マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

白土の大人の念仏講

2012年10月11日 06時45分40秒 | 大和郡山市へ
夜8時、子供の念仏講が行われた浄福寺の山門前に集まってくる男性たちは大人の念仏講である。

子供の念仏講とは別に組織されている大人の念仏講は、三つの組で組織されている。

かつては子供の念仏講と同じように7日から14日まで毎日行われていたという。

「子どものころだったから、随分と前のことだ」と話す講中のU氏。

「20年ぐらい前までは、子供の念仏講と同じように7日から毎日していた」とT婦人はオンドサンを勤めた父の娘だ。

「毎夜するにはたいへんだと7日と中日と13日になった。その中日がなくなり、いつの日か13日も止められた」という。

一日、一日と減っていき7日だけのお勤めになったという大人の念仏講には文書が残されている。

それによれば昭和57年5月3日の申し合わせで、その年より「たな念仏」を8月7日の一日にされた。

また、8月14日も行われていた門念仏も廃止するとあった。

大人の念仏講には太鼓が見られない。集まった人たちは太い紐で繋げられた六斎鉦を肩にかけて撞木を手に持つ。

カセットテープが唱える念仏に合わせて鉦を叩く。

お念仏のカセットテープは平成23年にCDへ変換されたが音色は変わることない。

オンドサン(音頭さん)と呼ばれていた長老が生前に残された生声のお念仏に合わせて、チャ、チャ、チャンと何度も繰り返す鉦叩き。

「ガーンニーシ クーン」のお念仏の声が聞こえたらチャ、チャ、チャの連打で終える。

願似批功徳(がんにしくどく)回向と思われるお念仏である。

新仏の家に参る前、始めに浄福寺の山門をくぐった寺墓の前で一曲のお念仏をされる。

その直後にもう一曲される。

それを済ませばと、新仏の家に参って鉦を叩く。



子供の念仏講と同じように新仏の家の前庭で行われるが、お勤めをするのは大人の念仏講の講中の家である。

新仏の家は子供の念仏講ではなく、大人の念仏講であって講中は交わることない。

この年は白土特有の形をした吊り燈籠が祭られている3軒のタナ参りを済ませた。

大人の念仏講は浄福寺及び新仏の家のタナ参りでそれぞれ2回行われるが、最後のセセンボ(先祖墓が訛った)では1回のお勤め。



ジャンガラガン或いはチャンガラカンとも呼ばれる大人の念仏講はこうして一日限りのお勤めを終えた。

大人の念仏講はセセンボで解散する。

一年間、鉦を預かるそれぞれの組の家に戻っていく。

(H24. 8. 7 EOS40D撮影)

白土の新仏のタナ

2012年10月10日 06時46分05秒 | 大和郡山市へ
白土町の新仏の家では7日の盆入りから新仏のタナを祀っている。

かつての「タナ」は竹とコモ(薦)で作られていた。

四方を竹で本組をして上部に位牌を納める。

刈ってきたコモで覆って下部にオガラのハシゴを掛けていた。

祀る場所は南側の縁側で東向きに建てたという新仏の「タナ」はおよそ30年前まであったという講中のU氏。

その後においては斎壇形式のタナになった。

「タナ」の上段には「オヤシロ」とも呼ばれる家型の「ヤカタ」。

その内部に位牌を納めて、白い木で組んだハシゴを掛ける。

かつては手作りだったが、現在はお店で購入しているという大人の念仏講中のT家。

ご厚意で記録の写真を撮らせていただいた。

タナのヤカタは大和郡山市の城下町にある柳町の「スシヤ」や天理市櫟本町の「シラツチヤ」で購入していると話す。



N家の婦人もそう云っていた新仏の家は子供の念仏講、大人の念仏講とも白土特有の形をした白い吊り燈籠を吊るす。

同町特有の吊り燈籠の形は多少の違いが見られるものの、十津川村の大踊りで飾られるキリコトウロウ(先祖の霊とされる)や川上村高原での法悦祭に祭られるキリコドウロウの形に似かよっている。

