フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

1月24日(土) 曇り

2009-01-25 11:21:32 | Weblog
  新年の墓参りをまだすませていなかったので、昼、母と鶯谷の菩提寺へ(現地で妹と合流)。住職の二人のお子さん(2歳と0歳)が出迎えてくれる。住職が子どもだった頃は、年に一度のお施餓鬼法要のとき以外は檀家の前に顔を出すことは許されなかったそうで、今昔の感がありますと住職のご母堂がおっしゃっていた。かつて子どもは街中にあふれていたが、いまでは稀少財だ。お墓という、基本的には陰気な場所が、そこに小さな子どもの笑顔があると(ときに叱られて泣き顔のときもあるが)、陰と陽が中和されて、生と死が和やかに交信する場所になる。
  駅の近くの蕎麦屋で昼食(味噌煮込みうどん)をとってから、母と妹は巣鴨のとげぬき地蔵へ、私は大学へ。2時から私の研究室で「社会学年誌」の編集委員会。50号の編集が大詰めに来ている。表紙や目次や奥付といった本体(論文)以外の部分の校正(再校)作業を行う。
  大学からの帰りに日本橋の高島屋へ寄る。腕時計の修理のためだ。25年使っている腕時計の金属のバンドのフックの部分が甘くなって、簡単に腕から外れてしまうようになった(そのため最近では懐中時計のようにポケットに入れている)。地元の時計屋で2回ほど修理してもらったが、不十分で、これは製造元に修理に出してバンド自体を交換してもらった方がいいのではとアドバイスされた。高島屋にクレドールの専門店が入っているというのでそこに持っていくことにしたのである。高島屋の地下(スイーツ・食品)にはときどき来るが、上の方の階にはめったに来ない。それもたいていは贈答品を購入するためで、自分のものを買うためではない。高島屋=高級店という固定観念があるのだ。エレベーターで6階に行く。どきどきしていた(倉本聰か)。バンドの交換の費用はどのくらいだろうか。普通のバンドならいいものでもせいぜい1万か2万である。しかし、地元の時計屋の主人がいうことには、私の時計の金属バンドは特殊な造りのもので、本体と一体化しており、しかも昔の製品であるから、製造元でもパーツは残っていないかもしれない、そうなると修理自体がオリジナルな加工を伴うものになるから、修理費用もずいぶんなものになるかもしれないと。それは暗に新しい時計を買った方が賢明であると言っているように思えた。しかし、この時計は婚約のときに妻が私にプレゼントしてくれたものである。そう簡単に買い換えるわけにはいかない。5万までなら交換に応じようと決めていた。「ウォッチ・サロン」という一画があって、そこには複数のブランドが出店していた。ロレックス、ピアジェ、ブンゲ、ピエール・クンツ、フランク・ミューラー・・・いよいよどきどきしてきた。クレドールのところへ行き、ポケットから時計を取り出し、女性の店員にかくかくしかじかであると説明する。店員は私の時計を受け取り、それを木製のトレーに載せて、修理コーナー(これは各店共通の部門)に運んでいった。私も彼女の後についてフロアーを歩いた。なんだかこれから皇帝に接見するみたいだ。修理コーナーにはスーツにネクタイのホテルの支配人みたいな男性がいて、女性店員から私の時計をうやうやしく受け取り、これから調整してみますので20分ほどお待ちいただけますかと言った。私は番号札を受け取りその場を離れた。6Fは紳士物のフロアーで、帽子の専門店があったので、のぞいてみると、頭の大きな(LLL)私にも合うサイズのものがあったので(これはめったにないことである)、1つ買い求めた。ダックスの製品で8千円ほどしたが、これが高いのか安いのかよくわからない。ただ、隣の店のカシミヤのコートの値段と比べたら(比べることがおかしいのだが)、めちゃくちゃ安い買い物に思えた。修理コーナーに戻るとすでに調整は終っていた。腕にはめるとカチッと心地よい音がした。うん、完璧だ。地元の時計屋で修理してもらってもこうはいかなかったんですと私が言うと、ホテルの支配人のような男性は、場末の時計屋とわれわれを比較されては心外ですというようなことはもちろん言わず、微笑を浮かべてうなづいた。そして代金を支払おうとする私に、ちょっとした調整だけですのでお代はけっこうですと言った。
  高島屋の向かいは丸善である。喉が渇いたので(ずっとどきどきしていたのだ)、3Fのカフェでオレンジフロートを飲んでから、岩波新書の新刊2冊を購入。

  吉見俊哉『ポスト戦後社会 シリーズ日本近現代史9』
  浜矩子『グローバル恐慌 金融暴走時代の果てに』

  丸善から東京駅まで歩く。買ったばかりの帽子を被ってみる。私が子どもの頃、大人の男たちはみんな帽子を被っていたような気がする。いまでは帽子を被った男は数十人に一人くらいの割合である。大人の男がだらしなく感じられるようになったのはいつ頃からだろうか。