恋人でもない女性から、「六さん、この頃前屈みの姿勢が多いわよ」と言われてしまった。
「え? じゃあどうすればいいの?」と尋ねる私。
「そうね、おなかを腰の辺りからもっと突き出す感じにし、肩は少し後ろへ引いて、ある程度手を振って歩くのよ」
なるほど、そうすると確かに少し背筋が伸びた感じがする。
でも、同時に別の感じもするのだ。
「ねえ、これってなんだか威張って歩いてる感じじゃないですか」
「まあ、あんまり腹ばっかり突き出すとそうなるわね。でも、六さんはもう少し威張って歩いても良いのじゃない」
と、寛大なことをおっしゃる。

家にある柾(マサキ)に咲いた花。小さな地味な花だが、びっしり
花を付けるとそれなりに壮観。今年は花が多いようだ
以来、前屈みにならぬよう、また威張ったようにならぬよう、心しているのだがこの加減が難しい。そっちへ注意を集中すると、なんだか歩行そのものがばらばらになってしまう。
だいいち、いつもそれを意識して歩くわけには行かない。
でもって、気がつけばやはり前屈みで歩いていたりする。
ショーウインドウやビルのガラス窓などに映った自分の姿を見て密かに補正してみる。
歩くというきわめて日常的なことを、改めてコントロールすることは結構難しいのである。
それは、不眠の折に自分の呼吸をどう調整するかを意識したとたん、自然な呼吸が出来なくなってしまうことに似ている。その結果として、不眠がさらに継続したりする。

一つ一つの花はこんなに可愛い
若い頃はひたすら前屈みというより前傾姿勢で急ぎ足に歩いてきた。
その結果、視野が狭窄し、周りがよく見えなかった。
そして気づいたら、いくぶん凶悪でささくれ立った気持ちになっていた。
立ち止まることが出来たのは偶然か臆病のせいに過ぎない。
しかし、人はいつまでも立ち止まっていることは出来ない。
歩行は再開されたものの、もう足早にひたすら前進するわけには行かない。
少しシニカルに目を細めて前方を見ながら、すでにして、腰を引いた歩みしかしていなかったと思う。
こんな歩き方で、ルサンチマンを背負ったまま一生歩き続けるのかなと思ったこともあった。
しばらくして、振り返ってみるという手があることに気づいた。
自分の足跡を確かめながら、それをより普遍的なものや他者のそれと比べてみるという作業である。
手っ取り早くいうと、勉強し直すということであった。
もちろん、イロハのイから学び直すわけには行かないが、とりあえずはこれまで身につけたものを出来るだけ棚上げにして学び直すと言うことだった。
この折の歩みは遅々としてもどかしかったが、それなりに割とまっすぐに、しかも謙虚に歩いていたのではなかろうか。
その私が今、前屈みに歩いているという。
むろん加齢に依るところが大きいのであるが、同時に、キッと遠方を凝視してという視線をもう持ち得ないのではないかとも思う。
だから、確認するかのようについ足下に視線が落ちる。従って、前屈みになる。

もう盛りを過ぎたのか、木の下には散った花が散乱している
写真を撮ったときには気づかなかったのだが、
写真中央上部にダンゴムシ君がいらっしゃる
では、天を仰ぐというのはどうだろうか。
確かに姿勢は伸びそうだ。
しかし、若い人がこれを行った場合は、果てしなき天球へ向かっての無限の希望を象徴するかも知れないが、私がそれをしても、傍目には虚しく天を仰ぐ、つまり、諦観の姿勢にしか映らないのではなかろうか。
綺麗に磨かれたショーウインドウの前を、少し前屈みの老人が通りかかる。
ふと歩を緩めておのれの姿を確認し、やや修正して再び歩き出す。
口の端に少し、笑みが浮かぶ。
どうしてあのひとは私の姿勢に言及したのだろうかとふと思ったからだ。
まっ、いいか、その先を考えるのはよそう。
おっと、またまた前屈みになってしまった。
「え? じゃあどうすればいいの?」と尋ねる私。
「そうね、おなかを腰の辺りからもっと突き出す感じにし、肩は少し後ろへ引いて、ある程度手を振って歩くのよ」
なるほど、そうすると確かに少し背筋が伸びた感じがする。
でも、同時に別の感じもするのだ。
「ねえ、これってなんだか威張って歩いてる感じじゃないですか」
「まあ、あんまり腹ばっかり突き出すとそうなるわね。でも、六さんはもう少し威張って歩いても良いのじゃない」
と、寛大なことをおっしゃる。

