今年の【重大ニュース】と感想など

■東北大震災について
自然の力は偉大であり、つねに想定外だということ。
自然のみならず、社会現象も含め、全ての事態を必然性のうちに取り込むことはできないということ。
■原発事故について
今なお不確かな技術をその危険性を指摘していた良心的学者の警告も振り切って経済効率のみからして推し進めてきた全くの「人災」であること。
結果として将来何十年にわたって人の住めない地域を生み出すなど、経済的にも破綻した技術であることが証明されたこと。
科学は慎重にも慎重な実験と検証の結果を経てはじめて技術として適応さるべきで、原発のようにその廃棄物処理の方法すらなく、ひとたび事故が起これば取り返しのつかないものを安易に現実化すべきではないこと。
自動車だって交通事故を起こすではないかという問題とは全く次元を異にする問題であること。
■民主党政権について
「官僚主導の小役人内閣」といって閣僚を辞したひとがいるが言い得て妙であること。
多くの人がこの政権に期待したものは、官僚主導の政治からそれを国民に取り戻すことであったが、しかし結果は見るも無残でしかないこと。
かといって財界とべったりの自民復帰もいやだということ。
ひとは橋下や河村を批判するが、こと公約への熱意や執念においては彼らは「小役人内閣」の比ではないということ。
彼らはある種のデーモンを内包しているかも知れないこと。
それでも「官僚主導の小役人内閣」よりましなのではないかということ。
そのデーモン化しそうな面への監視を怠らずどう付き合うかということ。

■私の中国・山西省への旅
社会主義の看板を掲げたスーパー資本主義として発展著しい中国だが、そうした動向に激しく揺さぶられながらも、かつての農業文明の歴史のうちにいまなおあるような山西省の山村へ行ってきた。
もちろんこれらの村々にも幾多の歴史がある。
こんなところにどうしてと思うのだが、日本兵が押し寄せ、村人273名が一挙に犠牲になったというヤオトンとそれに続く洞窟も見てきた。
紅衛兵が押し寄せ、鴟尾などの装飾を迷信として壊して歩いた跡も見た。
しかし、それらは長い目で見たら一過性であったのかも知れない。
それらに比べ、今回の急速な資本主義化はそうした一過性のものにはとどまらず、山村を根底から変えてしまうだろう。事実、山の村にはもはやほとんど老人と子供しかいない。
貨幣経済の荒波のなかで、半分自給自足のようなのどかな山村の暮らしがそんなにいつまでもは続くとは思えない。
そうした山の村々とそこに暮らす人々の姿や佇まいを、このまなこと胸に刻みつけてきた。
それにしても人間の暮らしはなんと多様性に満ちていることだろう。
ちまちまとした自己の経験のみから「人間とは」とか「歴史とは」とか、あるいは「世の中とは」と語り、それを前提として蛸壺のようなひとつの物語を形成し、もって自己同一性の証とすることの愚かしさを自戒したいものだ。
来年も老眼を見開いていたい。「もはや見るべきものは見つ」などといっていられないほど世界は動き続けている。
願わくば、六道の衆生すべからくに幸あれ!

■東北大震災について
自然の力は偉大であり、つねに想定外だということ。
自然のみならず、社会現象も含め、全ての事態を必然性のうちに取り込むことはできないということ。
■原発事故について
今なお不確かな技術をその危険性を指摘していた良心的学者の警告も振り切って経済効率のみからして推し進めてきた全くの「人災」であること。
結果として将来何十年にわたって人の住めない地域を生み出すなど、経済的にも破綻した技術であることが証明されたこと。
科学は慎重にも慎重な実験と検証の結果を経てはじめて技術として適応さるべきで、原発のようにその廃棄物処理の方法すらなく、ひとたび事故が起これば取り返しのつかないものを安易に現実化すべきではないこと。
自動車だって交通事故を起こすではないかという問題とは全く次元を異にする問題であること。
■民主党政権について
「官僚主導の小役人内閣」といって閣僚を辞したひとがいるが言い得て妙であること。
多くの人がこの政権に期待したものは、官僚主導の政治からそれを国民に取り戻すことであったが、しかし結果は見るも無残でしかないこと。
かといって財界とべったりの自民復帰もいやだということ。
ひとは橋下や河村を批判するが、こと公約への熱意や執念においては彼らは「小役人内閣」の比ではないということ。
彼らはある種のデーモンを内包しているかも知れないこと。
それでも「官僚主導の小役人内閣」よりましなのではないかということ。
そのデーモン化しそうな面への監視を怠らずどう付き合うかということ。

■私の中国・山西省への旅
社会主義の看板を掲げたスーパー資本主義として発展著しい中国だが、そうした動向に激しく揺さぶられながらも、かつての農業文明の歴史のうちにいまなおあるような山西省の山村へ行ってきた。
もちろんこれらの村々にも幾多の歴史がある。
こんなところにどうしてと思うのだが、日本兵が押し寄せ、村人273名が一挙に犠牲になったというヤオトンとそれに続く洞窟も見てきた。
紅衛兵が押し寄せ、鴟尾などの装飾を迷信として壊して歩いた跡も見た。
しかし、それらは長い目で見たら一過性であったのかも知れない。
それらに比べ、今回の急速な資本主義化はそうした一過性のものにはとどまらず、山村を根底から変えてしまうだろう。事実、山の村にはもはやほとんど老人と子供しかいない。
貨幣経済の荒波のなかで、半分自給自足のようなのどかな山村の暮らしがそんなにいつまでもは続くとは思えない。
そうした山の村々とそこに暮らす人々の姿や佇まいを、このまなこと胸に刻みつけてきた。
それにしても人間の暮らしはなんと多様性に満ちていることだろう。
ちまちまとした自己の経験のみから「人間とは」とか「歴史とは」とか、あるいは「世の中とは」と語り、それを前提として蛸壺のようなひとつの物語を形成し、もって自己同一性の証とすることの愚かしさを自戒したいものだ。
来年も老眼を見開いていたい。「もはや見るべきものは見つ」などといっていられないほど世界は動き続けている。
願わくば、六道の衆生すべからくに幸あれ!