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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

私の祖母は魔女だった。

2008-11-02 17:57:06 | 想い出を掘り起こす
 先頃、映画『西の魔女は死んだ』を観たがシャーリー・マクレーンの娘、サチ・パーカーが老け役を好演していた。この映画を観ながら、何か引っかかるものがあったのだが、それは私自身の祖母に関する思い出で、彼女もまた「魔女」だったのだ。
 今、生きていれば130歳以上になる筈だが、私が三十代の頃この世を去った。
 1944年、私と母は母の実家、つまりこの祖母のもとへ戦火を逃れて疎開して以来、数年間を共に過ごした。

 

 なぜ彼女が魔女であるかというと、それは単に私の思い入れではなく周辺からもそう見られていたからである。若い頃からいわゆる「巫女」として扱われ、霊感があるといわれていた。しかし、祖母は新興宗教の教祖のように自分からその見解を周囲に語ることは決してなかった。
 ただ、相談に来る人にはその運勢などを静かに占った。占いの修行をしたとは聞いていないので、いつしか周辺に占いが当たるという評判が立ち、祖母はそれに応じていたのだろう。
 あるとき、悩んだ株屋が売り買いの吉凶を訊きに来たという。それが当たったかどうか知らないが、謝礼に花瓶か何かをもらったように聞いた。

 

 彼女の本業は、占い師ではなく、いわゆる「木薬屋」であった。要するに漢方薬の知識を持っていたのだ。その知識があって、その延長として占いの方にまで需要が及んだのではないかと思う。えてして魔女とはそうしたものだ。
 納屋には沢山の植物が乾燥されて吊されていた。それぞれが効能別に分類されているようだったが、幼い私にはどれも枯れ草にしか見えなかった。

 村落の人たちが、やれ風邪を引いた、やれ腹痛がする、などといってやって来た。その都度祖母は、その症状に応じた薬草を渡し、その服用などを指導していたようだ。
 今でいえば立派な薬事法違反であるが、村落には医院も薬屋もなく、そのせいで重宝がられていたようだ。それに、報酬を金で受け取ったりはしなかったようだ。人々は自分の家の自慢の農産物などをもってその謝礼とした。

 

 私自身も何度かそのおかげを被った。主に風邪なのだが、常識に反して祖母は熱い風呂に入れて、その汗が引かぬうちにゲンノショウコかなんかの熱い煎じ薬をどんぶりに一杯飲ませた。
 子供には苦すぎるので、途中で躊躇すると、「全部飲まなきゃだめだ」と祖母の叱責が飛んだ。終生、私には優しい祖母だったが、こうしたときは怖かった。目をつぶって喉へ流し込んだ。
 そしてすぐ寝ろという。風呂上がりで熱いものをふうふういって飲んだばかりだから、布団にくるまると汗が流れ出る。それをタオル地でくるみながら私が寝付くまで祖母は傍らにいた。
 こんな荒療治ではあったが、私には効いた。翌朝にはケロッとして起き上がることが出来た。

 

 他にもう一度、魔女の恩恵を受けたことがある。私の大学受験の時であるが、その頃はもう別居していた祖母がわざわざ来てくれた。そして、私に受験票を出せという。それを出すと仏壇に掲げておもむろにお経など読み始めた。
 それが終わると受験票を返し、「お前は絶対受かる!」と宣言した。それを信じたわけではないが、実業学校出身での受験といういささかハードルが高いなかで不安がぬぐえなかった私にとっては、大いに励ましになったことは事実である。

 彼女の予言通りに受かった。
 「どうして分かったの?」と訊く私に、祖母曰く、「お前の受験番号が<イチヨイ>だったからだ」といった。なるほど、私の受験番号は141番で<イチヨイ>と読める。でもそれって占いじゃなくて洒落じゃんと思ったが、そうはいわなかった。
 何とか私を合格させたいという祖母の執拗な願いによるこじつけだということがよく分かっていたからである。

    

 私の祖母は間違いなく魔女であった。
 今と違って、肉体労働にのみ依拠する農家の主婦でありながら、なおかつ11人の子を産み(一人は死産)育て、その傍ら、人様の悩みや相談を受け、病を治す手助けをするなんて魔女以外の誰に出来ようか。
 もの静かであったその祖母の娘、私の母が病床にある。魔女よ、蘇りてわが母の苦境を救え!







コメント (2)
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