8時前に一度起きて、あんトーストと紅茶の朝食をとったのだが、寝不足気味だったので、再び布団にもぐり、昼まで寝ていた。身支度を整えて、今年最初の「鈴文」のとんかつを食べに出る。ランチのとんかつ定食(950円)ではなく、とんかつ定食(1300円)の方を注文。しっかり食べる。
駅構内の売店で、筑紫哲也の「残日録」が掲載されている『文藝春秋』2月号を購入し、「シャノアール」で読む。筑紫が虎の門病院に検査入院して肺癌(ステージ3)の告知を受けたのが2007年5月10日。それから一月半後の6月23日(この日は彼の72歳の誕生日である)、筑紫は藤沢周平の小説「三屋清左衛門残日録」から命名した闘病日記「残日録」を付け始めた。彼のことだから、きっとそのようなノートがあるに違いないと思っていたが、朝刊の広告でこのことを知り、今日はこれを読もうと家を出るときから決めていたのだった。「独占掲載」とあるが、掲載されているのはノート三冊分の「残日録」の一部で、引用の合間に編集部による説明や家族への取材が載っている。いずれ「残日録」の全体が出版されるのだろうか。進行した癌ゆえ摘出手術は施さず、抗癌剤と放射線による治療が中心だったが、新しい治療法も積極的に受けて、血液検査の数値を丹念に記録している。とくに印象的だった箇所を引いておく。
《○七年十一月九日
フェルメールの「牛乳を注ぐ女」を観に行く。
その一点だけを他の作品群で包み込むフェルメール展を観るのがこれで何度目か。フェルメールを観たということは、自分にとってしか意味はない。それがどうしたの、と他人は言うだけのことだ。フェルメールだけではない。他の全ての個人的体験が、「それがどうした」なのだ。
では、自分にとっては何なのか。
残りの日々が有限だと悟るまで、そんなことは考えもしなかった。
ここを訪れるのは、これが最後だろうと思いながら、あるいはこれを眺めるのはこれが最後と思いながら、お寺を歩いたり、仏像を観ている自分がいる。〝見納め〟という言葉があったと思い起こす。》
《○七年十二月八日 執行猶予
病いを得るということは、なかでも癌のようにいわば〝執行猶予〟(死ぬまでの)の時間を与えられることは、自分の正体を見つめ直す機会を得るということである。
私は何ほどのものか、何をやってきたのか、やってこなかったのか。
己を正視するのは、そんなにたやすいことではない。それに加えて、もうひとつの困難がある。
こうやって何事かを言語を用いて表現するというのは、通常は他者に向かっての意思伝達の手段なのだ。そのための工夫や表現力は、訓練次第、あるいは個人的能力によって多少とも向上させることができるだろう。
だが、本質的に社会的、公共的ツールである言語が、自分に向って自分を説明するのに、どこまで有効なのか。
どんな言語表現もすり抜けていく部分、そこに自分の正体がぼんやりと、または黒々と潜んでいるのではないか。
「よい人生だった」
「悔いの多い、くだらない人生だった」
どちらにしても、言語を用いる以上、他者への説明を意識しているだろうし、そうでなくとも、「自分のなかの他者」に言い聞かせようとしているのかも知れない。》
《○七年十二月十日夜
転移に次ぐ転移。身体中に「転移を認めます」「~が疑われます」
かんじん、火元の肺癌についても「やはり残存が疑われます」
最初に発病を告げられた時よりも衝撃は大きく重い。はずである。いったんその後の治療で〝good PR〟ほぼ治ったというところまで行ったのに、最初よりもっと悪いところまでずどーんと落とされたのだから。なのに衝撃は宣告の一瞬だけで、その後はずっと引いていったのはなぜだろう。
・・・(中略)・・・
だが、これからがむずかしい。
もう、どうでもいいという「降り」の気分が一方にはある。この数日の不調、とくに呼吸不調なだけで、相当に生きていくことにうんざりしている。その一方で、持ち前の楽天主義も頭を擡(もた)げてくる。「なるようになるさ」、そんなにツイていない男ではない。
元気で保ってきたようなところがある。相半(ママ)する二つの側面が、結果的には衝撃を和らげる作用を果たしているのか。いや、この二つを重ね合わせると、生きるということを深く考えていないからだということにもなる。考えるのを避けてきた、逃げてきた、ノーテンキでやってきた、とも言える。
さて、そのコワイ水の底を、深淵をのぞくことにしますか。そういう〝猶予〟を与えてくれるのが癌という病の特徴なのだが・・・。