お盆を終えた15日には焼却される吊り燈籠。

昨年が新仏の家だったN家は故人を偲んでそれを残しておきたいと語っていた。

その思いは願いが叶って奈良県立民俗博物館に寄贈された。



それは夏秋の企画展に合わして玄関ホールで展示された。

(H24. 8. 7 EOS40D撮影)
(H24. 8.11 SB932SH撮影)

白土の子供念仏講

2012年10月09日 07時55分42秒 | 大和郡山市へ
たいせいくんは小学校6年生。

今年を最後に子供の念仏講の営みを卒業する。

上級生がいなかったから4年間も太鼓打ちを勤めた。

今年も始まった白土町の子供念仏。

8月7日から14日までの毎日だ。

K婦人の話によれば長男(現在20歳)がしていたころは14時とか15時に始めていたという。

その時間帯はカンカン照り。

とても暑かったと述懐する。

町内の辻などを巡って太鼓を打つ。

その音に合わせて鉦を叩く年少者。



この日のお勤めをするのは5人。

明日は6人になるという子どもたちが集まる場所は浄福寺の門下だ。

予め子供が決めておいた開始時間は全日とも17時。

「せぇのっ」の一声が掛かって打ちだした。

太鼓と鉦を打ち鳴らす場所は決まっている。



浄福寺山門下、浄福寺本堂下、旧仲家の玄関があったとされる町内の中心の辻、北のフダワ(札場が訛った)、西のセセンボ(先祖墓が訛った)、南の辻である。

そこで打つ太鼓の拍子はドンチャンドンチャンドンドンチャチャチャン。

それに合わして鉦をチャンチャンチャチャチャンと打ち鳴らす。



これを9回ぐらい繰り返したあとは、すかさず両手にバチを持ってボテボテボテボテスッテントンと3回連打する。

早打ちの連打の音色は先ほどの打ち方とはうって変わる。

「ドンチャン」とか「ボテボテスッテントン」の擬音はそのように聞こえると云ったのはかつての経験者や子どもの親たちだ。

擬音はともかく、念仏の鉦音はチャンチャン、チャチャチャンと打ち鳴らす。



その音色から子供の念仏講を「チャチャンコ」と呼ばれているのである。

かつては3回も繰り返していた。

いつしか2回の繰り返しになったようだ。

講中のN氏によれば打つリズムが決まっているという。

最初はチャン(鉦)(胴縁)チャン(鉦)(胴縁)チャ(鉦)(胴縁)チャ(鉦)(胴縁)チャン(鉦)(胴縁)である。

鉦とともに太鼓打ちはバチで胴縁を叩く。

次の2番目は、ドン(胴腹革)チャン(鉦)(胴縁)ドン(胴腹革)チャン(鉦)(胴縁)ドン(胴腹革)ドン(胴腹革)チャ(鉦)(胴縁)チャ(鉦)(胴縁)チャン(鉦)(胴縁)となる。

3番目に連打の太鼓打ち。

ボ(右手胴腹革)テ(左手胴腹革)ボ(右手胴腹革)テ(左手胴腹革)ボ(右手胴腹革)テ(左手胴腹革)ボ(右手胴腹革)テ(左手胴腹革)スッ(両手胴縁)テン(右手胴腹革)トン(左手胴腹革)である。

