『おせっかい教育(鷲田清一・釈徹宗・内田樹・平松邦夫 著/株式会社140B)』で、「遊園地」ではなく「原っぱ」的な遊びを……という提案があり、「現代の子どもたちのメタ認知力や地頭力が下がっているのは、これが原因だなぁ」と感じました。
同じ遊び場でも、遊園地というのは、そこに行ったら何をするかというメニューがすでにあって、その中でどれを選ぶか、どんな順番でやるかという場所です。
今の大学・学校もカリキュラムがあって、大学の授業は「勉強する遊園地」となっているそうです。
鷲田清一氏が、この著書の中で次のようにおっしゃっています。
「ぺんぺん草が生えて空き缶が転がっているだけという原っぱに、学校にも家にも居づらい子が、一人で来て空き缶を蹴ったりしていると、よそから同じような子がやって来て、お互いに意識しあう……。でも遊び道具もない、野球もできない。そんなときにちょっと空き缶をそいつの方向けて転がすと、向こうも手持ち無沙汰ですから、またポーンと蹴ってきたりして…そうやっているうちに二人の間で新しい遊びのルールを自ら作っていくんですよね。
子どもというのは別に遊び道具なんかなくても、石ころや棒切れなんかで、上手に、いろんなゲームを自分らで作っていく。
遊園地のように、その空間の意味があらかじめ決まっているんじゃなしに、自分たちが何かすることで空間の意味を作っていく。そんなふうにルールや意味を自分たちで作っていかないと、原っぱで遊べませんよね。
そういう教育の場所というのが今なくなってきているんです。「原っぱとしての遊びの場」がね。」
この話を読んで、『子どもの「遊び」は魔法の授業(キャッシー・ハーシュ=パセック他(アスペクト)』の著書にあったネズミの実験のことを思い出しました。
50年ほど前、ある教授が、研究室のネズミをわが子のペットとして数匹持ち帰ったそうです。それらが、研究所のネズミより素早く迷路をすり抜け、ミスが少ないことを発見しました。
その後、別の教授が、ネズミを取り巻く環境のさまざまな面がネズミの行動や脳の発達に影響を及ぼすかという研究をしました。
かごで1匹で暮らすネズミ、ほかの数匹と大きなかごで暮らすネズミ、おもちゃの滑り台や回し車のある遊園地のような環境で暮らすネズミを比べて調べました。
すると、遊園地のような環境で、ほかのネズミと一緒に暮らしているネズミは脳内にシナプスをたくさんこしらえていたそうです。
この話にはもう一つ重要な部分があって、この教授の報告によれば、遊園地のような環境で過していたネズミよりもっと脳が発達していたのは、自然の中で育ったネズミだったそうなのです。
自然の中の音、匂いといった刺激、遭遇する生き物、集団で群れる遊び、シラミやノミ取り、仲間とのはしゃぎあいなどは、研究者がかごの中に作ったディズニーランドよりずっと脳を発達させるものだったのです。
人間をネズミといっしょにするのは問題なのですが、人が人工的に作る豊かな環境は必ずしも何もない原っぱに勝るものではないことを、頭に入れておくとよいのかもしれません。
私が子どもだった頃は、広場はもちろん、街も学校も大人たちの作るコミュニティーも、『原っぱ』的な要素が十分にあった気がします。
過去記事ですが、よかったら読んでくださいね。↓
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<消費者ではなくて、製作者でもあったちょっと昔の話 >
マシュー・フォックスという神学者が次のような言葉を語っています。
私たちは本質的に 消費が好きな生き物だろうか?
そうは思えない。人間は製作者として存在してきたのであって、消費者ではないはずだ……。
年々、子どもをめぐる環境は変化し続けて、子どもの心のあり方や物の見方や関わり方が変わってきていますよね。
特に感じるのは、最近では、親がリードする形で、子どもがいつでもどこでも「消費者」になりつつあるということです。
私が子どもだった30年以上前、子どもの私が世界をどのように眺め、関わっていたかというと、良い消費者になりたくて、経済力をつけて、購入の際のセンスを磨こうと必死の大人たちと、現実には何もかもが未完成過ぎて、創作したり製作したり、自分で何とかしたりと……「製作者」の立場もとらざるを得ない現実の間でもがく大人たちの姿を……自分もその両方を模倣しつつ暮らしていました。
それで、当時の「製作者」側、「創作者」側、「発信する」側に、いざ素人の自分たちが立ったときの、何ともいえない危うさや面白さやワクワクや、がっくし……くる感じ……が、その「おしゃれ」とはほど遠くて、鈍くさくて面白すぎる風景が、子ども時代の私の脳裏に焼きついています。
どれを、思い出してもおかしくってしょうがありません。
そうしたことを急にだらだらと書いてみたくなりました。
私は大阪の吹田市の関西大学の近くで育ちました。
それで、子どもの頃はよく友だちと、大学の構内にもぐりこんで、乗馬クラブの馬のえさやりを手伝わせてもらっていました。
この関西大学の乗馬クラブは、毎日、私の住んでいる周辺の道路をきちんとした乗馬用の服で正装して、ぐるぐるまわっていました。
馬は千里山の駅前の信号機を確認しては、きちんと交通ルールを守って、かなり気取った姿で立っていました。