家にある柾(マサキ)に咲いた花。小さな地味な花だが、びっしり
花を付けるとそれなりに壮観。今年は花が多いようだ
以来、前屈みにならぬよう、また威張ったようにならぬよう、心しているのだがこの加減が難しい。そっちへ注意を集中すると、なんだか歩行そのものがばらばらになってしまう。
だいいち、いつもそれを意識して歩くわけには行かない。
でもって、気がつけばやはり前屈みで歩いていたりする。
ショーウインドウやビルのガラス窓などに映った自分の姿を見て密かに補正してみる。
歩くというきわめて日常的なことを、改めてコントロールすることは結構難しいのである。
それは、不眠の折に自分の呼吸をどう調整するかを意識したとたん、自然な呼吸が出来なくなってしまうことに似ている。その結果として、不眠がさらに継続したりする。

一つ一つの花はこんなに可愛い
若い頃はひたすら前屈みというより前傾姿勢で急ぎ足に歩いてきた。
その結果、視野が狭窄し、周りがよく見えなかった。
そして気づいたら、いくぶん凶悪でささくれ立った気持ちになっていた。
立ち止まることが出来たのは偶然か臆病のせいに過ぎない。
しかし、人はいつまでも立ち止まっていることは出来ない。
歩行は再開されたものの、もう足早にひたすら前進するわけには行かない。
少しシニカルに目を細めて前方を見ながら、すでにして、腰を引いた歩みしかしていなかったと思う。
こんな歩き方で、ルサンチマンを背負ったまま一生歩き続けるのかなと思ったこともあった。
しばらくして、振り返ってみるという手があることに気づいた。
自分の足跡を確かめながら、それをより普遍的なものや他者のそれと比べてみるという作業である。
手っ取り早くいうと、勉強し直すということであった。
もちろん、イロハのイから学び直すわけには行かないが、とりあえずはこれまで身につけたものを出来るだけ棚上げにして学び直すと言うことだった。
この折の歩みは遅々としてもどかしかったが、それなりに割とまっすぐに、しかも謙虚に歩いていたのではなかろうか。
その私が今、前屈みに歩いているという。
むろん加齢に依るところが大きいのであるが、同時に、キッと遠方を凝視してという視線をもう持ち得ないのではないかとも思う。
だから、確認するかのようについ足下に視線が落ちる。従って、前屈みになる。

もう盛りを過ぎたのか、木の下には散った花が散乱している
写真を撮ったときには気づかなかったのだが、
写真中央上部にダンゴムシ君がいらっしゃる
では、天を仰ぐというのはどうだろうか。
確かに姿勢は伸びそうだ。
しかし、若い人がこれを行った場合は、果てしなき天球へ向かっての無限の希望を象徴するかも知れないが、私がそれをしても、傍目には虚しく天を仰ぐ、つまり、諦観の姿勢にしか映らないのではなかろうか。
綺麗に磨かれたショーウインドウの前を、少し前屈みの老人が通りかかる。
ふと歩を緩めておのれの姿を確認し、やや修正して再び歩き出す。
口の端に少し、笑みが浮かぶ。
どうしてあのひとは私の姿勢に言及したのだろうかとふと思ったからだ。
まっ、いいか、その先を考えるのはよそう。
おっと、またまた前屈みになってしまった。