賢大菩薩、地蔵大菩薩、弥勒大菩薩、薬師瑠璃光如来、観世音菩薩、勢至大菩薩、阿弥陀如来、阿閦如来、大日如来、虚蔵大菩薩、大師遍照金剛、遍照・・・南無阿弥陀仏・・・」を唱える十三仏念仏であろう。

昨年のお盆以降に亡くなられた家人の祭りごとである。

7日の盆入りには春日の地の不動院住職に念仏をしてもらった。

イケガキは親父さんのやり方を見習って作ったそうだ。

(H24. 8.13 EOS40D撮影)

菅生ガキダナのカンゴ

2012年10月16日 06時47分19秒 | 山添村へ
毎年の8月13日には前庭にガキダナを設える山添村菅生のN氏。

例年ならその日に造るのだが、この年の昼には新盆を迎えた親戚筋にあたる地区の家に参らなければならない。

そうした事情で前日に造られたガキダナ。

カンゴ(竹編籠)を逆さに置いて、その周りに葉付き竹を挿す。

四方に挿した竹をカンゴの真上辺りで縛る。

その形は一種のオカリヤのように見える。

今年はさらに葉付きの竹を二本も立てた。

飾りのようなものだと云う。

ガキダナのカンゴの前には三本の細竹を挿しておく。

一つは線香立てで二本は花立てだという。

この日の晩にはオチツキダンゴを供えるそうだ。

(H24. 8.13 EOS40D撮影)

愛しの甲斐バンドin薬師寺

2012年10月15日 07時44分16秒 | メモしとこっ!
ラジオで伝えていた音楽祭。

薬師寺で催されると発信していたバンドは甲斐バンドだ。

そのことをかーさんに話せば行きたいと申す。

我が家は二人とも甲斐バンドのファン。

若い時には大阪城ホールでコンサート公演された甲斐バンドを聞きに行ったことがある。

レコードアルバムを繰り返し、繰り返し聞いていた奈良に転居した間もないころだ。

いっぺん生で見聞きしたいと申し出たかーさん。

願いが叶って出かけた大阪城ホール。

記憶によれば田中一郎さんが初参戦された直後だったと思う。

座って聞いていたが、いつしかスタンドアップ。

心地よい曲に思わず立って手拍子する。

資料によれば1986年(昭和61年)の6月18日。

それは6回目だそうだ。

大阪城ホールのコンサートは1984年(昭和59年)12月もある。

大阪城ホールが開業したのは1983年(昭和58年)10月。

開業直後の12月に初のロックコンサートをしたのが甲斐バンドというからこれかもしれない。

何十年も前からファンであるから奈良にやってくるなんて夢のようだ。

チケットを購入しといてと云われてネットを探した。

3千円なら絶対行くと云っていたが、8千円だった。

二人で一万六千円。

家庭を圧迫する料金では手がでない。

薬師寺は歩いてでもいける距離だ。

夕涼みを兼ねてでかけた。

正面辺りには誰もいない。

車の縦列もない。

音も聞こえない。

ほんまにこの日なんだろうかと思って裏手に回った。

池の傍だ。

そこから漏れる楽曲。

甲斐バンドの生声(尤もマイクを通してだが)に思わず立ち止まる。

大音響がその場に零れていた。

夕陽も落ちたが外気はまだまだ夏盛り。

持っていたウチワで調子をとる。

自然にでてくる楽曲の歌詞に○○だよねと相づちをうつ。

目の前を通り抜ける人たちがいる。

もっと聞きやすい場所にと思ってだろう。

同じように零れる楽曲を楽しむ人たちがいたことにほっとする。

この夜のコンサートは後日にBSで放送された。

見られなかった映像をリビング音声で楽しんだ。

曲は1.破れたハートを売り物に、2.翼あるもの、3.フェアリー(完全犯罪)、4.きんぽうげ、5.裏切りの街角、6.シーズン、7.ビューテイフル・エネルギー、8.BLUE LETTER、9.安奈、10.嵐の季節、11.氷のくちびる、12.ポップコーンをほおばって、13.漂泊者(アウトロー)、14.HERO(ヒーローになる時それは今)、15.ダイナマイトが150屯、16.100万$ナイトだった。

放送時間の関係で数曲が落ちていたようだが覚えていない。

最後の夜汽車、テレフォンノイローゼ、吟遊詩人の唄、バス通りは歌われたのであろうか。

(H24. 8.12 記)

