私がある種の廃屋フェチだということはもう何度も述べてきました。
寒いけど天候には恵まれた師走の一日、定期的に観察している廃屋のひとつを訪れました。
今年は柿の生り年か、大小二本の柿の木はたわわに実をつけていました。しかしその間にある家はもう殆ど全壊状態に近いほど崩れ落ちていました。

これをほぼ同じアングルから撮した三年前のやはり12月の写真とお比べいただくとよくお分かりいただけるだろうと思います。その折にはまだ家の輪郭はかろうじて保たれていました。
また、三年前に比べ今年の柿の実の付き方がはるかに多いこともお分かりいただけるでしょう。

上の写真の三年前です 時間が見えますね
さて、私がなぜ廃屋に惹かれるのかは自分ではよくわからないのですが、そのひとつのルーツは小学校の高学年か中学生の頃覚えた唱歌の「故郷の廃家」にあるようです。
この物悲しい歌はなぜかわたしの胸をうつものがあったのです。
幾年(いくとせ)ふるさと、来てみれば、
咲く花鳴く鳥、そよぐ風、
門辺(かどべ)の小川の、ささやきも、
なれにし昔に、変らねど、
あれたる我家(わがいえ)に、
住む人絶えてなく。
昔を語るか、そよぐ風、
昔をうつすか、澄める水、
朝夕かたみに、手をとりて、
遊びし友人(ともびと)、いまいずこ、
さびしき故郷(ふるさと)や、
さびしき我家(わがいえ)や。
というのがその歌詞ですが、作詞は犬童球渓(いんどうきゅうけい)です。そして作曲はウィリアム=ヘイス(W.S.Hays )というケンタッキー出身のアメリカ人だそうです。
なお、この犬童球渓というひとは、やはり物悲しさが漂う「旅愁」の作詞者でもあります。なおこちらの方の作曲はジョン・P・オードウェイ(John P. Ordway)といい、やはりアメリカの作曲家です。
さて、「故郷の廃家」ですが、後年知ったことによるとこの歌の哀愁を引き立たせるもう一つのエピソードがあります。
それはすぐる大戦の末期、硫黄島での戦争で日本軍はまたしても無謀な玉砕を敢行し、20,000名余の戦死者(あの小さな島でですよ)を出すのですが、そのうちに少なからずの少年兵たちが居たというのです。
彼らは昼は米軍の猛攻を逃れて洞窟に身を潜めているのですが、夕刻、攻撃が止むと洞窟を出て、故郷の方角を向きこもごもこの歌を合唱したというのです。しかしやがて、彼らの歌声も戦火によって完全にかき消されていったのでした。
こうした事柄がない混ぜになって私に廃屋への関心をもたらしているのかも知れません。重ねて私自身の自出に関わる思いも多少はあるのかも知れません。

ところで、もう一箇所、私がウオッチングを続けている廃屋があります。
最初の写真は数年前のものです。
そして次のものは一昨年のもので、家を覆っていた草木はある程度取り払われています。そして横手に通じる細道には人の往来しているような跡がありました。ひょっとして誰かが住んでいるかも知れない感じがあるのです。住んでいなくとも出入りはあるようです。
そんなこともあって、あまり嗅ぎ回らないことにしていますが、そろそろどうなったかを見にゆきたいと思っています。

昭和30年代後半から40年代の高度成長期、当時アマゴ釣りやイワナ釣りに呆けていた私は、あちこちの山村で過疎化や集団離村による廃屋を見たことがあります。それと同じような事情によるものと思われる幾つかの廃墟を、先般の中国の山村への旅でも見てきました。
いま、日本では大型の廃墟が問題化しつつあります。老朽化し更新されつつあるものはともかくとし、バブルの崩壊以降、倒産などで放置されている店舗などの数々です。
街道筋を走ると、放置されたモーテルやドライブイン、パチンコ屋などがいたるところに散見されます。
大型の観光施設などでもそうです。この辺りでは、三河三谷の「ふ◯ぬき」、定光寺の「千◯楼」など、かつてはそれぞれ隆盛を極めたものが今や手が付けられぬほど無残な姿を晒しています。
それらへの侵入者は絶えず、放火などの危険な事例もあります。
また、殺人という無残な事件の舞台となった遊技場跡もあります。
こうなると、廃墟や廃屋を終わりゆくものへの哀愁の眼差しのみで見ていることもできなくなります。
いささか話が殺伐としてきましたので、最初の私がウオッチングしている柿の木のある廃屋に戻りましょう。
ここで私が「紀貫之もすなるうたというもの、六もしてみむとてすなり」とばかりに一首詠んでみました。
人はいさ心も知らず廃屋の柿ぞ昔の色に染まれり
元歌、「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける」(出展『古今集』春上・42)からパクったパロディです。
寒いけど天候には恵まれた師走の一日、定期的に観察している廃屋のひとつを訪れました。
今年は柿の生り年か、大小二本の柿の木はたわわに実をつけていました。しかしその間にある家はもう殆ど全壊状態に近いほど崩れ落ちていました。