とにかく、遺書とも遺言とも名乗らずに、言い残していくことはできるだけやらなくちゃ。》
《二〇〇八年五月六日 頼りは好奇心
生きる気があるのかを試されている
普段はそんなこと考えなくて人は生きていける
病と対面して突き付けられるのはそれだ
どこまで生きる気があるのか、と。
もういいや、という気もする。
よほど、やりたいことが残っていないと。
なんかおもしろいことないか、でやって来た者はとくにこれに弱い。
おもしろいことが見つからなくなると途端に支えるものがなくなるからだ。
頼りは好奇心か。》
《○八年八月五日
他人に自分の運命を委ねることなかれ
楽しまなければ存在理由はない
若いころ企画をボツにした連中に対して
怒りはあるが
恨んだらおかしくなる》
《(日付なし)
・痛みはあなたを〝今〟(の世界)に隔離してしまう
・痛みがひどいと今のことしか考えられない
・痛みと息苦しさ=最悪の苦痛
・「洗面器に顔伏せたような息苦しさ」を知りませぬ
・〝痛み〟の多様性、表現ロクにできない。5段階説―10段階説》
筑紫哲也らしい部分とらしからぬ部分が混在している。もちろん「筑紫哲也らしさ」とは私がTVや文章を通してもっている彼に対するイメージであるが、それは決して私が勝手に持っていて彼の与り知らぬものではなく、そういうイメージをわれわれが持つように彼が振舞って来た結果である。私と彼とは年齢は20ほど離れているが、同じ高校の先輩でもあり、同じ大学の先輩でもある。彼が編集長を務めていた時代(1984-87)の『朝日ジャーナル』は毎号欠かさず読んでいた。私の思う「筑紫哲也らしさ」とは真面目半分(面白半分)、そのバランス感覚の絶妙さということである。彼は深刻ぶって話すことも、おちゃらけて話すこともしなかった。そこには一種のダンディズムがあり、ジャーナリストと文化人の融合体として自己を呈示しようという意図が働いていたと思う。人は死のギリギリまで自分らしさを演じるものである。
亡くなったのは11月7日だが、その2日前から昏睡状態に陥った。その直前に次女に「メモ、メモ」と紙とボールペンを求め、這うような文字で、「Thank you」と綴ったという。
「シャノアール」を出て、少しばかり散歩をしながら、自宅に戻る。今日は晴れてはいるが、けっこう北風が吹いていて、体感温度は低い。呑川沿いの道はことさらに風が強く、駐輪場の自転車がなぎ倒されていた。
駅構内の売店で、筑紫哲也の「残日録」が掲載されている『文藝春秋』2月号を購入し、「シャノアール」で読む。筑紫が虎の門病院に検査入院して肺癌(ステージ3)の告知を受けたのが2007年5月10日。それから一月半後の6月23日(この日は彼の72歳の誕生日である)、筑紫は藤沢周平の小説「三屋清左衛門残日録」から命名した闘病日記「残日録」を付け始めた。彼のことだから、きっとそのようなノートがあるに違いないと思っていたが、朝刊の広告でこのことを知り、今日はこれを読もうと家を出るときから決めていたのだった。「独占掲載」とあるが、掲載されているのはノート三冊分の「残日録」の一部で、引用の合間に編集部による説明や家族への取材が載っている。いずれ「残日録」の全体が出版されるのだろうか。進行した癌ゆえ摘出手術は施さず、抗癌剤と放射線による治療が中心だったが、新しい治療法も積極的に受けて、血液検査の数値を丹念に記録している。とくに印象的だった箇所を引いておく。
《○七年十一月九日
フェルメールの「牛乳を注ぐ女」を観に行く。
その一点だけを他の作品群で包み込むフェルメール展を観るのがこれで何度目か。フェルメールを観たということは、自分にとってしか意味はない。それがどうしたの、と他人は言うだけのことだ。フェルメールだけではない。他の全ての個人的体験が、「それがどうした」なのだ。
では、自分にとっては何なのか。
残りの日々が有限だと悟るまで、そんなことは考えもしなかった。
ここを訪れるのは、これが最後だろうと思いながら、あるいはこれを眺めるのはこれが最後と思いながら、お寺を歩いたり、仏像を観ている自分がいる。〝見納め〟という言葉があったと思い起こす。》
《○七年十二月八日 執行猶予
病いを得るということは、なかでも癌のようにいわば〝執行猶予〟(死ぬまでの)の時間を与えられることは、自分の正体を見つめ直す機会を得るということである。
私は何ほどのものか、何をやってきたのか、やってこなかったのか。
己を正視するのは、そんなにたやすいことではない。それに加えて、もうひとつの困難がある。
