「朋有来遠方 亦楽乎」
麻生首相なら、「明るく有るなら来ても遠方 赤楽しく呼ぶ」と読みそうですね。
毎月一度会って勉強させていただいている仲間の方たちが5人、名古屋から来てくれました。
もうお一人は北方ですからやや近いのですが、私を含めて総勢7人です。
しかしもう、名古屋は遠方ではないんですね。
JRの快速でわずか18分、これでは岐阜が名古屋のベッドタウンになるはずです。

岐阜駅から西を 岐阜一の高層ビル
まあ、それはともかく、岐阜ならではのところがあればと出かけたのですが、岐阜は岐阜でも南方人の私は北部は苦手と来ています。
さいわい、一行の中のM・Iさんが先般下見をして置いてくれましたので、相談しながらコースを定め、まずは大仏殿へと。
この大仏様、大きさでは奈良、鎌倉と遜色なく、日本三大仏のひとつなどといったりするのですが、木材や竹などに経文を貼り付け漆や金箔で仕上げた、いわゆる籠大仏なのであまり珍重されないのだそうです。加えて、年代的にもやや新しいからでしょうね。それでも、13年の年月をかけて1832年に完成したのだそうですよ。

もっとも、この地の名産が和傘や提灯であることからすると、籠大仏と軽く見られようと、それはそれで岐阜らしくていいのではないでしょうか。

遠足の生徒が集合写真を撮る定番の噴水
すぐ近くの岐阜公園へ移り、折りからの菊花展を見ながら、板垣退助さんの銅像とご対面。
この銅像、演説の最中、彼がこの地で暴漢に刺されたからとのことですが、その折、彼が言ったという「板垣死すとも自由は死せず」という台詞は有名ですね。
ただし、これには異説があって、そう語ったことは語ったがそれは後日の演説の中でだというのです。
まあ、その方が現実的でしょうね。
刺された瞬間は、「痛い、痛い、助けてくれ!」と、例えば私なら言うことでしょう。

この板垣退助の治療に駆けつけたのは、その頃、名古屋で医師をしていたの後藤新平だと一行の中の物知りが教えてくれました。
帰って調べるとその通りで、その診察の折り板垣退助は、「かかる人物が政治家にならないのは惜しい」と語ったそうですが、果たせるかな後藤新平は、後日、政府の高官や東京市長(都知事ではない)を歴任したというからこの二人の出会いは面白いですね。
ちなみに、この後藤新平は、鶴見俊輔氏や鶴見和子さんの祖父に当たるそうです。
次いで行ったのは、信長館跡の発掘現場です。
この館、金華山麓の「千畳敷」という辺りにあったということで、イエズス会のフロイスの記述にもかなり詳細に記されているのですが、残念ながらここと断定できる地点は分かっていません。
ただし周辺で、居住地周囲を示す石組みや庭園跡と思われる箇所が次第に明らかになり、それらしき遺物もちらほら出土しているので、気長に探索すれば、やがて確認できることでしょう。
ただし、気になるのは、そうした遺跡が確認されない前に、それらの場所にかなりの建造物などが出来てしまっていることです。それが、ロープウエイの駅などですから、今さら壊すことは大変でしょうね。
いずれにしても、16世紀末、約400年前の歴史の一端がこの足下に埋まっているのかと思うと不思議にこの土地が懐かしく思えるのでした。

続いて、川原町という町屋がかなり密集して残っている一角へ行き、まずは西のはずれに近い「泉屋」というお店で腹ごしらえをしました。
鮎を始め、桜ばえや味女ドジョウなど淡水魚の加工をする傍ら、食事を提供する店で、店の前は何度か通ったものの中へ入ったことがないので一抹の不安がありましたが、味、ボリュウムとも十分で、やはり海なし県の岐阜ではこうしたものを食すべきだろうと思いました。
食事の後、一行の中にはお土産で魚の加工品を求める人もいらっしゃったので、まあまあ、満足していただけたのではないかと思います。

