*写真は本文に関係ありません。晩秋の長良川です。
なぜかこのところ中国の小説を読む機会があり、二人の作家のものを立て続けに4冊読みました。
ただし、後で述べますように、これを厳密な意味で「中国の小説」といっていいかどうかは多少問題があるのですが。
きっかけは、山颯(シャン・サ Shan Sa)という女性の作家との出会いでした。
図書館の新規購入コーナーに彼女の作品があったのです。
『美しき傷』がそのタイトルでした。
パラパラとめくっていたら、登場人物のところに、主人公のアレキサンダーの家庭教師にアリストテレスが登場するとのことで、ちょうどそのアリストテレスについて若い人たちと読書会をしていることもあって、関心ををそそられたというのが発端です。
今やギリシャを征服し東征の旅に出たアレキサンダー大王と、草原を勇猛に駆けまわるアマゾネスの女王の運命的な出会いのこの物語には、アリストテレスはほとんどちょい出でさしたる役割も果たしていなかったのですが、小説そのものは壮大なスケールで結構面白く読めました。
こうなればというわけで、次いで読んだのが、『碁を打つ女』です。
これは、1937年当時の満州国の千風(なんだか最近よく聞く文字の組み合わせですが関係ありません)という町の広場で、人々が碁を打ちに集まるのですが、その中にひとりだけ若い女性がいて、それがなかなかの打ち手なのです。
さらにそこへ若い男が現れ、彼女と対局するのですが、こちらもなかなかの打ち手で、このふたりはそれぞれの背景を持ちながらも、この広場でのひととき、碁盤を挟んで出会うのです。
この小説は、碁そものが黒と白との交互の打ち合いであるように、二人の主人公の交互の独白という形で進みます。
これは冒頭から私たち読者には明かされているのですが、女性は抗日運動に連なっていて、また男性は抗日分子の動向を探る日本軍の諜報を担う青年将校なのです。
二人は、それぞれ相手の素性を知らぬまま惹かれ合って・・・。
私は小説の評論などは苦手ですが、シャン・サの叙述で感心するのは、30代の女性なのに、日本の旧軍隊や、日本国内での風俗習慣などについてよく勉強しているということです。
日本の30代の女性は、よほど勉強しないと当時の日本をこれほど自然に描けないでしょう。
さらにもう一作と読んだのが、『天安門』でした。
これは文字通り、天安門事件で当局から追われる若い女性の物語です。
これもまた、彼女を追う部隊の責任者である若い中尉がからみます。
彼は、彼女の家の家宅捜査で手に入れた彼女の日記を読むうちに、彼女をどこかで理解し、許容するようにすらなってゆきます。そして・・。
これはある意味で作家シャン・サの実体験と重なります。というのは、彼女は天安門事件の折りは高校生だったのですが民主化運動に関わり、弾圧の強化を逃れてスイスに脱出した経歴があるからです。
その後彼女はフランスに住まいを移し、画家バルテュスのもとでアシスタントとして働き、その折、バルテュスの家族とも親交を結ぶのですが、そのバルテュス夫人は、節子クロソフスカ=ド=ローラ(旧姓・出田)といい、日本出身の女性でした。
先に見た、『碁を打つ女』の日本に関する叙述の確かさは、この節子さんのレクチャーによるものではないでしょうか。
最初に述べた、これを厳密な意味で「中国の小説」といっていいかどうかは多少問題があるというのはフランスで書かれたものだということを指しています。さらには、これらの小説は、全てフランス語で書かれています。
私が読んだ順番は、皮肉にも発表されたのとは逆なのです。
なお彼女にはもうひとつ翻訳されている作品があり、これは『女帝 わが名は則天武后』というものなのですが、図書館では貸し出し中でまだお目にかかれません。
その代わりといっては作者に失礼なのですが、今度は男性作家、ダイ・シージエの『フロイトの弟子と旅する長椅子』という作品を借りてきました。
この作家の名前に心当たりのある人はかなりの映画通です。というのは、彼のもうひとつの翻訳されている作品は『バルザックと小さな中国のお針子』といい、これは、『中国の小さなお針子』(2002)という映画の原作なのです。
というか、この小説のヒットの勢いをかって、作家自らが監督としてメガホンをとったのがこの映画なのです。
さて、『フロイトの弟子と旅する長椅子』に戻りましょう。
主人公は中国で最初の精神分析医を名乗る男性ですが、内容はフロイトとはあまり関係がありません。前作の『バルザックと小さな中国のお針子』がそれなりにシリアスであったのに対し、この作品はたいそうコミカルに書かれています。
