9時半、起床。ツヤタでレンタルしたDVD2枚(『若者の旗』と『グッド・ウィル・ハンティング』)を開店前に返却しないとならないので、髭もそらずに外出。返却口にDVDを投入し、ついでに本屋でものぞいて行こうと、駅ビルの開店をドアの前で待つ。今日は成人式で(うちの息子もそうである)、会場(大田区産業プラザ)に向う新成人たちが目の前を通って行く。女性の姿は昔からそんなに変わっていないように思うが、男性はカラフルな羽織袴姿の若手の落語家みたいな一団をときどき見かける。
10時開店。開店と同時の入店というのはめったにないことなので、各フロアーの店員さんたちが「いらっしゃいませ」とお辞儀をして迎えてくれる姿が新鮮である。「くまざわ書店」で以下の本を購入する。
マルカム・カウリー『ロスト・ジェネレーション 異郷からの帰還』(みすず書房)
松田武『戦後日本におけるアメリカのソフト・パワー』(岩波書店)
S.カルフ編『十八世紀研究者の仕事 知的自伝』(法政大学出版局)
帰宅して、朝食兼昼食。コロッケパンにしようと思ったが、気が変わって、コロッケと玉葱をめんつゆで煮て卵でとじる。それをご飯にのせればコロッケ丼だが、そうはしないで、トーストのおかずにする。
食事の後、『ロスト・ジェネレーション』をちょっと読んでから、フィールドノートの更新作業。いつもなら寝る前か、起きてすぐやる作業だが、今回は午後の更新になった。「今日はなかなか更新されないな」と何度も訪問してくださった方がいたら、ごめんなさい。ツタヤのせいです(違います)。
夕方、昨日の反省を踏まえて、プリントアウトした演習のレポートをバッグに入れて、散歩に出る。「テラス・ドルチェ」で珈琲を飲みながら、レポートに目を通す。レポートの書き方は一年生のときの基礎演習で一応学んではいるはずだが、十分に身についているとはいえない。何か参考文献を読んで、その内容を紹介し、自分なりの考察をするというのは一般的な構成だが、この場合、冒頭で「なぜこの本をとりあげるのか」が説明される必要がある。それなしでいきなり本の内容の紹介をされてしまうと読み手は置いてけぼりをくわされた気分になる。目をつぶって書棚から本を選んだわけではない以上、なぜその本を(他の本でなく)選んだのかの説明は必要である。それを説明することによって、レポートのねらい(課題)が明らかにされなければならない。参考文献のリストが末尾に載っているのはいいとして、本文のどこでそれらが参考にされたのかが示されていないレポートがある。引用や参照の示し方は基礎演習のガイドブックに実例付きで丁寧に説明されているからもう一度丁寧に読むこと。レポートとレジュメの区別がよくわかっていないものもある。レジュメは口頭報告とワンセットで存在するものだが、レポートはそれ単独で存在するものであるから、箇条書き的ではだめで、ちゃんとした文章になっていないとならない。文献の内容の紹介がレポートの大部分を占め、最後に申し訳程度に考察(分析)が付いているというのもバランスが悪い。レポートの中心はあくまでも考察に置かれるべきである。・・・というようなことを明日の演習で言おう。
夜、レポートを読む合間の息抜きに、月9ドラマ『ヴォイス 命なき者の声』の初回を観る。法医学ゼミの学生5人の青春群像という謳い文句だが、初回を観る限りでは、遺体の死因の解明を通して語られるヒューマンストーリーという趣がある。ゼミの教授役に時任三郎、准教(?)役に久々のドラマ出演の矢田亜希子というあたりに惹かれて観たのだが、謎解きの部分も感動の部分もいまひとつだった。矢田亜希子があんなにつまらない役をやっているのを見るのが忍びないという気持ちもある。2回目を待たずに見切らせてもらいます。
10時開店。開店と同時の入店というのはめったにないことなので、各フロアーの店員さんたちが「いらっしゃいませ」とお辞儀をして迎えてくれる姿が新鮮である。「くまざわ書店」で以下の本を購入する。
マルカム・カウリー『ロスト・ジェネレーション 異郷からの帰還』(みすず書房)
松田武『戦後日本におけるアメリカのソフト・パワー』(岩波書店)
S.カルフ編『十八世紀研究者の仕事 知的自伝』(法政大学出版局)
帰宅して、朝食兼昼食。コロッケパンにしようと思ったが、気が変わって、コロッケと玉葱をめんつゆで煮て卵でとじる。それをご飯にのせればコロッケ丼だが、そうはしないで、トーストのおかずにする。
食事の後、『ロスト・ジェネレーション』をちょっと読んでから、フィールドノートの更新作業。いつもなら寝る前か、起きてすぐやる作業だが、今回は午後の更新になった。「今日はなかなか更新されないな」と何度も訪問してくださった方がいたら、ごめんなさい。ツタヤのせいです(違います)。
夕方、昨日の反省を踏まえて、プリントアウトした演習のレポートをバッグに入れて、散歩に出る。「テラス・ドルチェ」で珈琲を飲みながら、レポートに目を通す。レポートの書き方は一年生のときの基礎演習で一応学んではいるはずだが、十分に身についているとはいえない。何か参考文献を読んで、その内容を紹介し、自分なりの考察をするというのは一般的な構成だが、この場合、冒頭で「なぜこの本をとりあげるのか」が説明される必要がある。それなしでいきなり本の内容の紹介をされてしまうと読み手は置いてけぼりをくわされた気分になる。目をつぶって書棚から本を選んだわけではない以上、なぜその本を(他の本でなく)選んだのかの説明は必要である。それを説明することによって、レポートのねらい(課題)が明らかにされなければならない。参考文献のリストが末尾に載っているのはいいとして、本文のどこでそれらが参考にされたのかが示されていないレポートがある。引用や参照の示し方は基礎演習のガイドブックに実例付きで丁寧に説明されているからもう一度丁寧に読むこと。レポートとレジュメの区別がよくわかっていないものもある。レジュメは口頭報告とワンセットで存在するものだが、レポートはそれ単独で存在するものであるから、箇条書き的ではだめで、ちゃんとした文章になっていないとならない。文献の内容の紹介がレポートの大部分を占め、最後に申し訳程度に考察(分析)が付いているというのもバランスが悪い。レポートの中心はあくまでも考察に置かれるべきである。・・・というようなことを明日の演習で言おう。
夜、レポートを読む合間の息抜きに、月9ドラマ『ヴォイス 命なき者の声』の初回を観る。法医学ゼミの学生5人の青春群像という謳い文句だが、初回を観る限りでは、遺体の死因の解明を通して語られるヒューマンストーリーという趣がある。ゼミの教授役に時任三郎、准教(?)役に久々のドラマ出演の矢田亜希子というあたりに惹かれて観たのだが、謎解きの部分も感動の部分もいまひとつだった。矢田亜希子があんなにつまらない役をやっているのを見るのが忍びないという気持ちもある。2回目を待たずに見切らせてもらいます。