さらに川原町筋を散策しました。
町屋の造りは軟らかな木材の質感をもちながら、同時に歴史の重みを感じさせるものがあります。
町屋の造りを内部から見ることが出来る「川原町屋」さんを見学させてもらうことにしました。
高い吹き抜けと明かり取りの天窓、間口の割に奥行きのある建物の途中には趣のある坪庭、そして突き当たりは蔵と、それがこの辺りの町屋の典型であるようです。

「川原町屋」の裏側
この「川原町屋」は、かなり荒れていた町屋に手を入れて、その原形を留めながらそれを生かした店を営んでいることで知られています。
ならべられた商品の和物の人形や小ものは美しく可愛いものがあります。
そして突き当たりの蔵は、カフェになっているのですが、同時にギャラリーであり、時にはライブの会場にもなります。
はじめは見学のみのつもりだったのですが、やはりお茶をしようということになりまたまた話が弾むことに。

メイプルシロップが採れるサトウカエデの紅葉と戯れる童女二人
右上方に金華山と岐阜城
その後、町並みを通り抜け、かつての川港、今は鵜飼いの観覧船などの乗り場になっているところへと至りました。
鵜飼いのシーズンだと午後のその時刻は、観覧船に乗る客やそれを送迎するバスなどで賑わっているのですが、シーズンオフの今はとても静かです。
河畔にある歌碑などを見た後、岐阜駅に戻りました。

町屋の間から見える金華山と岐阜城
終日、好天でとても気持ち良く歩けました。
気心が知れていて、それぞれの分野で活躍し、物知りが多い一行の話は、聞いているだけで随分勉強になりました。
そして、自分の住む岐阜という街について、改めて知ったこともかなりありました。
ともすれば名古屋の日陰になりがちな街ですが、それ自身の良さを見出し、生かして行くことが出来れば、いい街になると思います。
もともと、情が厚くて住みやすい街なのですから。
未曾有(みぞうゆう)の不況の中ですが、伝統を踏襲(ふしゅう)しながら頑張って欲しいものです。
*( )内は、麻生氏の実際の読みにならいました。
<解説>表題の「おんさった」は「きんさった」の敬語です。
後者は「来た」ですが、前者は「いらっしゃった」になります。
もちろん、れっきとした岐阜の標準語です。
麻生首相なら、「明るく有るなら来ても遠方 赤楽しく呼ぶ」と読みそうですね。
毎月一度会って勉強させていただいている仲間の方たちが5人、名古屋から来てくれました。
もうお一人は北方ですからやや近いのですが、私を含めて総勢7人です。
しかしもう、名古屋は遠方ではないんですね。
JRの快速でわずか18分、これでは岐阜が名古屋のベッドタウンになるはずです。

岐阜駅から西を 岐阜一の高層ビル
まあ、それはともかく、岐阜ならではのところがあればと出かけたのですが、岐阜は岐阜でも南方人の私は北部は苦手と来ています。
さいわい、一行の中のM・Iさんが先般下見をして置いてくれましたので、相談しながらコースを定め、まずは大仏殿へと。
この大仏様、大きさでは奈良、鎌倉と遜色なく、日本三大仏のひとつなどといったりするのですが、木材や竹などに経文を貼り付け漆や金箔で仕上げた、いわゆる籠大仏なのであまり珍重されないのだそうです。加えて、年代的にもやや新しいからでしょうね。それでも、13年の年月をかけて1832年に完成したのだそうですよ。

もっとも、この地の名産が和傘や提灯であることからすると、籠大仏と軽く見られようと、それはそれで岐阜らしくていいのではないでしょうか。

遠足の生徒が集合写真を撮る定番の噴水
すぐ近くの岐阜公園へ移り、折りからの菊花展を見ながら、板垣退助さんの銅像とご対面。
この銅像、演説の最中、彼がこの地で暴漢に刺されたからとのことですが、その折、彼が言ったという「板垣死すとも自由は死せず」という台詞は有名ですね。
ただし、これには異説があって、そう語ったことは語ったがそれは後日の演説の中でだというのです。
まあ、その方が現実的でしょうね。
刺された瞬間は、「痛い、痛い、助けてくれ!」と、例えば私なら言うことでしょう。