そこらあたりまでは、大阪のちびまる子ちゃん世代の日常として許せる風景だったのですが、近所に住んでいる地域の世話役の人が「子どもたちのために小さな動物園を作ろう!」と言い出したのです。
そこで、公園のそばの地域の集会所の前の広場でやぎと羊を飼いはじめたのです。確かうさぎもいました。
最初はよかったんですが、サラリーマンが多い地域……世話をする人も仕事があるし、大きな動物は世話が大変で、しまいには、どんどん開発の波が押し寄せてきている千里山の街中でやぎや羊を放し飼いすることになりました。
そこで、私は毎日、千里山の駅前で、きちんと交通ルールを守って立っている馬と、気の向くままに草を求めて移動するやぎや羊の姿を目にすることになりました。
おまけに当時、そのあたりはペットが野生化したワカケホウセイインコが大量発生していたので、夕方ともなると、カラスの大群なんて目じゃないほど、圧倒するような数の緑色の大型の鳥の群れが、空を移動していました。
そんなふうに、社会というか、環境が未完成でカオス……なので、私の通っていた公立小学校の校長の考えも自由そのもの。
宝塚歌劇のファンだからという理由で、学校のクラス名を、「雪組、星組、月組……」として、毎月クラスで劇を発表する日を作っていました。
子どもが育つ環境としてどうだったのか……というと、???なのですが、私も友だちも自分たちが頭で考えて、何かをすることに対して、躊躇しなかった気がします。
子どもなのですが、常に、「製作者」「作る側」の発想があるのです。
千里山の駅前には、ミスタードーナツとか、サンリオショップとか、「○○塾」とか、これから全国でチェーン展開していこうとする店舗が並びはじめていました。
その手前の道路には、自動車と一緒に馬やら羊やらヤギやらがごちゃごちゃしていたわけですから、子どもの目にも、世界はまだ未完成で混沌としているのだから、自分たちの参入する場はいくらでもある!
自分たちもクリエイティブにこの街作りに参加しようという気持ちがありました。
たとえば、道なども、はじめに覚えなくちゃならない道順があるのではなくて、到着地までの近道は自分たちで発見して作り出すものという思いがあったので、塀があれば登り、柵の下の穴を掘ってくぐれるようにし、他人の家の垣根のふちを、番犬を狂ったようにわめかせながら歩いていって、がけを斜めに渡っていって、団地の前の倉庫やら、自転車置き場の屋根やら、高いところがあれば必ず登って、そこも道の一つとして捉えて通っていくことに、何の疑問も抱いていませんでした。
子どもは、それぞれそうして自分で見つけて作り出した道や秘密の隠れ家をたくさん持っていました。
時間にしても、暗くなったら帰る時間というアバウトな捉え方で遊びまわってますから、曜日とか時間なんて気にかけたことがなかったです。
そんな中で、子ども同士、遊びでもルールでもどんどん自分たちで作り出して、考え出して、改善して遊んでいました。
人脈も開拓して、近所の人にお願いして犬の散歩をさせてもらったり、同じ団地に住むひとり暮らしのおばあさんに子どもたちで敬老の日のプレゼントを贈ったりしました。
運動オンチで内気な性格の私もどこでも登るし、もぐるし~を何ということもなくやってましたから、その頃の子どもたちは、躊躇なく何でもやっていたなと今になってびっくりしてしまいます。
とにかくエネルギッシュだし、自分たちの頭でよく考えていました。
よく考えていた~というのも、あんまり頭を絞ったので、40過ぎてる今でも幼稚園の頃、考えあぐねていた問題をはっきり思い出すことができるくらいです。
それで、最近の子どもたちが頭を使わないとか、昔みたいに小猿みたいな無茶をしろ……と思っているわけではないのですが、「それにしてもあんまりじゃないかな?」と思う現状があるのです。
今は幼い子でも習い事に通っている子が多いのですが、そうした人工的な場は当然、未完成さとかカオスからほど遠いものです。
時間の枠がありますし、することは決められてますし、場合によっては、どういう気持ちで、どういう態度で参加すべきかまで暗黙のうちに子どもに適応を求めてきます。
そこまでガチガチに固められた環境で、子どもたちが、自分が環境に影響を与えたり、変化させたり、作り出したりできる存在なんだって気づくことは皆無なんじゃないかな?と思えてくるのです。
それでもそんな現代っ子たちも、よくよく話に耳を傾けてみると、あれこれと考えていて、したたかで、ユニークで、面白いです。
何に関しても「消費者」としての受身な立場しか取ったことがない子は多いですが、一度「創作する」ことを覚えると、「買う」ことよりも、何倍もうれしそうな表情をします。
いったん、クリエイティブに創造性を発揮し始めると、どの子もいきいきとしてきます。
……ここまで、話してきて何を書きたかったのかというと、空間も時間もちょっと混沌としていてすき間が多いほうが、「何をしようかな? 面白いのかな? やってみようかな? やっぱりやめとこうかな? 私はそれがやりたいの? 好きなの?」と、自分で選んで、考えて、味わって、創造的に参加してみようという気持ちを、子どもの中から引きだしてくれるのじゃないかな? ということなのですが……。