早い夕食にした。待たずに2階の座敷。明治の建物で、欄間は縦格子で換気対策か。ガラスの出窓が料理屋風。初代は銀蔵で米久(高村高太郎の「米久の晩餐」で高名: http://www.haizara.net/~kirita/unite/sake23.html )で牛鍋を修行、松阪で牛鍋と牛丼を売り始めるとある。これから牛銀になったようだ。
東京の牛鍋は割り下で煮る。要は濃いだし汁で煮る鍋物だった。その延長が牛丼で、この頃は鶏鍋と親子丼など丼物の展開があった。関西は割り下を使わない、「焼く」すき焼きだ。松阪でも大本の但馬牛の外来種との交雑( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E6%AF%9B%E5%92%8C%E7%A8%AE )により 肉の品質向上と脂身の混入があり、すき焼き鍋(東京の牛鍋スタイル)でザラメと醤油に肉を焼く方式に変化したと推察される。ちょうどこれは牛銀が東京の勧業博覧会(パンフにある内国博覧会は間違い、大正にはない)は1922年の平和記念東京博覧会( http://www.geocities.jp/ramopcommand/page009.html )であろうと思わる。つまりは、国際的な牛の交雑で品種改良が進み、調理の仕方も変わり、さらに地元での肥育が善循環として起こり今の「松阪牛」につながったと思われる。
なぜか、飛びぬけて高いがあっさりのヒレの網焼き(150g 3枚)にする。仲居が炭の用意。野菜は玉葱、椎茸、白葱、ピーマンをポン酢(一味もあり)で3回に分けて肉と合わせて食べる。焼いた野菜で特に面白くない、ポン酢は濃いめのお味で九条葱の小口がたくさん。
ヒレ肉は1㎝足らずの厚さで、炭の外周においてじっくり両面を焼く。伯方の塩で食べるのを勧められ、これは良いと思った。肉の味があっさりとして濃厚なお味が追いかける。2枚目は塩だれ(柚子胡椒入り)にした。これもしっとりして楽しめる。3枚目はやはり塩でゆったり食べる。これで充分な量だ。
ご飯には合わないお味だ。ビールも進まない、お茶で食べたのが最も良かった。ご飯を食べるならすき焼きだろう。
二人で3万6千円は高いが、損をしたとも思わない。ニュー・ヨークで熟成の赤身を食べても同じくらいの値段だ。和田金の溜まり醤油のタレの網焼きよりも軽くて良い。しかし、三宮の みやす と同じくらいの値段でありお値打ち価格ではない。最近の脂沢山のマーブル・ビーフではなく、チャー・ブロイリングで後味も爽やかだ。
仲居と楽しく話して写真を撮るのを忘れた、次は隣の牛銀の洋食に行こう。ハヤシ・ライスが美味しそうだ