8時頃目が覚めたが、寝足りない気がして、二度寝をして、10時に起床。カレー、トースト、紅茶の朝食。378枚の答案の採点を始めようかどうしようか考え、今日はまだとりかからなくてもよいと判断する。それはしなくてはならないことだが、締め切りにはまだ時間がある。そんなに急いでとりかかることはない。しなくてはならないことをさっさとやって、浮かせた時間でしたいことをするという生き方に私は与しない。しなくてはならないことというのは際限なくあり(どんどん追加される)、一つのしなくてはならないことをさっさとやっても、次なるしなくてはならないことが控えている。しなくてはならないことを最優先していたら、いつまでたってもしたいことに着手できないのである。まず、したいことをする。しなくてはならないことは、そろそろ着手しないと締め切りに間に合わないというタイミングまで放っておく。このやり方(生き方)が成立する条件は「そろそろ着手しないと締め切りに間に合わない」という判断に狂いがないことである。自慢できることでもないが、私、この点に関しては自信がある。これまでの人生、ずっとそうやって生きてきたからだ。ただし、このことは私が締め切りに遅れたことはないということではない。締め切りにはしばしば遅れる。ダメじゃないかと言うなかれ。締め切りには、絶対遅れてはならない締め切りと、多少遅れても大丈夫な締め切りと、あってないような締め切りの3種類がある。絶対遅れてはならない締め切りは、言葉の定義上、絶対に遅れてはならない。社会人失格の烙印を押されないためにはこの締め切りは厳守しなくてはならぬ。逆に言えば、この点さえしっかり押さえておけば、締め切りなんて怖くない。したいこと優先でやっていける。一番いけないのは、しなくてはならないこともせず、したいこともせず、ただ時間だけが過ぎていくことである。
午後、散歩に出る。「やぶ久」で鍋焼きうどんを食べながら、『週刊文春』を読む。映画評では『ヘルボーイ/ゴールデン・アーミー』の評判がやたらにいい。中野翠とおすぎの二人ともが高く評価する作品はめったにない。これは近々観に行かねばと思う。
恵比寿の東京都写真美術館へ行く。先月末で有効期限の切れた友の会の会員証の更新をすませてから、3階展示室で開催中の「甦る中山岩太:モダニズムの光と影」を観る。中山岩太は大正後半から昭和戦前期に活躍した写真家で(1949年に54歳で死去)、モンタージュの技法を駆使したシュールレアリズムな作品と「上海からきた女」を代表作とするポートレイトが彼の仕事の中心である。私は中山岩太の作品に切なさのようなものを感じる。それは、第一に、モダニズムへの郷愁である。モダニズムというのは20世紀初頭に芸術の諸分野で起こった革新運動を指すが、ある時代の「現代」は後の時代から見れば「過去」であり、モダニズムの旗手たちが伝統的な(権威的な)芸術に対して行った反抗も「現代」のわれわれからから見ればレトロな色調を帯びている。第二に、日本人の手になるモダニズムの作品は、たんに時間的に「モダン」なだけでなく、空間的に「西洋」を志向しているため、そこに伝統への反抗と同時に西洋(新しい権威)への追従というアンビバレンツなものが含まれている。第三に、これはとくに写真の分野にいえることだが、写真は当初は技術であって芸術ではなかった。だからモダニズムの写真家たちには伝統的な写真芸術という反抗の対象は存在せず、いかに写真を技術から芸術の域に高めるかという立身出世的な野心に支配されていた。具体的には、モンタージュの技法を駆使した抽象絵画のような写真、ブロムオイルという特殊な技法を使った淡い油絵のようなタッチの風景写真、つまり、普通に考えれば写真の一番の強みであるリアルさを犠牲にして、リアルでない作品、絵画のような作品の制作にモダニズムの写真家たちは没頭したのである。中山岩太の作品を前にして私が感じた切なさは、おそらく中山自身も感じていたのではなかろうか。「上海からきた女」の憂愁に満ちた表情は、モデル本人のものであるというよりも、中山自身のものであるように思われてならない。
