前に、日記に、「あるはある」・「ないはない」が、「あるはない」・「ないがある」になるということが、時間という「できごと」であると書いた。
この一見ちんぷんかんぷんな言い方を、やはり前にも登場したわたしの定点観測、南京ハゼの変貌を通じて立証しようと言うのが今回の目論見である。
などという回りっくどいいかたはともかく、まずは、一〇日間を隔った同じ南京ハゼの樹をご覧頂きたい。
11月24日に撮影したそれは、まだ紅葉が未完のまま、白い果実を弾けさせていた。
最初の写真がその折りの姿である。
そして約一〇日を経た姿が以下である。
今年は気候のせいか、すっかり紅葉することなく、既に大半の葉が散ってしまっていた。例年なら、全ての葉が、深い赤紅色に染まった後に散るのだが、惜しいことである。
その代わり、別のショーが用意されていた。すっかり葉がなくなった梢近くで、つがいのキジバトがその実をついばんでいたのだ。
どちらが雄で、どちらが雌かは分からない。どちらも懸命にお食事中なのであった。
さて、冒頭に戻ろう。
葉の大半が散ってしまっていた。これが一〇日前に比べて、「あるはない」という事態が出現したことになる。
鳩がやってきた。これが「ないはある」という事態の表れである。
そしてこれが、「時間というできごと」の中味である。
なんだか、マギー一門のマジックのようになってきた。
めげずに続けよう。肝心なことは、この時間の推移、例えば季節の輪廻は、似通っていながら毎年異なり、常に人の予測を大なり小なり裏切ると言うことである。
その意味でも、「あるがなくなったり、ないがあったり」することとなる。
ここに私たちが、何か「全体的なもの」、例えば法則性のようなものに汲み尽くされはしないという時間の面白さ、あるいは、私たちが歴史を持ちうる根拠がある。
そしてそれに、そっと名付けてみる。「自由の可能性」と・・。
この一見ちんぷんかんぷんな言い方を、やはり前にも登場したわたしの定点観測、南京ハゼの変貌を通じて立証しようと言うのが今回の目論見である。
などという回りっくどいいかたはともかく、まずは、一〇日間を隔った同じ南京ハゼの樹をご覧頂きたい。
11月24日に撮影したそれは、まだ紅葉が未完のまま、白い果実を弾けさせていた。
最初の写真がその折りの姿である。
そして約一〇日を経た姿が以下である。
今年は気候のせいか、すっかり紅葉することなく、既に大半の葉が散ってしまっていた。例年なら、全ての葉が、深い赤紅色に染まった後に散るのだが、惜しいことである。
その代わり、別のショーが用意されていた。すっかり葉がなくなった梢近くで、つがいのキジバトがその実をついばんでいたのだ。
どちらが雄で、どちらが雌かは分からない。どちらも懸命にお食事中なのであった。
さて、冒頭に戻ろう。
葉の大半が散ってしまっていた。これが一〇日前に比べて、「あるはない」という事態が出現したことになる。
鳩がやってきた。これが「ないはある」という事態の表れである。
そしてこれが、「時間というできごと」の中味である。
なんだか、マギー一門のマジックのようになってきた。
めげずに続けよう。肝心なことは、この時間の推移、例えば季節の輪廻は、似通っていながら毎年異なり、常に人の予測を大なり小なり裏切ると言うことである。
その意味でも、「あるがなくなったり、ないがあったり」することとなる。
ここに私たちが、何か「全体的なもの」、例えば法則性のようなものに汲み尽くされはしないという時間の面白さ、あるいは、私たちが歴史を持ちうる根拠がある。
そしてそれに、そっと名付けてみる。「自由の可能性」と・・。