和田町天神社風の祈祷

2012年10月14日 06時38分38秒 | 奈良市(東部)へ
14時からは村の寄合をしている奈良市和田町の集会所。

25軒の人たちが集まった。

来月に行われるイセキで食するパック料理の数を確認するなど村の議事を進行する。

会式が訛ってイセキと呼ばれる行事に盆踊りがつきものだった。

その多くは東山中の村々で行われていたと各地で聞く。

エシキ(会式)がイシキ(稀にそう呼ぶ地域もある)となって、やがてイセキと訛った。

と、考えられるが、いつしか村中の人たちが楽しみにしていた盆踊りは各地から消えていった。

それはともかく、諸行事日程の議事を終えた村人たちは会所を出る。

これから始まるのは天神社の風の祈祷だ。



お参りする前に裸足になった村人たち。

手水で洗い清めて境内にあがっていく。

境内中央にサカキを立てている。

そこを中心に本殿まで歩く村人たち。

本殿に手を合わせてくるりと向きをかえる。

そうして時計回りにぐるぐる、ぐるぐる回る。



社務所にある太鼓を長老が打ってドン、ドン、ドン・・ドン、ドン、ドン・・。

打ち終えるまでサカキ周りを黙々と裸足姿でぐるぐる、ぐるぐる回る。

その間およそ10分。

裸足で歩くだけにゆっくりと歩む。



太鼓の音が鳴りやむまで続けられる作法は風の祈祷。

村の豊作を祈願するとともに村人にご利益を授けてくれるそうだ。

かつては「デーン デーン デーン(田原の里の史料によればデーンデーンデンデコデン)」と云いながら太鼓の音に合わせながら周回していたと、後日に訪れたときにN氏が話していた。

稲の収穫前、台風がやって来ないよう、大風で農作物が被害に遭わないように祈る風の祈祷を行っている地域が県内東部山間に点在する。

和田町と同じように境内を回る作法を行っている奈良市長谷町の日吉神社上深川の八柱神社別所町のカイトノモリ・金刀比羅神社、山添村切幡の神明神社がある。

また、ローソクを百灯明のように火を灯す作法もある。

風に煽られて火が消えれば再び点ける。

消える、点けるの繰り返し作法が見られるのは天理市苣原町の惣社九頭神社下仁興の九頭神社・上仁興の四社神社、藤井町の三十八神社、福住町の闘鶏氷室神社、桜井市の修理枝(しゅりえだ)の八王子神社瀧倉の瀧ノ蔵神社である。

他にも清流の川原から持ってきた小石を神社に並べるオコリトリの作法もある。

各地域で行われている風の祈祷のあり方は様々である。

(H24. 8.12 EOS40D撮影)

