以下は、あるネット上でのやりとりに対しての私のコメントの再掲です。
ある人が以下のような報告をしました。
電通総研が2000年に行った世界60カ国の調査にで、「もし戦争が起きたら国のために戦いますか」という質問に、「戦う」と答えた日本人は15%で最下位だった。その調査のブービーはドイツの33%だった。ちなみに中国89%、韓国74%だった。
これに対して別の人が以下のようなコメントを付けました。(幾分改行を改変)
私は 戦います 自分の家族 大切な人のために もし 命の危険にさらされたら
相手に対し 対抗する手段も問いません
でも 子どもにそれを勧められる? 難しいですね
自分の家族を愛する心=国を愛する心 そう考えたら 戦える
愛国心 もうすこし 浸透させてほしいですねえ
それを念頭において、私が付けたコメントが以下のものです。
私がもっと若くて壮健であっても、 戦争には行きません。
例え罪に問われても兵役拒否を行います。
国という抽象的なもののために人を殺したり自分が死んだりするのがイヤだからです。
具体的に見た日本という国はどうでしょう。
政治家が汚い手段で税金を私物化する日本国、平均サラリーマンの年収ほどのなんとか水を飲む大臣のいる日本国、官製談合を主導し利益を上げさせた会社に天下りし、二重三重に退職金を懐にする官僚が仕切る日本国、年金をやるといっておきながら5,000万件という天文学的数字を紛失させ、その後始末にまた巨額の税金を使う日本国、土建屋を儲けさせるためにやたら必要性の少ない箱物やダム、道路などをつくり、その利益を政治資金として環流させるシステムが出来上がっている日本国、この国のために命を捨てることが私には出来ません。
たとえ、「美しい国」とか、「愛国心」とかいう響きのいい言葉で飾り立てられてもです。
戦争に対する拒否感が日本がいちばん強く、次いでドイツだという事実は象徴的です。
日本はかつて天皇制の専制国家として、天皇のため、国のため、他国民を殺し、また自らも死ぬことを強要され、挙げ句の果ては原爆の被害に晒されるという歴史を持ち、また、ドイツは、ヒトラー独裁の全体主義国家として、ユダヤ人殲滅という悪行を実施し、自らも深く傷ついた歴史を持つからです。
それからもうひとつ、現代における戦争は、かつてのように、国と国が政治や経済の利害で対立し、その延長上で起こるという形態をとることは極めてまれなのです。
実際のところ、現在行われている戦争で、そうした国対国のものはほとんどありません。
ではどのような戦争かというと、いわゆる「テロとの戦い」という戦争で、これは国境を挟んでの戦争というより、宣戦布告もなく、ずるずると国境を越えてゆくもので(アメリカが今巻き込まれているのが象徴的ですが)、その意味では戦場は限定されず、世界中が戦場といえば戦場なのです。
そしてこのテロとの戦いは、現実のアメリカがそうであるように、テロと闘うと称している側自身が、多かれ少なかれ、一般市民を巻き込んだテロルとしてしか戦えないのです。
どのような名目を付けようが、戦争というのは、暴力で相手をねじ伏せることでしかありません。戦争に付されたあらゆる美談は、結局は暴力の普遍化を招くものです。
戦争やテロルに加担するのではなく、それらが生じる要因を例え何世紀かかろうが取り除く、それこそが人間の英知であり、そのためには、「愛国」などという無内容な言葉に乗せられてはいけないのです。
マッチ擦るつかのまの海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや (寺山修司)
Patrioizm is the last refuge of a scoundrel.
愛国心はゴロツキの最後の隠れ家だ。
(サミュエル・ジョンソン=18世紀イギリスの文豪)
ある人が以下のような報告をしました。
電通総研が2000年に行った世界60カ国の調査にで、「もし戦争が起きたら国のために戦いますか」という質問に、「戦う」と答えた日本人は15%で最下位だった。その調査のブービーはドイツの33%だった。ちなみに中国89%、韓国74%だった。
これに対して別の人が以下のようなコメントを付けました。(幾分改行を改変)
私は 戦います 自分の家族 大切な人のために もし 命の危険にさらされたら
相手に対し 対抗する手段も問いません
でも 子どもにそれを勧められる? 難しいですね
自分の家族を愛する心=国を愛する心 そう考えたら 戦える
愛国心 もうすこし 浸透させてほしいですねえ
それを念頭において、私が付けたコメントが以下のものです。
私がもっと若くて壮健であっても、 戦争には行きません。
例え罪に問われても兵役拒否を行います。
国という抽象的なもののために人を殺したり自分が死んだりするのがイヤだからです。
具体的に見た日本という国はどうでしょう。
政治家が汚い手段で税金を私物化する日本国、平均サラリーマンの年収ほどのなんとか水を飲む大臣のいる日本国、官製談合を主導し利益を上げさせた会社に天下りし、二重三重に退職金を懐にする官僚が仕切る日本国、年金をやるといっておきながら5,000万件という天文学的数字を紛失させ、その後始末にまた巨額の税金を使う日本国、土建屋を儲けさせるためにやたら必要性の少ない箱物やダム、道路などをつくり、その利益を政治資金として環流させるシステムが出来上がっている日本国、この国のために命を捨てることが私には出来ません。
たとえ、「美しい国」とか、「愛国心」とかいう響きのいい言葉で飾り立てられてもです。
戦争に対する拒否感が日本がいちばん強く、次いでドイツだという事実は象徴的です。
日本はかつて天皇制の専制国家として、天皇のため、国のため、他国民を殺し、また自らも死ぬことを強要され、挙げ句の果ては原爆の被害に晒されるという歴史を持ち、また、ドイツは、ヒトラー独裁の全体主義国家として、ユダヤ人殲滅という悪行を実施し、自らも深く傷ついた歴史を持つからです。
それからもうひとつ、現代における戦争は、かつてのように、国と国が政治や経済の利害で対立し、その延長上で起こるという形態をとることは極めてまれなのです。
実際のところ、現在行われている戦争で、そうした国対国のものはほとんどありません。
ではどのような戦争かというと、いわゆる「テロとの戦い」という戦争で、これは国境を挟んでの戦争というより、宣戦布告もなく、ずるずると国境を越えてゆくもので(アメリカが今巻き込まれているのが象徴的ですが)、その意味では戦場は限定されず、世界中が戦場といえば戦場なのです。
そしてこのテロとの戦いは、現実のアメリカがそうであるように、テロと闘うと称している側自身が、多かれ少なかれ、一般市民を巻き込んだテロルとしてしか戦えないのです。
どのような名目を付けようが、戦争というのは、暴力で相手をねじ伏せることでしかありません。戦争に付されたあらゆる美談は、結局は暴力の普遍化を招くものです。
戦争やテロルに加担するのではなく、それらが生じる要因を例え何世紀かかろうが取り除く、それこそが人間の英知であり、そのためには、「愛国」などという無内容な言葉に乗せられてはいけないのです。
マッチ擦るつかのまの海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや (寺山修司)
Patrioizm is the last refuge of a scoundrel.
愛国心はゴロツキの最後の隠れ家だ。
(サミュエル・ジョンソン=18世紀イギリスの文豪)