フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

1月27日(火) 晴れ

2009-01-28 02:25:46 | Weblog
  8時、起床。クリームシチュー、トースト、紅茶の朝食。フィールドノートの更新をすませてから、答案の採点。昼食は親子丼。少し昼寝をしてから、大学へ。5限の「質的調査法特論」は今日が最終回。4時20分からの授業だが、空はまだ明るい。日が少しずつ長くなっているのがわかる。5人が報告をしてぴったり授業時間内に収まる(収めた)。
  教室の鍵を返却にしに教員ロビーにいくと、美術史の肥田先生がいらしたので、しばし雑談。肥田先生は特別研究期間で一年間授業を担当されていなかったので、4月から授業のある生活に適応できるかしらとおっしゃっていた。とくに初めて担当される基礎演習のことを気にしておられたので、アドバイスというほどのものではないが、自分が2年間経験してきたことをお話させていただく。大学院の演習、大教室での講義、学部の演習、それぞれに違った難しさがあるが、基礎演習の難しさはまた格別である。他の授業は講義要項を読んで「私の授業」を履ろうと思って来ている学生を相手にするわけだが、基礎演習は自動登録なので、私と学生との出会いはまったくの偶然である。授業の内容も私の専門分野とは関係がない(論文の読み方、プレゼンテーションの仕方、レポートの書き方)。アウェーとまでは言わないものの、少なくともホームでの試合(授業)ではない。2年務めて、来年度は休ませてもらうつもりでいたが(ゼミの立ち上げにエネルギーを注ぎたいので)、願い叶わず、来年度も担当することになった。もしも文化構想学部と文学部の専任教員全員が基礎演習を担当することにしたら、1クラスの定員は10名ほどになり、きめ細かい指導ができるのにと思う。現行の30人はどう考えても多い。報告の機会を全員に回すだけで精一杯である。10人が贅沢ならせめて20人。導入教育をきちんとやろうとしたらその辺りが上限であると思う。
  今日は往き帰りの電車の中で、谷崎潤一郎の小説「美食倶楽部」(大正8年)を読んだ。メーテルリンクの『青い鳥』(明治41年)の第4幕第9場に登場する「太りかえった幸福たち」、とりわけその中でも「ひもじくないのに食べる幸福」の化身のような人間たちが主人公である。彼らの美食に対する欲望をこれでもかこれでもかといわんばかりに描写する谷崎の文章は圧巻である。

  「とたんにAは、舌と一緒に其の手へ粘り着いて居る自分の唾吐が、どう云ふ加減でか奇妙な味を帯びて居る事を感じ出す。ほんのりと甘いやうな、又芳ばしい塩気をも含んで居るやうな味が、唾吐の中からひとりでにじとじとと沁み出しつつあるのである。唾吐がこんな味を持つて居る筈はない。さうかと云つて、勿論女の手の味でもあらう筈はない。・・・Aはしきりに舌を動かして其の味を舐めすすつて見る。舐めても舐めても、尽きざる味が何処からか沁み出して来る。遂には口中の唾吐を悉く嚥み込んでしまつても、やつぱり舌の上に怪しい液体が、何物からか搾りだされるやうにして滴々と湧いて出る。此処に至つて、Aはどうしても其れが女の指の股から生じつつあるのだと云ふ事実を、認めざるを得ないのである。彼の口の中には、その手より外に別段外部から這入つて来たものは一つもない。さうして其の手は、五本の指を揃へて、先からぢつと彼の舌の上に載つて居る。それ等の指に附着して居るぬらぬらした流動物は、今迄たしかにAの唾吐であるらしく思われたのに、脂汗の湧き出るやうに漸々に滲み出て居るのであつた。」

  食欲と性欲の親和性を如実に示すエロチックで変態じみた描写である。ただし谷崎の変態さというのは、これは『瘋癲老人日記』の場合もそうだが、いかにも変態じみているために病的な感じがしないのである。わかりのよい変態さ、標本箱に収まっているような変態さなのである。変態の標本。だからそんなに不気味ではない。「ああ、変態だ」と頭で理解できてしまうのだ。広津和郎が「四五の作家に就いて」(大正7年)という評論の中でこんなことを書いていた。

  「人が悪さうで案外頗る人が善く、アブノオマルのやうで案外頗るノーマルなところに、非常識のやうで案外頗る常識的なところに、潤一郎氏の根本の弱みがあるのだと思ふ。」

  「美食倶楽部」は『編年体大正文学全集』第八巻(ゆまに書房)に収められいるものを読んだのだが、編者のいたずらだろうか、この作品の後には小川未明の小説「飢」が配置されている。続けて読むと、サウナ風呂から水風呂に飛び込むような心地がする。