お盆の行列

2012年10月13日 06時48分58秒 | あれこれテイクアウト
お盆行事の取材ばかりが続く毎日。

我が家にとってもお盆を迎える。

小泉町にある産直市場の「よってって」で買ってきた仏さんのお花。

ここは安いと知っていたので前日に買っておいた。

できる限り早く出かけたいと思って8時半には家を出た。

時間は余裕をもって出たから第二阪奈道路を使わずに無料の阪奈道路を走った。

車はすいすい走っていく。

義母のお骨を納めている石切の墓地に参ったあとはおおばあさんの墓地へ。

東大阪市額田町の妙徳禅寺だ。

元々は大阪市内の福島にあった。

江戸時代に安置された五百羅漢さんがある。

彼岸のときも墓参りをするが、お盆のときの墓参りは何年振りだろうか。

最近、目につくお寺の表記に「お供えはカラスが来るから持って帰ってください」がある。

大阪でも奈良でも目につく時代になった。

おおばあさんは平成二年三月十四日に92歳で亡くなった。

お墓に眠っているのはおおばあさんのそのまたおおばあさん。

幼児期に抱かれていた写真が残っている。

生家は大阪市内の呉服屋の娘だった。

戦時中に焼夷弾が落とされて屋敷がなくなったと聞いている。

大阪大空襲のときだった。

おおばあさんの仏壇はおふくろの家にある。

毎日なんやかやとお供えして手を合わしている。

甘いもんやおかずなどのお供え。

お下がりを食べてしまうから糖尿病のけがあるから最近は作った料理を供えていると云う。

おかげさんで血糖値も下がったと電話してきた。

おおばあさんのおかげやと話す。

いずれは私もここに入るのだろう。

そのときにはお墓も建て替えなきゃならんだろう。

お花を飾って線香を立てる。

二人で手を合わせてお盆を済ませる。

両墓地ともお供えは持ち帰りの札が立ってある。

どこともそういうわけでお供えは見られない。

帰りも阪奈道路を利用する。

ところがだ、竜間辺りから渋滞に巻き込まれた。

車のラッシュは生駒霊園へ向かう車だ。

なかなか前へは進まない。

生駒山登山口の信号を抜けると再びすいすい。

その間、およそ30分もかかった。

ラッシュはなにも奈良行きだけではない。

大阪に向かう車も多い。

多いどころか数倍である。

その信号から生駒の俵口まで延年と連なる車の数珠つなぎだ。

お盆の墓参りを午前中に済ませたい車で阪奈道路は溢れている。

早めに出かけたことは正解だった。

帰りに寄った大紀水産。



国道24号線の柏木町にある。

お店からはときおりサービス券が付くキャンペーン便りが届く。

ありがたい500円券だが、今回は1000円券だった。

こんな便りは嬉しく思っていつもより踏ん張った。

目指すは特上のにぎり盛り合わせ千円。

ワンパックだけ購入するわけにもいかず、500円の特上ちらしや380円の海鮮ミックス巻も買った。

ポイントも付く大紀水産のお買いものはお盆のお客で行列ができている。



持ち帰って食べた特上のにぎり。

これはいかんと思ったネタがカズノコ。

好きな人にはいいんだが我が家は受け付けない。

無理やり食べたがちっとも美味しくない。



美味いのはちらし寿司の方だ。

ぱっと見いはそれほどでもないが、なんのなんのだ。

これは美味い。

いつも手ごろな値段のにぎり盛りよりも美味いんじゃないのと思った特上ちらし。

次回からはこれに決めた。



ついでに買った海鮮ミックス巻。

これも美味い。ときおり買うトライアルの海鮮巻きといい勝負になるだろう。

(H24. 8.12 SB932SH撮影)

苣原大念寺施餓鬼

2012年10月12日 06時40分15秒 | 天理市へ
幾度となく訪れる天理市苣原。

1月のケイチンを始めとして、3月の念仏講、7月の大般若、8月の念仏講の数珠繰り、9月の如来さん御回在、11月の十夜の法要などだ。

この日は大念寺で施餓鬼をされると聞いていたので訪問した。

本堂前に設えたのは「外棚(そとだな)」。

檀家の人たちが朝早く採ってきた笹竹を四方に組んで斎壇を設ける。

そこには高さ70cmほどの古い位牌のようなものが置かれる。

「無塵法界凡聖斎圓」らしき文字を判読できたが「何なのか判らん(ねん)」と檀家たちは云う。

外棚をこの日の法要を営む福住西念寺の住職が云うには「ガキンドサン」である。

そこには4枚の白い布の幡(ハタ)。

「一切唯心告知」、「三世一切佛」、「應觀法界性」、「若人欲了知」とある。

これらは平成元年に大念寺什物として作られた外棚の幡だ。

今でも使っている明治24年製作の西念寺の幡をモデルに作ってもらったという。

外棚は「無塵法界凡聖斎圓」牌の他に施餓鬼の幡を立てた盛り飯。

いわゆる仏飯やツルカメの燭台、御供のカボチャ、線香などを供える。

餓鬼に施す供養だと話す。

本堂では外に向けた斎壇を組む。

その間上には天井から吊るした何本かの幡。

「南無妙色身如来」、「南無寶勝如来」、「南無十方法界常住佛」、「南無十方法界常住法」、「南無十方法界常住僧」、「南無大慈観世音菩薩」、「南無大慈比蔵王菩薩」などがあった。



本堂に登った檀家総代らと向かい側に新盆を迎える親族。

施餓鬼の法要には先祖代々の供養や塔婆追善供養などの法要を営まれる。

「なんまんだぶ なんまんだぶー」と弔う法要に焼香される喪服姿の親族ら。

塔婆にシキビの葉を水に浸して塔婆をなでるようにつける。

新盆の供養に手を合わせて参る。

住職が話すには、香で焼香するのではなく「水焼香」だと云う。

大念寺過去帳一切を詠みあげて「さんまんだぶー」。

「なまんだぶつー なまんだぶつー なむあみだー なーむあみだぶつー」と唱えて寺施餓鬼を終えた。

(H24. 8.11 EOS40D撮影)

話しは大きくそれるが静岡県の有東木(うとおぎ;うろぎが訛った)で行われている盆行事に話題を繋げる。

家のお盆に供えられるナスビの午がある。

採ってきたクルミの実を午の背に乗せる。

鞍に見立てたクルミの実である。

その上にはソーメンも。

それは手綱だと紹介される。

編んだマコモを敷いた上に置く。

いわゆる先祖さんに祀るオショウウライダナ。

有東木のお盆のあり様だ。

その夜は東雲寺の境内で踊られる盆踊り。

400年も受け継がれた踊りは国の重要無形民俗文化財に指定されている。

踊りは男性方の踊りと女性方の踊りがある。

男踊りと女踊りは交わることなく相互に踊る。

先祖のために踊る盆踊りはどことなく十津川の大踊りと似てはいるが、長刀で悪霊を切るあの世に追い出すという踊りもある。

8月14日の迎え盆はサイの目にきったナスやキュウリをお墓に供える。

洗った米は墓石に撒く。

その日はお寺で施食会(せじきえ)。

施餓鬼会と同じように施餓鬼幡を天井から吊るしている。

会式を終えればその幡を引きむしり取って家に持ち帰る村人たち。

この幡を畑に挿しておけば虫除けになるという。

野菜を食べる虫が来ないという言い伝えである。

この映像を見て思い出したのが山梨県甲府出身のご婦人。

送迎者の一人であるTさんが語った故郷の風習。

甲府では施餓鬼の幡を参った人が貰って帰って、ダイコンの葉が虫にくわれんようにと畑に立てると話していた。

まさにその様相である。

描きだしていた放送はBSジャパンの「にっぽん原風景紀行」の一編。

日本各地で行われている行事や風習が紹介されているので楽しみにしている。

(H24. 8.11 EOS40D撮影)