1、2、3番とも10回ほど繰り返すと話す。

子供の念仏講は新仏の家へ寄って打つタナ参りもある。



そこでは休憩を挟んで2度行われる。

この年は3軒もあった新仏のタナ参り。

南の廊下側に吊るされた白い燈籠。

上部が平面四角形で、その下は四方型と三角型を組み合わせた吊り燈籠だ。

組み合わした木の枠を白地で装飾された吊り燈籠である。

下部には長い四角の垂れ。

そこには切り抜いた「南無阿弥陀佛」などの文様がみられる。

先祖の霊とされる吊り燈籠を作っているのは、かつて白土町に住んでいた天理市櫟本の「シラツチヤ」。

ザルや瀬戸物を売っている店だそうだ。

型が決まっている燈籠は近辺の旧村には見られないもので、「白土だけにある」という

新仏の家は村内に2軒。

もう一軒は外れの出屋敷とされる千束(せんぞく)の地。

隣村の石川町との境界線は古来の街道だ。

かつての中ツ道は後世に橘街道と名を替えた街道。

今でも地元の人たちがそう呼ぶ千束の地の街道であるが、当地に属する家の吊り燈籠は吊ることがない。

中断しているという。



そういうわけで千束の家では座敷に上がって太鼓と鉦を打ち鳴らす。

こうして新仏のタナ参りを済ませば再び浄福寺に戻ってくる。

始まりと同じように門下と本堂下で行われて終えた初日は1時間20分。



新仏の家人から貰ったお菓子を手にして帰っていった。

(H24. 8. 7 EOS40D撮影)
(H24. 8. 8 EOS40D撮影)

天井町弘法井戸の井戸浚え

2012年10月08日 08時11分55秒 | 大和郡山市へ
神社の清掃をする予定日を決めた天井町の自治会。

その日は11日。

風通しを良くして氏神さんに参ってもらうのだと話す神社は八幡宮。

鳥居も美しくして新しい。

それより4日前の7日は井戸浚え。

毎年の恒例行事である。

鎮守の八幡宮の傍らにある天井町の井戸の名は天井井戸。

弘法大師の石板像を井戸底に埋めている。

井戸の水位は常に一定。

満々と湛えられているから底に眠っている弘法大師は見られない。

始めにバケツで2、3杯の井戸水を汲みあげる。

それから後はスピード優先で電動ポンプ。

汲みあげ作業は実に効率的に済まされる。

かつては釣瓶で汲みあげていたというから大幅にアップした。

底まで汲みあげた井戸は泥混じりの水。

これもポンプで一挙に吸いあげる。



井戸浚えは井戸替えとも呼ばれるが、このようにして溜まった泥をあげて奇麗にすることにある。

以前は井戸の中に入り込んで弘法大師の石板も洗っていたそうだ。

何十年も前のこと。

汽車が走っていた時代には養殖した金魚を出荷していた。

そのときに使っていた水は井戸の水。

付近には養殖池が点在する。

昔は田んぼそのものが養殖池だった。

卵が孵化して生まれた小さな金魚。

7月11日ぐらいになれば苗を引いて横に植えておく。

金魚のエサを練って落とす。

そうすれば金魚が寄ってきた。

マエガケと呼ばれる三角網で掬って水路に入れる。

それを選別して出荷していたと当時の様相を話す婦人。

時代は昭和40年だったという。

ちなみに三角網は逆三角形。

今でも現役で使っているという。

奇麗になった弘法井戸は再び水位が上昇して石板が見えなくなった。

(H24. 8. 7 EOS40D撮影)

別所町の史跡巡り

2012年10月07日 07時01分10秒 | 奈良市(東部)へ
別所の山や田地は別所宗治一族の財産。

息子の名は半衛門でその息子を幾千代だと云う。

かつての殿さんを偲んで営んだ二日酒は殿さんの供養である。

殿さん三代の墓地が今もあると案内された山の中。



鬱蒼とした林の中に佇む墓石は四柱。

暗がりの中では文字は見えない。

右端の墓石には「慶長十九年(1614)三月二十日 清西禅定門」とある。

その左横には「○○宗治 七月二日 真○治三年正門」だ。

その左横は「明暦二年(1656)十二月七日」。

左端の墓石は「万治元年(1658)」。

永禄年間(1558~1570)に辰市の役で活躍した山田道安の弟一族の墓だとされるが、慶長十九年(1614)、寛永七年(1630)、明暦二年(1656)であるだけに時代関係は整合しない。