この板垣退助の治療に駆けつけたのは、その頃、名古屋で医師をしていたの後藤新平だと一行の中の物知りが教えてくれました。
帰って調べるとその通りで、その診察の折り板垣退助は、「かかる人物が政治家にならないのは惜しい」と語ったそうですが、果たせるかな後藤新平は、後日、政府の高官や東京市長(都知事ではない)を歴任したというからこの二人の出会いは面白いですね。
ちなみに、この後藤新平は、鶴見俊輔氏や鶴見和子さんの祖父に当たるそうです。
次いで行ったのは、信長館跡の発掘現場です。
この館、金華山麓の「千畳敷」という辺りにあったということで、イエズス会のフロイスの記述にもかなり詳細に記されているのですが、残念ながらここと断定できる地点は分かっていません。
ただし周辺で、居住地周囲を示す石組みや庭園跡と思われる箇所が次第に明らかになり、それらしき遺物もちらほら出土しているので、気長に探索すれば、やがて確認できることでしょう。
ただし、気になるのは、そうした遺跡が確認されない前に、それらの場所にかなりの建造物などが出来てしまっていることです。それが、ロープウエイの駅などですから、今さら壊すことは大変でしょうね。
いずれにしても、16世紀末、約400年前の歴史の一端がこの足下に埋まっているのかと思うと不思議にこの土地が懐かしく思えるのでした。

続いて、川原町という町屋がかなり密集して残っている一角へ行き、まずは西のはずれに近い「泉屋」というお店で腹ごしらえをしました。
鮎を始め、桜ばえや味女ドジョウなど淡水魚の加工をする傍ら、食事を提供する店で、店の前は何度か通ったものの中へ入ったことがないので一抹の不安がありましたが、味、ボリュウムとも十分で、やはり海なし県の岐阜ではこうしたものを食すべきだろうと思いました。
食事の後、一行の中にはお土産で魚の加工品を求める人もいらっしゃったので、まあまあ、満足していただけたのではないかと思います。

さらに川原町筋を散策しました。
町屋の造りは軟らかな木材の質感をもちながら、同時に歴史の重みを感じさせるものがあります。
町屋の造りを内部から見ることが出来る「川原町屋」さんを見学させてもらうことにしました。
高い吹き抜けと明かり取りの天窓、間口の割に奥行きのある建物の途中には趣のある坪庭、そして突き当たりは蔵と、それがこの辺りの町屋の典型であるようです。

「川原町屋」の裏側
この「川原町屋」は、かなり荒れていた町屋に手を入れて、その原形を留めながらそれを生かした店を営んでいることで知られています。
ならべられた商品の和物の人形や小ものは美しく可愛いものがあります。
そして突き当たりの蔵は、カフェになっているのですが、同時にギャラリーであり、時にはライブの会場にもなります。
はじめは見学のみのつもりだったのですが、やはりお茶をしようということになりまたまた話が弾むことに。

メイプルシロップが採れるサトウカエデの紅葉と戯れる童女二人
右上方に金華山と岐阜城
その後、町並みを通り抜け、かつての川港、今は鵜飼いの観覧船などの乗り場になっているところへと至りました。
鵜飼いのシーズンだと午後のその時刻は、観覧船に乗る客やそれを送迎するバスなどで賑わっているのですが、シーズンオフの今はとても静かです。
河畔にある歌碑などを見た後、岐阜駅に戻りました。

町屋の間から見える金華山と岐阜城
終日、好天でとても気持ち良く歩けました。
気心が知れていて、それぞれの分野で活躍し、物知りが多い一行の話は、聞いているだけで随分勉強になりました。
そして、自分の住む岐阜という街について、改めて知ったこともかなりありました。
ともすれば名古屋の日陰になりがちな街ですが、それ自身の良さを見出し、生かして行くことが出来れば、いい街になると思います。
もともと、情が厚くて住みやすい街なのですから。
未曾有(みぞうゆう)の不況の中ですが、伝統を踏襲(ふしゅう)しながら頑張って欲しいものです。
*( )内は、麻生氏の実際の読みにならいました。
<解説>表題の「おんさった」は「きんさった」の敬語です。
後者は「来た」ですが、前者は「いらっしゃった」になります。
もちろん、れっきとした岐阜の標準語です。