ここで笑いの対象とされているのは、文革や天安門事件を経由してもなおはびこる党官僚を中心とした旧態然とした支配の構造であるわけですが、それに止まらず、そうした硬直した体制の外にあるかのようにしてそれを見下しているいわゆる知識人の非力さと非現実的なありようでもあります。
ようするに、体制そのものと、その批判者とに対する二正面攻撃なのです。
そしてその批判者の側とは、この小説の主人公の精神分析医・莫(モー)氏であり、作者そのものが属する知識人層そのものなのです。結果としてこの小説は、自嘲ともいえるシニカルなものたらざるを得ません。
実はこの作家、ダイ・シージエも前作の『お針子』が示すように、文革時に農山村に下放(知識人などを再教育として農村村などへ追放した文革時の施策)され、その後フランスへと出国し、これまた、フランス語でこれらの小説を書いているのです。
したがって、私の読んだ四つの作品が厳密な意味で「中国の小説」かどうかという冒頭での疑問符はまたもや残るわけです。
文学に疎い私には、これが文学なのかエンターティメントなのかは分かりませんし、そんな区分が有効だとも思っていません(麻生氏のように浅薄なキャラやファッションのみを言い立てるのでなければ、マンガもまた、ある種のインパクトを持っているはずです)が、しかし、これらの小説のそれぞれが、現実的な重力または磁力のようなもののうちで書かれているという事実は否めません。
これらの小説と、私が野次馬根性で覗いてみる、日本でなんとか賞を取ったものと比べてみると、日本のそれは、時代のファッションは散りばめてあるものの、幾分、私小説的なものへと後退しているのではないかと思えてしまうのです。
もちろんこれは、文学や小説がなんたるかをわきまえない、いささか粗暴な感想に過ぎません。
私としては、例え身辺の事柄を描いていても、そこに通時的(歴史的)なものや共時的(世界的)なものが現出しているものが好みです。いささか飛躍したいい方をすれば、私の自己同一性を常に揺るがせ、その他性へと誘うものが歴史という時間がもたらす差異であり、世界という空間の広がりがもたらす差異であると思うからです。
*最近読んだ日本の小説で、そうした広がりを持つものとして面白かったのは、黒川 創の『かもめの日 』( 新潮社)です。初出の『新潮』2008年2月号掲載時に、感想を以下のように書きました。
http://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20080112
なぜかこのところ中国の小説を読む機会があり、二人の作家のものを立て続けに4冊読みました。
ただし、後で述べますように、これを厳密な意味で「中国の小説」といっていいかどうかは多少問題があるのですが。
きっかけは、山颯(シャン・サ Shan Sa)という女性の作家との出会いでした。
図書館の新規購入コーナーに彼女の作品があったのです。
『美しき傷』がそのタイトルでした。
パラパラとめくっていたら、登場人物のところに、主人公のアレキサンダーの家庭教師にアリストテレスが登場するとのことで、ちょうどそのアリストテレスについて若い人たちと読書会をしていることもあって、関心ををそそられたというのが発端です。
今やギリシャを征服し東征の旅に出たアレキサンダー大王と、草原を勇猛に駆けまわるアマゾネスの女王の運命的な出会いのこの物語には、アリストテレスはほとんどちょい出でさしたる役割も果たしていなかったのですが、小説そのものは壮大なスケールで結構面白く読めました。
こうなればというわけで、次いで読んだのが、『碁を打つ女』です。
これは、1937年当時の満州国の千風(なんだか最近よく聞く文字の組み合わせですが関係ありません)という町の広場で、人々が碁を打ちに集まるのですが、その中にひとりだけ若い女性がいて、それがなかなかの打ち手なのです。
さらにそこへ若い男が現れ、彼女と対局するのですが、こちらもなかなかの打ち手で、このふたりはそれぞれの背景を持ちながらも、この広場でのひととき、碁盤を挟んで出会うのです。
この小説は、碁そものが黒と白との交互の打ち合いであるように、二人の主人公の交互の独白という形で進みます。
これは冒頭から私たち読者には明かされているのですが、女性は抗日運動に連なっていて、また男性は抗日分子の動向を探る日本軍の諜報を担う青年将校なのです。
二人は、それぞれ相手の素性を知らぬまま惹かれ合って・・・。
私は小説の評論などは苦手ですが、シャン・サの叙述で感心するのは、30代の女性なのに、日本の旧軍隊や、日本国内での風俗習慣などについてよく勉強しているということです。
日本の30代の女性は、よほど勉強しないと当時の日本をこれほど自然に描けないでしょう。
さらにもう一作と読んだのが、『天安門』でした。
これは文字通り、天安門事件で当局から追われる若い女性の物語です。