山田道安は順貞(天正元年・1573年没),順清(永禄十二年・1569年没),順知の三代に亘って「道安」の号を用いたとされる。

どの人物が別所と関係するか。

考えられるに別所の殿さんは山田道安に仕える与力の一人ではなかろうか。

「和州衆徒国民郷土記」によれば「別所監物 別所宮内少輔」の名があるそうだ。

永禄十年(1567)作の「別所郷ヨサメ帳」には「別所対馬守宗久」の名があり、墓地がある地の山に築いた別所城の城主だとされる。

もしかとすればだが、宗治は山田氏一族の分かれになる別所宗久の後継一族ではないだろうか。

ただ、そうであっても墓石に刻まれた時代年記とは大幅な誤差が生じる。

村の伝えによれば別所の殿さん一族は兵庫県の三木に移ったという。

三木の別所は名高い別所長治。

百年後の寛文元年(1661)に書き記された覚え書によれば、別所の殿さんの始祖は山田庄主の次男だったとされる。

その人物は山田庄から分かれて別所に移った。

書き遺した人物は別所半右衛門で宗久の末裔。

百年間の期間でなんらかの誤証が生じたのではないだろうか。

一族が残した財産は別所の山や田地。

杣ノ川の峠を越えた山は念仏山と呼ぶ。

そこにも田んぼがあるという。

そこへは行かなかったが村の墓地へ参った。



そこは別所の旧墓地があるあんのんやま(安ノ山)。

5体並ぶ石塔群がある。中央の石塔には「○○(あんじゅ?)山 実○大僧正 寛永七年(1630)」と読みとれたが関係は判らない。



最後に案内された地は地蔵尊。

ヤマザクラやムロノキ(ヒノキかも)の大樹下に安置されておる地蔵尊は「ぬくんど地蔵」と呼ばれている。

前月の24日は地蔵さんを掃除していたという。

ぬくんど地蔵は足を守ってくれる地蔵さん。

ここは田原の里から抜ける伊瀬街道。

お伊勢さんに参る際に拝んだ地蔵さんに草鞋を置く。

無事に歩き続けるようにと願った願掛けだ。



この旧街道は車で通り抜けることはできない。

数年前から始まったトンネル工事は中之庄町に抜ける。

ここら辺りは砂地。

ところが田原の里は堅い岩盤だと話す茗荷のO主人。

冬場になれば急坂の水間峠を越えるトンネルは出入り口が積雪で凍ってしまうらしい。

それを避ける道造りだ。

それはともかくこの日の朝は七日盆の井戸浚えをしていたという。

お大師さんも行者さんも祀っているという。

標高485メートルの山々に囲まれた別所の地は涼しい。

心地よい風が吹いていく。

地区には数軒の茅葺き家がみられる。

O家もそうだ。

話によれば茗荷町に居住するM家もあるというし、隣村の水間町にも点在する。

かつて別所には子供の涅槃講があった。

秋の涅槃だったそうだ。

イノカミさん(おそらく亥の子であろう)を祀って藁製のサンダや農作業に使われる道具を模したモノを作っていた。

その道具は奈良県立民俗博物館での「日々のくらし―子育ての民俗―」企画展(平成22年9月18日~11月23日)などで展示されたこともある。

そのときのメモを残しておいた。

それによれば「別所町には秋のねはんがある。旧暦の10月亥の日でイノコ祭りとも。オガラで作った模擬ミニ農具、サントクやカリヤもある。サンダワラをサントク(三本足の藁製五徳)に乗せていた。ホウダイはイノコ神に供える」であった。

(H24. 8. 5 EOS40D撮影)

