フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

1月15日(木) 晴れ

2009-01-16 02:03:55 | Weblog
  8時、起床。ハムトーストと紅茶の朝食。メールと電話を数本。ビジネスマンの一日の始まりみたいだ。しかし、その後は、宮地嘉六の自伝的小説「ある職工の手記」(大正8年)を読む。時代背景は日清戦争と日露戦争の間くらいの時期。当時の少年たちに職工という職業がどのように見られていたかがわかって興味深かった。

  「佐世保の造船所へ行つて職工になる決心をしたのは十三の秋だった。同じ町から行つていた年上の友達が職工になつてゐた。その友達は青服のズボンをはいて黒セルの上衣を着込んで、鳥打帽子を冠つて久しぶりに佐賀に帰つて来た。或る日手荷物を提げて汽車から降りて来る姿を一目見て私は直ぐに彼れであることを知つた。ズボンのポケツトからズボン締めの帯皮へ時計の鎖をかけ渡したりしてゐる気取つた風が少なからず私の目を引いた。
  その頃の職工は決して今日のやうに労働者、若しくは職工などと頭から賤しめる風はまだ一般になかつた。それどころか、機械師とか、西洋鍛冶などと云つて到る所で青服姿を珍しがつて尊敬する風だつた。職工自身でも自分の職業は立派で高尚であると云う誇りを抱いてゐたのだ。それは今日の飛行機や飛行家が世間でもてはやされるくらゐに彼等はもてたのだ。それはその筈である汽車という云うものが今の飛行機ほどに世人の感動と賛美の中心でさへあつたことを思へば機械職工が珍らしがられたのも不思議でないであらう。然し何事も最初の間である。誰にでも出来るやうになると世間は珍らしがらなくなり、果たしてその真の値打ちをさへ馬鹿にするのだ。馬鹿にされるやうになると遂にはされる方自身でも自らを賤しみ侮るやうになるのだ―私のその友達が青服姿で故郷の町へ帰つて来た時分は職工の値打ちももう都会人の目にはそれほどではなかつたが、私の目には珍しかつた。私が彼が非常に立身して故郷へ帰つて来たのだと思つて見上げた気持ちで彼に近づいて挨拶し、それから彼の家まで彼と二人がかりで手荷物を持つて行つてやつたりした。」

  後に、宮地嘉六は呉海軍工廠ストライキ(明治45年)の首謀者の一人として投獄され、大正半ば、労働者の生活を描く作家としてデビューする。ただし、その作風は、間もなく台頭してくるプロレタリア文学のような戦闘的ものではなく、葛西善蔵や嘉村磯多などの私小説の系譜に属するものであった。「ある職工の手記」でも、父親や継母との関係がきめ細かく描かれており、味わい深い作品になっている。
  11時頃、自宅を出て、昼前に大学に着く。昼食は「すず金」の鰻重。注文してから鰻重が運ばれてくるまで30分近くかかったろうか。とにかくここに来るときは時間に余裕がないといけない。本を読みながら待つ間に腹ペコになり、鰻重の旨さが一段ときわだつ。鰻重は腹持ちがいい。今日はこれで夕食まで空腹を感じることはないだろう。
  3限の授業(大学院の演習)の後は研究室で雑用を片付け、帰りがけに飯田橋ギンレイホールでマイク・ニューエル監督の『コレラの時代の愛』を観る。原作はもちろんガルシア・マルケスの同名の小悦。19世紀の末のコロンビアの港町。結婚を誓った若い男女が娘の父親の反対で引き裂かれる。青年は娘のことが忘れられないが、娘の方は引き離されている間に熱が冷め、医者と結婚をする。青年は彼女を忘れようと622人の女性たちと性的関係をもちつつ(治療的行為!)、彼女が未亡人になる日を待つ。その期間、51年と9ヶ月と4日。彼女の夫の葬儀の日、彼は彼女の元を訪ねて求愛をする。彼女はその非常識に怒り、「ここから出て行って!残りの人生、二度と私の前に現われないで!余生が短いことを祈ります」と彼に言い放つ。それでも彼は彼女のことをあきらめない。そして53年7ヶ月と11日目、ついに彼は彼女と結ばれる。ベットの中で男は言う、「この瞬間を53年間も待っていた」。女は言う、「ええ、そうね」。男はさらに言う、「君のために純潔を守り通した」。女は微笑んで言う、「ウソつきね」。男が女を待った歳月、その間に男が性的関係をもった女性の数、この二つの数字に私は(観客はみな)溜息をつく。どちらもすごい。嘘だろうと思う。ストーカーかと思う。カサノバかと思う。あきれる。でも、うらやましいと思う。グリコの時代の少年としては。