1階のカフェ「シャンブル・クレール」で一服してから、2階展示室で開催中の「ランドスケープ/柴田敏雄展」を観る。実に興味深い企画だった。最初は中山岩太の展覧会だけ観て帰るつもりでいたのだが(私は原則として同じ日に複数の展覧会や映画を観ないことにしている)、今日は気が変わって(切ない気持ちのままで帰りたくなかった)こちらも観ることにしたのだが、大正解だった。展示室には、タイトルの示すとおり、たくさんの風景写真が並んでいる。しかし、それは自然の風景でもなければ、街の風景でもない。人間の痕跡のある自然の風景、自然の風景の中に存在する(写真家が作為的に置いたのではない)人工物・人造物を撮った作品である。たとえば渓谷にかかる橋、崖崩れ防止のために山の斜面を覆うコンクリート、ダム、用水路・・・。勘違いのないように言っておくが(それは実際に作品を観れば一目瞭然のことだが)、環境破壊とかをテーマにした作品ではない。自然の風景の中で唐突に出会う、人工的な造形のハッとするような美しさがテーマである。実際、私は展示室を歩きながら、何度もハッとして立ち止まった。もっとも、他の観客よりも私が作品の前で立ち止まっていた時間が長かったのは、作品から受ける感動の大きさのためだけでなく、音声ガイドを首からぶら下げていたからである。たまたまだったのかもしれないが、そのときの観客の中で、500円の料金を払って音声ガイドをレンタルしているのは私だけだった。500円がもったいないのか、あるいは芸術作品には解説は不要で自分の感性だけを頼りに鑑賞すべきと考えているのか、どちらにしても貧しい考えである(美術館も観客に作品を味わってもらいたいと本気で思っているなら、音声ガイドの料金はもっと安価にすべきである。文部科学省もセンター入試のリスニングのプレーヤーに多額の予算を費やすよりも、全国の国公立の美術館に無料の音声ガイドを導入すべきである)。とくに「ランドスケープ/柴田敏雄展」の音声ガイドを私が推奨する理由は、それが柴田敏雄本人とインタビュアーの対談の形式をとっていることにある。これは珍しい。学芸員の解説もよいが、本人が自作について語ってくれるのを聴く機会はめったにあるものではない。たとえば、空を構図の中に入れないのは、それをしてしまうと作品のスケールが規定されてしまうからですという説明には、(私は普段空をよく撮るので)ハッとさせられた。なるほどね。ただし、インタビュアーの女性(フリーのアナウンサーの方だろう)の質問や感想の凡庸さは、わざとそうしているのかとかんぐりたくなるほどである。展示室に入ってまず目に入る山峡にかかる赤い鉄の橋を撮った作品について、柴田は「逆光」と「もや」が作品を成立させている要素ですと語っているのだが、それに対してインタビュアーは、背景の山はまるで東山魁夷さんの絵のようですねと感想を語っているのである。なんと失礼な感想であろう。それじゃぁまるでこの作品が東山魁夷の模倣みたいじゃないか。また、山肌を覆うコンクリートを中央に据えて上に常緑樹、下に真っ赤な紅葉を配置した作品については、柴田が「もしモノクロの写真であったとしても同じ構図で撮ったと思います」と注目すべきことを述べているのに対して、「アマチュアの写真家なら真っ赤な紅葉を中央に配して撮りますよね」とトンチンカンな感想を述べている。私がインタビューの現場にいたら、インタビューを一時中断して、彼女をスタジオの外に呼び出し、蹴りの一つでも入れたいところだ。柴田敏雄という人、やさしい人なんだなぁ。そういうことを含めて、ぜひレンタルしてみてほしい音声ガイドである。
午後、散歩に出る。「やぶ久」で鍋焼きうどんを食べながら、『週刊文春』を読む。映画評では『ヘルボーイ/ゴールデン・アーミー』の評判がやたらにいい。中野翠とおすぎの二人ともが高く評価する作品はめったにない。これは近々観に行かねばと思う。
恵比寿の東京都写真美術館へ行く。先月末で有効期限の切れた友の会の会員証の更新をすませてから、3階展示室で開催中の「甦る中山岩太:モダニズムの光と影」を観る。中山岩太は大正後半から昭和戦前期に活躍した写真家で(1949年に54歳で死去)、モンタージュの技法を駆使したシュールレアリズムな作品と「上海からきた女」を代表作とするポートレイトが彼の仕事の中心である。私は中山岩太の作品に切なさのようなものを感じる。それは、第一に、モダニズムへの郷愁である。モダニズムというのは20世紀初頭に芸術の諸分野で起こった革新運動を指すが、ある時代の「現代」は後の時代から見れば「過去」であり、モダニズムの旗手たちが伝統的な(権威的な)芸術に対して行った反抗も「現代」のわれわれからから見ればレトロな色調を帯びている。第二に、日本人の手になるモダニズムの作品は、たんに時間的に「モダン」なだけでなく、空間的に「西洋」を志向しているため、そこに伝統への反抗と同時に西洋(新しい権威)への追従というアンビバレンツなものが含まれている。