別所町極楽寺二日酒

2012年10月06日 07時58分24秒 | 奈良市(東部)へ
金刀比羅神社の月次祭を終えれば社務所で直会。

2時間ばかりの宴である。

おもむろに極楽寺にあがった寺三役。

マツリのトーヤ4人もあがって席に着いた。

三役の前には大きな太鼓と鉦が置かれる。

トーヤ衆が手を合わせて拝む先は別所の殿さんの墓とされる方向だ。

二老であるO氏が語った別所の殿さんの謂れ。

殿さんと呼ばれる人は山田道安の弟にあたる別所宗治。

その息子は半衛門で、その息子を幾千代だと話す。

殿さんが居た時代は戦いに巻き込まれた騒乱の時代。

いつしか別所を離れることになった。

その際に殿さん一族が残した財産は別所の山や田地。

それを元に供養をしてくれと村人に頼んだ。

八月二日は殿さんが亡くなった日と伝えられて毎年供養を営む「二日酒」。

財産とされる田地は耕して収穫する。

作物は年貢。

替金流用して酒を買った。

その酒をトーヤが供えて始まった二日酒のナンマイダ。

直前に花を飾った吊り燈籠に火を灯す。

ローソクと線香に火を点けた。

殿さんの墓に向かって「ナムアミアダッ」と唱えながら二老が打つ太鼓のドンに合わせて一老がチャンと鉦をひと叩き。

次に「ナムアミアダッ」と唱えて太鼓と鉦を二つ叩き。

最後に「ナムアミアダッ」と唱えて太鼓と鉦は三つ叩き。

三仏(さんぶつ)を申した二日酒は12秒間。

こうして殿さんの供養を終えたのである。

それと同時に直ちに吊り燈籠の火を消された。

それでお終いかと思えば、打った太鼓をゴロゴロと境内に転がしていく。



営みを終えるのを待っていた子供らは太鼓を打つ。

なんとも素朴な行事である。

かつては二日酒の夜はイセキの盆踊りがあった。

戦前のことだと云う。

当日の朝は井戸浚えをしていたという。

本来ならば7日の井戸浚え。

集まりやすいこの日に行われたという七日盆の井戸浚えだ。

吊り燈籠の刳り抜き穴は日に月。

イセキ(会式が訛った)の盆踊りがあったというから「殿さん供養」とも呼ぶ二日酒は法要も兼ねた盆の行事であったと思われる。

(H24. 8. 5 EOS40D撮影)

別所町金刀比羅神社の月次祭

2012年10月05日 08時26分22秒 | 奈良市(東部)へ
「お殿さんの花や」と云って燈籠とも呼ぶ木製の吊り燈籠に飾った奈良市別所町の極楽寺。

それは家型の吊り燈籠。

両側に丸と月の形が抜いてある。

抜き穴の大きさは異なるが同じような形の吊り燈籠を見たことがある。

思い出したのは川上村の高原。

法悦祭の営みを終えた後は祭文踊りなどの盆踊り。

踊り子たちが集まる薬師堂に吊るされていたのであった。

この日の別所町では神事と寺行事が行われる。

始めに祭典されたのは六社権現を祀る金刀比羅神社の月次祭だ。

毎月の月初めの日に行われている。

例月であれば1日であるがこの日は2日。

お寺行事の「二日酒」に合わせて2日に行われている。

集まった村の男性たちは12人。



村神主が登場すれば社務所から手渡しで神饌を献じる。

拝殿に登った氏子たち。

六社権現のマツリの当家らも登壇して祓えの儀式。

いつもの月次祭のお勤めである。

普段着で参拝する姿や献饌など別所はヒグラシ蝉が鳴く。

ゆったりとした空間に包まれる。



極楽寺の蔵には二枚の棟札が残されている。

一枚は「奉修造 六社権現宮國家安全五穀成就村中繁栄如意所 満足 (右)聖主天中天 迦陵類伽肇 大梵天王 辯財天女宮 (左)哀怒衆生者 我等今敬禮 帝釈天王 金剛童子宮 元治二丑年(1865)四月六日 (右下)神野寺法印快寶 極楽寺□居照圓 神主 庄右衛門 長右衛門」とある。