これもまた、彼女を追う部隊の責任者である若い中尉がからみます。
彼は、彼女の家の家宅捜査で手に入れた彼女の日記を読むうちに、彼女をどこかで理解し、許容するようにすらなってゆきます。そして・・。
これはある意味で作家シャン・サの実体験と重なります。というのは、彼女は天安門事件の折りは高校生だったのですが民主化運動に関わり、弾圧の強化を逃れてスイスに脱出した経歴があるからです。
その後彼女はフランスに住まいを移し、画家バルテュスのもとでアシスタントとして働き、その折、バルテュスの家族とも親交を結ぶのですが、そのバルテュス夫人は、節子クロソフスカ=ド=ローラ(旧姓・出田)といい、日本出身の女性でした。
先に見た、『碁を打つ女』の日本に関する叙述の確かさは、この節子さんのレクチャーによるものではないでしょうか。
最初に述べた、これを厳密な意味で「中国の小説」といっていいかどうかは多少問題があるというのはフランスで書かれたものだということを指しています。さらには、これらの小説は、全てフランス語で書かれています。
私が読んだ順番は、皮肉にも発表されたのとは逆なのです。
なお彼女にはもうひとつ翻訳されている作品があり、これは『女帝 わが名は則天武后』というものなのですが、図書館では貸し出し中でまだお目にかかれません。
その代わりといっては作者に失礼なのですが、今度は男性作家、ダイ・シージエの『フロイトの弟子と旅する長椅子』という作品を借りてきました。
この作家の名前に心当たりのある人はかなりの映画通です。というのは、彼のもうひとつの翻訳されている作品は『バルザックと小さな中国のお針子』といい、これは、『中国の小さなお針子』(2002)という映画の原作なのです。
というか、この小説のヒットの勢いをかって、作家自らが監督としてメガホンをとったのがこの映画なのです。
さて、『フロイトの弟子と旅する長椅子』に戻りましょう。
主人公は中国で最初の精神分析医を名乗る男性ですが、内容はフロイトとはあまり関係がありません。前作の『バルザックと小さな中国のお針子』がそれなりにシリアスであったのに対し、この作品はたいそうコミカルに書かれています。
ここで笑いの対象とされているのは、文革や天安門事件を経由してもなおはびこる党官僚を中心とした旧態然とした支配の構造であるわけですが、それに止まらず、そうした硬直した体制の外にあるかのようにしてそれを見下しているいわゆる知識人の非力さと非現実的なありようでもあります。
ようするに、体制そのものと、その批判者とに対する二正面攻撃なのです。
そしてその批判者の側とは、この小説の主人公の精神分析医・莫(モー)氏であり、作者そのものが属する知識人層そのものなのです。結果としてこの小説は、自嘲ともいえるシニカルなものたらざるを得ません。
実はこの作家、ダイ・シージエも前作の『お針子』が示すように、文革時に農山村に下放(知識人などを再教育として農村村などへ追放した文革時の施策)され、その後フランスへと出国し、これまた、フランス語でこれらの小説を書いているのです。
したがって、私の読んだ四つの作品が厳密な意味で「中国の小説」かどうかという冒頭での疑問符はまたもや残るわけです。
文学に疎い私には、これが文学なのかエンターティメントなのかは分かりませんし、そんな区分が有効だとも思っていません(麻生氏のように浅薄なキャラやファッションのみを言い立てるのでなければ、マンガもまた、ある種のインパクトを持っているはずです)が、しかし、これらの小説のそれぞれが、現実的な重力または磁力のようなもののうちで書かれているという事実は否めません。
これらの小説と、私が野次馬根性で覗いてみる、日本でなんとか賞を取ったものと比べてみると、日本のそれは、時代のファッションは散りばめてあるものの、幾分、私小説的なものへと後退しているのではないかと思えてしまうのです。
もちろんこれは、文学や小説がなんたるかをわきまえない、いささか粗暴な感想に過ぎません。
私としては、例え身辺の事柄を描いていても、そこに通時的(歴史的)なものや共時的(世界的)なものが現出しているものが好みです。いささか飛躍したいい方をすれば、私の自己同一性を常に揺るがせ、その他性へと誘うものが歴史という時間がもたらす差異であり、世界という空間の広がりがもたらす差異であると思うからです。
*最近読んだ日本の小説で、そうした広がりを持つものとして面白かったのは、黒川 創の『かもめの日 』( 新潮社)です。初出の『新潮』2008年2月号掲載時に、感想を以下のように書きました。
http://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20080112