第三に、これはとくに写真の分野にいえることだが、写真は当初は技術であって芸術ではなかった。だからモダニズムの写真家たちには伝統的な写真芸術という反抗の対象は存在せず、いかに写真を技術から芸術の域に高めるかという立身出世的な野心に支配されていた。具体的には、モンタージュの技法を駆使した抽象絵画のような写真、ブロムオイルという特殊な技法を使った淡い油絵のようなタッチの風景写真、つまり、普通に考えれば写真の一番の強みであるリアルさを犠牲にして、リアルでない作品、絵画のような作品の制作にモダニズムの写真家たちは没頭したのである。中山岩太の作品を前にして私が感じた切なさは、おそらく中山自身も感じていたのではなかろうか。「上海からきた女」の憂愁に満ちた表情は、モデル本人のものであるというよりも、中山自身のものであるように思われてならない。
1階のカフェ「シャンブル・クレール」で一服してから、2階展示室で開催中の「ランドスケープ/柴田敏雄展」を観る。実に興味深い企画だった。最初は中山岩太の展覧会だけ観て帰るつもりでいたのだが(私は原則として同じ日に複数の展覧会や映画を観ないことにしている)、今日は気が変わって(切ない気持ちのままで帰りたくなかった)こちらも観ることにしたのだが、大正解だった。展示室には、タイトルの示すとおり、たくさんの風景写真が並んでいる。しかし、それは自然の風景でもなければ、街の風景でもない。人間の痕跡のある自然の風景、自然の風景の中に存在する(写真家が作為的に置いたのではない)人工物・人造物を撮った作品である。たとえば渓谷にかかる橋、崖崩れ防止のために山の斜面を覆うコンクリート、ダム、用水路・・・。勘違いのないように言っておくが(それは実際に作品を観れば一目瞭然のことだが)、環境破壊とかをテーマにした作品ではない。自然の風景の中で唐突に出会う、人工的な造形のハッとするような美しさがテーマである。実際、私は展示室を歩きながら、何度もハッとして立ち止まった。もっとも、他の観客よりも私が作品の前で立ち止まっていた時間が長かったのは、作品から受ける感動の大きさのためだけでなく、音声ガイドを首からぶら下げていたからである。たまたまだったのかもしれないが、そのときの観客の中で、500円の料金を払って音声ガイドをレンタルしているのは私だけだった。500円がもったいないのか、あるいは芸術作品には解説は不要で自分の感性だけを頼りに鑑賞すべきと考えているのか、どちらにしても貧しい考えである(美術館も観客に作品を味わってもらいたいと本気で思っているなら、音声ガイドの料金はもっと安価にすべきである。文部科学省もセンター入試のリスニングのプレーヤーに多額の予算を費やすよりも、全国の国公立の美術館に無料の音声ガイドを導入すべきである)。とくに「ランドスケープ/柴田敏雄展」の音声ガイドを私が推奨する理由は、それが柴田敏雄本人とインタビュアーの対談の形式をとっていることにある。これは珍しい。学芸員の解説もよいが、本人が自作について語ってくれるのを聴く機会はめったにあるものではない。たとえば、空を構図の中に入れないのは、それをしてしまうと作品のスケールが規定されてしまうからですという説明には、(私は普段空をよく撮るので)ハッとさせられた。なるほどね。ただし、インタビュアーの女性(フリーのアナウンサーの方だろう)の質問や感想の凡庸さは、わざとそうしているのかとかんぐりたくなるほどである。展示室に入ってまず目に入る山峡にかかる赤い鉄の橋を撮った作品について、柴田は「逆光」と「もや」が作品を成立させている要素ですと語っているのだが、それに対してインタビュアーは、背景の山はまるで東山魁夷さんの絵のようですねと感想を語っているのである。なんと失礼な感想であろう。それじゃぁまるでこの作品が東山魁夷の模倣みたいじゃないか。また、山肌を覆うコンクリートを中央に据えて上に常緑樹、下に真っ赤な紅葉を配置した作品については、柴田が「もしモノクロの写真であったとしても同じ構図で撮ったと思います」と注目すべきことを述べているのに対して、「アマチュアの写真家なら真っ赤な紅葉を中央に配して撮りますよね」とトンチンカンな感想を述べている。私がインタビューの現場にいたら、インタビューを一時中断して、彼女をスタジオの外に呼び出し、蹴りの一つでも入れたいところだ。柴田敏雄という人、やさしい人なんだなぁ。そういうことを含めて、ぜひレンタルしてみてほしい音声ガイドである。