裏面には「當寺極楽寺畄主居照圓 庄屋當邑中岡利兵衛 年寄重三良 年預新六烝 善五良武助」 大工棟梁新之烝 喜蔵 喜七 松吉」である。

棟札はもう一枚ある。

「奉遷宮 六社権現宮國家安全五穀成就村中繁栄 祈所 (右)聖主天中天 迦陵類伽肇 大梵天王 辯財天女宮 (左)哀怒衆生者 我等今敬禮 帝釈天王 金剛童子宮 (右下)大阿闍梨憲達 神主儀右衛門 善右衛門」だ。

裏面には「弘化二巳年(1845)九月十四日 年寄重三郎 年預新七 善□ 新兵衛 善四郎 大工上津村栄三郎 菅生村□□ □□門」であった。

かつては真言宗豊山派だった極楽寺。

僧侶名と神主名が連名で記されていることから神仏混合による造宮行事が行われていた。

四国のコンピラサンを祀ったのは後年のことだと話す。

(H24. 8. 5 EOS40D撮影)

釜あげうどんの重乃井

2012年10月04日 06時43分47秒 | 食事が主な周辺をお散歩
三か月ぶりに訪れた釜あげうどんの重乃井。

出版社の編集者を誘って縄のれんを潜った。

取材の前の腹ごしらえをどこにするか迷ったが、美味しいのであれば食べてみたいの一声で当店にした。

昼前の時間帯にお客の姿は見られない。

ゆったり寛ぐお店の雰囲気が懐かしさを覚える。

その席の壁にはジャイアンツの選手写真がある。

久しぶりに拝見した写真に変化は見られない。

撮影当時の姿のままだ。

「ご注文は」の声に釜あげ二杯。

「大」を頼んだのは云うまでもない。

味、評判などは食べログに譲りますが、私は断然に美味いと思っている。

なぜなら口が何カ月経過しても残っているもんだから・・・。

「また食べたい」と喉がときおり申すのだ。

相方もこれは美味いと申すのである。

独特の麺にぶち切れの客がいるそうだが、麺は讃岐と勘違いしているのでは・・・と思う。

麺にも特徴がある重乃井のうどんなのである。

食べ終わってお店を出る時間は昼時。満席になっていた。

(H24. 8. 5 SB932SH撮影)

菅生の盆入り清掃

2012年10月03日 06時45分02秒 | 山添村へ
山添村の文化財に指定されている光背地蔵菩薩立像は文明十一年(1479)の建之。

菅生の蓮照院内にある。

それを知ったのは同地区に住むN氏による。

この日は8月の第一日曜日。

7日に行われていた盆入りの行事が集まりやすい日曜になったと話していた。

そのことを思い出して訪れた菅生。

どこからともなく機械音がする。

それが蓮照院であったのだ。

この日は朝から垣内の人たちが集まって院境内のシバ刈り。

機械音はその音だったのだ。

そこで作業をされていたN氏。

草を刈っては下へ落としていく。

刈り落とした草は下でかき集める。

それを乗せて軽トラで運び出す。

そんな作業のあとは天然記念物に指定されている大井戸の杉の清掃。

いわゆる井戸浚えに移るがそれは午後の作業。

こうして一日中盆入りの作業をしていく。

蓮照院は嘉永七年(1854)の頃は観音寺の末寺であったようだ。

その年の六月十四日に襲った大地震。

その記録が観音寺に残っているそうだ。

観音寺や蓮照院も大きな被害が発生した。

震度は6~7の大地震。

観音寺がある葛尾村をはじめとして菅生村、針ヶ別所村も大きな被害を受けたとある。

かつての威容は判らないが、現在は無住寺。

今でも存在する光背地蔵菩薩立像の左横には大永八年(1528)建之の光背地蔵菩薩立像もある。

それは上の地蔵堂(廃寺)にあったそうだ。

(H24. 8. 5 SB932SH撮影)

