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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

師走と季節の感じ方。あなたは?

2007-12-01 04:32:23 | よしなしごと
 もう師走である。
 現世から取り残されているような私でも、師走と聞いただけで何やら忙しくなったような気がするから不思議である。これまでゆっくり流れてきた時間が、ここへ来て急に密度を濃くし、速度を上げはじめた感がするのだ。

 確かに、現実に年内中に済ませなければならないこと、済ませておきたいことなどがある。しかし、そうかといって実際に急に忙しくなったわけではないのである。

 

 私に関していうと、若干のお歳暮の手配(これとて送る先は年々減っている。来る方も減っているのだがこれは減って欲しくない)と、年賀状の作成と宛名書きぐらいが具体的な作業といえる。
 他に、特別な今年の都合としては、今勉強しているある思想家について、一応年内に一区切りを付けてしまい、年が改まったら、四月ににある会で報告するレポートに向けての勉強をはじめようと思っている。

 まあ、こうした行動予定などはともかく、この時期、ひとはどんな風に季節を感じるのだろうか。朝晩や戸外での寒さはそのひとつであろう。
 自然の彩りなどもそうではあろうが、とくに雪に出くわしたりしない限り、あまり確たるものはないのではないだろうか。

 これは、私の狭い範囲での見聞だが、上の写真のようにまっ赤なモミジが頑張っているかと思うと、その次の写真のように、なんと今なおアサガオも健在である(いずれも11月30日撮影)。

 


 というようなことになると、名古屋駅前に勤めている知人が言っていたのだが、駅のイルミネーションが点灯されると、「ああ、冬がやってきた」と感じるというのは実感であるのだろう。

 自然の推移が幾分怪しくなりはじめ、ひとの居住環境などから季節を感じるものが減少した今、そうした人工的なものが季節を告げているのかも知れない。

 

 しかし、本来は季節の変動がまずあって、それにひとの行事や仕草などが合わせられたことからいうと、なんだか奇妙な感じがしないこともない。時間というものを、一本の線上を過去から未来へ移動しているポイントのようなものとして表象し、それは測定可能なものだとする理解からする今日的な現象といえるのかも知れない。

    

 にもかかわらず、一方で、私たちはそうでない時間を知っていて、それが繰り返されながらも様々な差異をもつ季節という出来事の受容を可能にしているのだろうと思いたい。


時間についての一見分
 普通は、「あるはある」、「ないはない」であるが、時間に於いては「あるがない」、「ないがある」ことが生じる。
 普通は、「A=A」、「B=B」であるが時間に於いては「A=B」が可能になる。








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