これをほぼ同じアングルから撮した三年前のやはり12月の写真とお比べいただくとよくお分かりいただけるだろうと思います。その折にはまだ家の輪郭はかろうじて保たれていました。
また、三年前に比べ今年の柿の実の付き方がはるかに多いこともお分かりいただけるでしょう。

上の写真の三年前です 時間が見えますね
さて、私がなぜ廃屋に惹かれるのかは自分ではよくわからないのですが、そのひとつのルーツは小学校の高学年か中学生の頃覚えた唱歌の「故郷の廃家」にあるようです。
この物悲しい歌はなぜかわたしの胸をうつものがあったのです。
幾年(いくとせ)ふるさと、来てみれば、
咲く花鳴く鳥、そよぐ風、
門辺(かどべ)の小川の、ささやきも、
なれにし昔に、変らねど、
あれたる我家(わがいえ)に、
住む人絶えてなく。
昔を語るか、そよぐ風、
昔をうつすか、澄める水、
朝夕かたみに、手をとりて、
遊びし友人(ともびと)、いまいずこ、
さびしき故郷(ふるさと)や、
さびしき我家(わがいえ)や。
というのがその歌詞ですが、作詞は犬童球渓(いんどうきゅうけい)です。そして作曲はウィリアム=ヘイス(W.S.Hays )というケンタッキー出身のアメリカ人だそうです。
なお、この犬童球渓というひとは、やはり物悲しさが漂う「旅愁」の作詞者でもあります。なおこちらの方の作曲はジョン・P・オードウェイ(John P. Ordway)といい、やはりアメリカの作曲家です。
さて、「故郷の廃家」ですが、後年知ったことによるとこの歌の哀愁を引き立たせるもう一つのエピソードがあります。
それはすぐる大戦の末期、硫黄島での戦争で日本軍はまたしても無謀な玉砕を敢行し、20,000名余の戦死者(あの小さな島でですよ)を出すのですが、そのうちに少なからずの少年兵たちが居たというのです。
彼らは昼は米軍の猛攻を逃れて洞窟に身を潜めているのですが、夕刻、攻撃が止むと洞窟を出て、故郷の方角を向きこもごもこの歌を合唱したというのです。しかしやがて、彼らの歌声も戦火によって完全にかき消されていったのでした。
こうした事柄がない混ぜになって私に廃屋への関心をもたらしているのかも知れません。重ねて私自身の自出に関わる思いも多少はあるのかも知れません。

ところで、もう一箇所、私がウオッチングを続けている廃屋があります。
最初の写真は数年前のものです。
そして次のものは一昨年のもので、家を覆っていた草木はある程度取り払われています。そして横手に通じる細道には人の往来しているような跡がありました。ひょっとして誰かが住んでいるかも知れない感じがあるのです。住んでいなくとも出入りはあるようです。
そんなこともあって、あまり嗅ぎ回らないことにしていますが、そろそろどうなったかを見にゆきたいと思っています。

昭和30年代後半から40年代の高度成長期、当時アマゴ釣りやイワナ釣りに呆けていた私は、あちこちの山村で過疎化や集団離村による廃屋を見たことがあります。それと同じような事情によるものと思われる幾つかの廃墟を、先般の中国の山村への旅でも見てきました。
いま、日本では大型の廃墟が問題化しつつあります。老朽化し更新されつつあるものはともかくとし、バブルの崩壊以降、倒産などで放置されている店舗などの数々です。
街道筋を走ると、放置されたモーテルやドライブイン、パチンコ屋などがいたるところに散見されます。
大型の観光施設などでもそうです。この辺りでは、三河三谷の「ふ◯ぬき」、定光寺の「千◯楼」など、かつてはそれぞれ隆盛を極めたものが今や手が付けられぬほど無残な姿を晒しています。
それらへの侵入者は絶えず、放火などの危険な事例もあります。
また、殺人という無残な事件の舞台となった遊技場跡もあります。
こうなると、廃墟や廃屋を終わりゆくものへの哀愁の眼差しのみで見ていることもできなくなります。
いささか話が殺伐としてきましたので、最初の私がウオッチングしている柿の木のある廃屋に戻りましょう。
ここで私が「紀貫之もすなるうたというもの、六もしてみむとてすなり」とばかりに一首詠んでみました。
人はいさ心も知らず廃屋の柿ぞ昔の色に染まれり
元歌、「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける」(出展『古今集』春上・42)からパクったパロディです。