千日町割塚古墳の供養

2012年10月02日 09時37分21秒 | 大和郡山市へ
大和郡山市の千日町は新興住宅地。

昭和45年(1970)に造成された住宅地である。

その一角に割塚古墳がある。

古墳がある広場は千日町の憩いの場の古墳公園だ。

古墳は昭和53年(1978)に大和郡山市の史跡文化財に指定されている。

直径が49メートルで高さは5メートルにもおよぶ巨大な円墳だ。

塚の中央辺りがⅤ字方に割れていたことから割塚古墳の名がある。

昭和43年の発掘調査によれば片袖式の横穴式石室(家型石棺)の埋葬施設であった。

6世紀前半の築造というから弥生時代ではなく、その当時の馬具や須惠器が出土したそうだ。

円墳は古墳時代の終末期。

同時期には明日香の石舞台古墳、高松塚古墳、キトラ古墳などが代表例で挙げられる。

平成23年5月に訪れた割塚古墳。

橿原考古学研究所主催の「遺跡と農耕儀礼にふれる」コースに同行した際に拝見した。

そのときに気がついたのが古墳前方にあった祠であった。

古墳を祀っているとすれば何らかの行事があるのではと思っていた。

その年の夏過ぎに聞いた「古墳の法要」。

送迎者のFさんやYさんから伝えられた法要。

実際に行事がされていることを知ったのだ。

それから一年後。

Fさんからこの日に行われることを教えてくださった。

朝から古墳の前でテント張りなどの作業をされている人たち。

千日町第三自治会の役員らである。

主旨を伝えて行事取材の許可を得た。

第三自治会会長ら役員らの話によれば同町が発足した当時から守ってきたという割塚古墳。

同地に住まいすることになった住民。

古墳は盗掘されてはいるものの古代の人を偲んで法要営むようにしたという。

法要を始めたいと申しでたのは長寿会(老人会)。

その人たちが発起人となって祠を建てたという。

昭和45、6年というから同町の全容ができた頃である。

長寿会で運営してきた法要はいつしか自治会の運営に切り替えたという。

それから40年。

銅葺きの祠屋根も傷んできたようだ。



自治会の婦人たちは祠を水拭きするなど奇麗に清掃される。

花を飾ってローソクを立てておく。

自治会長のお許しをいただいて祠内部を拝見した。

内部にはヤカタが二つ。

そこにはお札が納められている。

「大慶月天王」や「武頭大権現」の文字を判別できたお札。

古墳の主は未だ判明していないが、当地を治めていた豪族であったのだろう。

誰であろうが古代人であることには違いない。

1450年前の原住民を偲んで手を合わせる。

この日の午後は自治会運営の金魚すくい大会。

午前中に設営をされた自治会役員。

多くの住民たちが集まって盛りあがったそうだ。

それを済ませた人たちは再び古墳公園に集まってきた。

暑い日差しを避けてテント内の席に座る。



例年なら40人ぐらいだが、この日は特に多くて60人にもなった。

導師を勤めるのは矢田山金剛山寺(あじさいで名高い通称矢田寺)の大門坊。

同寺の行事取材でお世話になっている前川真澄住職だ。

先代住職の時代からお世話をしているという。

子供も参列する古墳の法要。

静かにお経を唱えられる。

およそ30分の法要を終えた後は住職の説法。

隣村の外川から矢田へ抜ける道は狭かった。

舗装もされていない田舎道は坂を登って下って歩いていた。

当時の様相を語る住職の話題に耳を傾ける新住民。

地域の誇り、或いは誉れというべきでしょうか、先人の弔った供養を終えた。

御供のお下がりを貰って帰る子供たちの背には威容を誇る古墳が生きているように見えた。

(H24. 8. 4 EOS40D撮影)