こうやって何事かを言語を用いて表現するというのは、通常は他者に向かっての意思伝達の手段なのだ。そのための工夫や表現力は、訓練次第、あるいは個人的能力によって多少とも向上させることができるだろう。
だが、本質的に社会的、公共的ツールである言語が、自分に向って自分を説明するのに、どこまで有効なのか。
どんな言語表現もすり抜けていく部分、そこに自分の正体がぼんやりと、または黒々と潜んでいるのではないか。
「よい人生だった」
「悔いの多い、くだらない人生だった」
どちらにしても、言語を用いる以上、他者への説明を意識しているだろうし、そうでなくとも、「自分のなかの他者」に言い聞かせようとしているのかも知れない。》
《○七年十二月十日夜
転移に次ぐ転移。身体中に「転移を認めます」「~が疑われます」
かんじん、火元の肺癌についても「やはり残存が疑われます」
最初に発病を告げられた時よりも衝撃は大きく重い。はずである。いったんその後の治療で〝good PR〟ほぼ治ったというところまで行ったのに、最初よりもっと悪いところまでずどーんと落とされたのだから。なのに衝撃は宣告の一瞬だけで、その後はずっと引いていったのはなぜだろう。
・・・(中略)・・・
だが、これからがむずかしい。
もう、どうでもいいという「降り」の気分が一方にはある。この数日の不調、とくに呼吸不調なだけで、相当に生きていくことにうんざりしている。その一方で、持ち前の楽天主義も頭を擡(もた)げてくる。「なるようになるさ」、そんなにツイていない男ではない。
元気で保ってきたようなところがある。相半(ママ)する二つの側面が、結果的には衝撃を和らげる作用を果たしているのか。いや、この二つを重ね合わせると、生きるということを深く考えていないからだということにもなる。考えるのを避けてきた、逃げてきた、ノーテンキでやってきた、とも言える。
さて、そのコワイ水の底を、深淵をのぞくことにしますか。そういう〝猶予〟を与えてくれるのが癌という病の特徴なのだが・・・。
とにかく、遺書とも遺言とも名乗らずに、言い残していくことはできるだけやらなくちゃ。》
《二〇〇八年五月六日 頼りは好奇心
生きる気があるのかを試されている
普段はそんなこと考えなくて人は生きていける
病と対面して突き付けられるのはそれだ
どこまで生きる気があるのか、と。
もういいや、という気もする。
よほど、やりたいことが残っていないと。
なんかおもしろいことないか、でやって来た者はとくにこれに弱い。
おもしろいことが見つからなくなると途端に支えるものがなくなるからだ。
頼りは好奇心か。》
《○八年八月五日
他人に自分の運命を委ねることなかれ
楽しまなければ存在理由はない
若いころ企画をボツにした連中に対して
怒りはあるが
恨んだらおかしくなる》
《(日付なし)
・痛みはあなたを〝今〟(の世界)に隔離してしまう
・痛みがひどいと今のことしか考えられない
・痛みと息苦しさ=最悪の苦痛
・「洗面器に顔伏せたような息苦しさ」を知りませぬ
・〝痛み〟の多様性、表現ロクにできない。5段階説―10段階説》
筑紫哲也らしい部分とらしからぬ部分が混在している。もちろん「筑紫哲也らしさ」とは私がTVや文章を通してもっている彼に対するイメージであるが、それは決して私が勝手に持っていて彼の与り知らぬものではなく、そういうイメージをわれわれが持つように彼が振舞って来た結果である。私と彼とは年齢は20ほど離れているが、同じ高校の先輩でもあり、同じ大学の先輩でもある。彼が編集長を務めていた時代(1984-87)の『朝日ジャーナル』は毎号欠かさず読んでいた。私の思う「筑紫哲也らしさ」とは真面目半分(面白半分)、そのバランス感覚の絶妙さということである。彼は深刻ぶって話すことも、おちゃらけて話すこともしなかった。そこには一種のダンディズムがあり、ジャーナリストと文化人の融合体として自己を呈示しようという意図が働いていたと思う。人は死のギリギリまで自分らしさを演じるものである。
亡くなったのは11月7日だが、その2日前から昏睡状態に陥った。その直前に次女に「メモ、メモ」と紙とボールペンを求め、這うような文字で、「Thank you」と綴ったという。
「シャノアール」を出て、少しばかり散歩をしながら、自宅に戻る。今日は晴れてはいるが、けっこう北風が吹いていて、体感温度は低い。呑川沿いの道はことさらに風が強く、駐輪場の自転車がなぎ倒されていた。