虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

「ビジネスで一番、大切なこと」 と 関西人ファミリー 2

2011-02-27 08:54:37 | 日々思うこと 雑感

マイブームで……興味の赴くままにビジネス書を読み漁っていて感じるのは、

企業に向けて突きつけられている課題は、

一個人の……

私やうちの家族のメンバーひとりひとりのアイデンティティーを揺さぶるような内容

でもあるんだな~という事実。

 

「グローバル化」なんて言葉も、大きな企業の中でだけ語られる言葉じゃなくて、

うちの教室の幼稚園児にしたって、日々、「グローバル化」する世界でどう生きるかという課題を受け止めて暮らしているんですよね。

テレビ画面には遠い国の紛争や地震の映像が流れ、

子ども部屋には、世界のどこの国で作られたのかわからない物があふれているような

環境で生活しているのですから。

 

 

『ビジネスで一番、大切なこと』に、著者のヤンミ・ムンが、

子どもの頃、ある教師に感じた「いらだち」と、

大人になった今その教師に抱いている「共感」について語っていました。

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子どもの頃、ヤンミ・ムンは

知性を何より尊ぶ ある根っからの教育者である先生に出会いました。

「知性とは何ですか」とたずねると、

「知性とは、赤ちゃんの最初の言葉よ」

「知性とは、三人兄弟が手をつなぐこと」と、子どもたちが混乱するような答えを返します。

 

その答えは的外れでいらだたしくもありました。

なぜなら、それはIQテストでよい成績を取るとか、

向上心の的になるような、はっきりした行動を導いてはくれなかったからです。

 

でも大人になったヤンミ・ムンは

自分をいらだたせたその先生が、一度もそういう答えをくれなかったことを感謝するようになりました。

 

知性や資質、成果、美しさといった理想については、

具体的で測定可能で、誰もが納得する定義があると、つい安心感を覚えてそれ以上、深く考えようとしなくなるものですから。

先生はきっとそのことを理解していたのだろうと思ったからです。

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わかりやすい定義がなければ、私たちは混乱する。

居心地のよい場所から一歩踏み出すときには、誰しも不安を感じるものだ。

しかし、長い目で見れば悪いことではない。

とりわけ目的が従順な模倣者の一群を生み出すことではなく、

多様な自発的思考を促すことにあるのであれば。

あなたが教師なら、まず、学生の能力を推定し、抽象的に表現することをやめよう。

学生たちにモノサシという権威に頼らずに

他から抜きん出ることの意味を考えさせよう。やがてあなたは、学生たちが創り出す成果に

目を見張るだろう。

学生たち自身も驚くに違いない。

           『ビジネスで一番、大切なこと』ヤンミ・ムン  ダイヤモンド社

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虹色教室で過ごす時間の多くは、子どもたちの自己判断に任しているのですが、

私自身にとっても、何を教え どんな風に教えるかという面で外からの制約はほとんどなくて

自由そのものです。

そこは小さくてアットホームな教室の利点で、

それぞれの子が自分の内側にかけがえのない価値を見出し、最初は不器用だけど、しまいには驚くほど流暢に自分の得意分野を伸ばしていく姿を見守ることができます。

私は、どの子も同じ基準で計測できる鋳型を使いません。それぞれが挑戦するレベルが高い課題は用意するけど、それを比べる道具として利用していないのです。

そうすると、どの子もそれぞれが特別にすばらしいことが、

子ども自身にも親にも受け入れられていきます。

本当に子どもはどの子も個性的ですばらしいですから。

その「すばらしさ」に自分で気づくように手助けするのが、

大人の役目だと思って仕事をしています。

 

ヤンミ・ムンも、「画一的な測定法は、逸脱者や異端児、冒険家が生まれなくなる」と指摘しています。

人は相違点を可視化すると、互いの違いを際立たせるのではなく、無意識に解消しようとするのだそうです。

競争力を測るという前向きな努力が、結果的に均質化を促すムチとなるのです。

評価は、個性のない似たり寄ったりの人間を育て、独創性を奪い、議論を精彩を欠いたものに変えてしまうそうです。

 

もちろん評価や画一的な測定法が必要な場もあるはずです。学校などもそうでしょう。

でも、そうしたものは親も子も「成績」教信者にしてしまうほど、

力を持ってはいけないはずです。

 

なぜなら、測定するということは、ある何かを重視しようと選んだに過ぎず、

それ以外のものを測定していないからです。

必ずしも重要なものから測定しているわけでなく、

非常に価値があるものでも、測定者に高い能力が必要だったり、数値にしにくかったりすれば

測らないのですから。

 

 『ビジネスで一番、大切なこと』を読んでいると、

経済界を悩ましている矛盾が、教育の世界も同じように曇らせているのを感じます。

有名病院が死亡率の公表に同意すると、

死亡率を下げたくないから、重症患者を引き受けないということが起こります。

 

同じように教育の世界も、教師を評価し、

子どもを評価し、学校をランキングで比べるのにうつつを抜かしているうちに、

何が起こっているのでしょう?

私たちは大切な子どもたちを、

「市場にあふれかえる最新の性能を備えているにも関わらず、

選ぶ意欲を減退させる似たり寄ったりな商品」

のような立場に追い込んでいるのではないでしょうか。

 

先日、私が幼児の世界にまで画一的な評価が浸透して、個性がないがしろにされている状況を嘆くと、

息子からこんな言葉が返ってきました。

「さまざまなところで人を評価するシステムが進む一方で、

個性が大事、個性を伸ばすってこともよく言われるようになっているよね。

 

でも、無駄に個性を求めすぎて、『個性』と捉えられているものが、画一的になってきているんじゃないかな。

一般化されたくない、個性的でありたいと思うあまり、他人が言葉に詰まるような

ショッキングな趣味や好みを言いたがる人がいるじゃん。

でもそれもまた画一的な既存の個性のイメージに無理やり自分を当てはめている行為で、

結局、自分の好きなものが

自分でも認められていないように見えるんだよ。

つまり、個性を求めるあまり、自然に個性的であることを

自分にも他人にも認めていないように見えるんだ。

その原因のひとつに、言葉によって個性的であるよう

プレッシャーをかけられていることがあるんじゃないかな。

個性もまた画一的な見方を生む評価の対象になっている気がする。」

 

そういえば、さまざまな矛盾する言葉に翻弄されながら

成長していく子ども側の気持ちに思いや感じ方に馳せるのを忘れていました。

息子の言葉をゆっくりと咀嚼しました。

 

 

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